一人きりの幸福

 彼に仕える為にはとにかく生きて、すっからかんの頭にこの世界の情報を詰め込まなければならない。私が持っている情報は最低限生活が出来る程度の知識と、教会が国の外れにあるということだけだ。食べ物を確保する方法も知らないし、真っ暗で埃の匂いがする自室も無くなってしまった。まずは何処か雨風を凌げる場所を見付けなければ。

 念の為、赤髪を隠せるように薄い毛布を頭から被ってから、壁だったものを乗り越えて外に出る。目に飛び込んできたのは焼け崩れた建物、踏み付けられた恐らく飾りだったもの、上半身だけの人、まだ燃えている旗飾り、壊れた像、頭だけない人、割れた石畳、真っ黒に炭化した人、傷一つ泣いものの苦痛に顔を歪めた人、腹が裂かれて内臓が零れている人。肉片と血が、足の踏み場も無い程に地面を覆い尽くしていた。

 普通であれば吐き気を催し、というか確実に胃の中のものを全部吐き出して精神に異常をきたす程の惨状だ。しかし、どういう訳か私は特に何も思う所は無く、このように殺されなくて良かったと思ったくらいだった。ここまで何も感じなかったのは今思い返せば、どうせ生きていても教会の人達と同じように私を虐げるのだろう、と無意識に思っていたのだと思う。

 まだ乾いていない血が毛布に付かないよう、裾を持ち上げて歩を進める。風が草木を揺らす音以外は何も聞こえない静かな街に、靴底が赤い水を踏む音と小さな呼吸音だけが響いている。目に映るもの全てが知らないもので、自然と頬が紅潮していくのが分かった。建物が崩れていようが関係無い、血肉が飛び散っていようが関係無い、私には全部輝いて見えた。

 街を一通り見て回る頃には、太陽が沈んで月が辺りを照らしていた。まだあれもこれも見足りないという体を落ち着かせて寝床にする場所を考えていると、不意に腹が甲高い音を立てた。そういえば朝から何も食べていなかった。確か散策していた時に、食べ物が沢山置いてあるところがあった筈だと、記憶を掘り返してその家まで足を運ぶ。鍵の掛かっていない室内にはやはり溢れ返る程の食料があった為、そこを今後の拠点にすることを決めた。

 ずっと脇に抱えていた、散策中に見付けた使えそうな毛布を床に置く。その毛布は私が被っていた物の何十倍もふわふわで、一口に毛布と言ってもこんなに差があることに驚いた。そして食べたパンは、その毛布に負けない位にふわふわだった。余りにもふわふわだったので、掴んだ時は食べ物じゃないのではと疑った程だ。

 食事後は家の中を探索して回った。厨房が特に大きくて、沢山の器具が使いかけのまま放り出されている。銀色の深い皿の中や鍋の中には調理途中の食材が入っていたので、明日以降の食事にすることにした。

 食べ物が沢山置いてある部屋に戻って毛布にくるまる。今までは物置部屋にあった比較的柔らかい荷物にもたれかかって寝ていたが、この毛布は比べ物にならない。これだと床に寝ても体が痛くならないだろう。この日は今までに無い程、深い眠りにつくことが出来た。






 次の日からは、本が置いてある大きな家でひたすらに本を読んだ。子どもが文字を覚える時に読むであろう本を手探りで探し出し、それを繰り返し読んで文字を覚えた。幸いなことに本には音を閉じ込める魔術がかかっていた為、発音も同時に覚えることが出来た。

 一年で文字を覚えた後はとにかく色んな本を読んで、いるような知識もいらないような知識も頭に詰め込んでいった。この時に、私が拠点にしている家は店といい、この場所は図書館というらしいことが分かった。

 そして図書館に通って情報を仕入れる生活を続けておおよそ七年。言葉の意味や単語、生きていく上で必要な知識など様々な情報はついてきたが、そういえばこの世界の構造を知らないということに気が付いた。人界デイレー以外にも他の世界があるとは聞いたことはあるが、こればっかりは知識がついた今でも信じられなかった。

 抱える程大きな資料を引っ張り出してきて、床に置いて開く。中は文字と沢山の大きな写真で彩られており、その写真の中ではそれぞれの世界の風景と、見たことの無い生き物達が動いていた。数年前、初めて街を見て回った時と似た感覚が体中を駆け巡る。全く面白いことに、それを見ただけで私はいともあっさりと他に世界が存在することを認めたのである。

 本に載っていた世界は全部で十個。私、人が生きている世界を人界デイレー、その上には教会でよく耳にしていた天界メソン・エーマルがあり、本当に天使族がいるそうだ。人界デイレーの下には神妖族という種族がいる修羅界リコフォス、獣人族がいる畜生界ヘスペラー、小鬼族がいる餓鬼界ニュクス、最下層に魔族が存在する地獄界メサイ・ニュクスがあるらしい。そして天界メソン・エーマルの上には声聞界メセンブリアー、その上には縁覚界プロイ、更に上に菩薩界ヘオース仏界オルトロスとあるらしいが、この四つの世界には神族がいるとされている為、天使族以外は原則立ち入ることが出来ないと書かれていた。

 そして別の本に載っていたのだが、敬愛するアレウス様は修羅界リコフォスの王だそうだ。それを知った時はそんなに驚かなかった。むしろ、あんな美しい方が人族な訳が無いと思った程だった。

 だがここで問題が一つ発生した。修羅界リコフォス人界デイレーと違い、温度が高すぎて人が生身で行っていい場所ではないのである。耐熱魔術がかかっている間は何ともないのだが、解けた瞬間に火達磨になるという資料を見て、軽くトラウマになる位には恐ろしい世界なのだ。

 しかしそこに行かなければ敬愛するひとには会えない。どうしようどうしようと独り言ちながら魔術書を漁ること数ヶ月、図書館の地下で埃を被って眠っていた魔術書の中から「妖魔下り」という術を発見した。

「妖魔下り」とは、簡単に言うと人族と畜生界ヘスペラーに住んでいる獣人族が使える禁術で、使用する素材によって神妖族、小鬼族、魔族のどれかになれるというものらしい。しかし人と天使は、自分達の二種族と獣人族以外を劣っている種族だと考えているそうで、その劣等種族になるなど以ての外だと禁術指定しているらしい。名前も「妖魔『下り』」とする程なので、余程嫌っていることが見て取れる。

 だが私にとっては救いの手でしかなかった。これで希望が見えたとばかりに、神妖族がまとめられている図鑑を山積みにして目を通す。竜人の鱗、セイレーンの羽根、妖精の鱗粉、ヘルハウンドの牙、人魚の鱗、バジリスクのトサカ、ユニコーンの角……魔道具が置いてある店で手に入りそうなものから入手困難なものまで、とにかく名前を書き連ねた。その紙を引っ掴んで、廃屋と化している店を全部回って素材を掻き集める。そこから修羅界リコフォスにより適した生態の種族を調べ、素材とするものを絞っていった。

 禁術を発見してから数週間後、私が最終的に「妖魔下り」の素材として選んだものは火のトカゲ、サラマンダーの皮だった。数ある中でこれを選んだのは、炎の中でも生きていけるサラマンダーであれば、万が一のことがあっても灼熱の修羅界リコフォスでも生きていけると考えたからである。それにアレウス様は火を司っているそうなので、少しでも彼と同じ部分が欲しかったからだ。

 長机と椅子を端へ押しやって魔法陣が描ける程度の空間を作り、チョークを木の床へと走らせる。自分一人が入ることの出来る魔法陣は大きくない為、すぐに描けてしまった。魔術書と皮を持つ手が微かに震えている。

 恐怖心が無いと言えば嘘になる。自分の体が別物になるというのは分かっていても怖いし、それに一定の確率で死亡するリスクだってある。でもそれ以上に、あの世界へ行かなければいけないと体が言う。何年経っても脳裏に焼き付いている美しい赤色が、私の生きる意味なのだ。

 サラマンダーの皮を魔法陣の中央に置き、それを跨ぐ形で立つ。重い魔術書を片手で抱えて、唱える呪文を確かめるように指でなぞった。


「エピテューミアー・ソマテークシス・ゴディニオンエパノルトーマ・エピオンビオス」


 私のたどたどしい詠唱が反響して、それから静まり返る図書館内。足元の魔法陣も素材も、手元の魔術書も反応は無い。

 魔法陣を描き間違えた?呪文を読み間違えた?それとも術自体がデタラメだった?何が原因かは分からないものの、「妖魔下り」は失敗に終わったみたいだ。それ以前にそもそもこれが初めての魔術なのだから、成功する確率の方が低いに決まっている。少しでも早く会いたいと気が急いてしまった為に、簡単な魔術をすっ飛ばして高度なものを使用しようとしてしまった。失敗理由としてはそれしか考えられない。

 しかし半端に術式が展開して、人族とも他種族ともとれないぐちゃぐちゃの姿になって死ぬより、術が展開すらしない方が余っ程良い。死ねば彼に会うことすら出来ないのだから。

 息を一つ吐き出して、足元にあるサラマンダーの皮を拾い上げようと上体を曲げる。


「え、」


 くすんだ色をしていた筈の素材は鮮やかなオレンジと赤、黒の斑模様をしていて、淡く光を放っていた。

 曲げていた体を起こして一歩後退るよりも早く、素材にまとわりついていた光は大きなトカゲに形を変えて、すぐ側にあった私の足をかけ登ってくる。途端、全身が炎に包まれたかの様に熱くなった。服が燃えて、肌が焼けていく感覚。呼吸をすると、熱が喉を通って肺まで焼いた。

 なんだよ!ふざけんな!しょーもない人生これで終わりかよ!チクショウ!チクショウ!!

 叫んだつもりが、声は一音も出なかった。

 一人廃墟となった街で数年、毎日毎日夕陽色の髪と、星の様に輝く瞳と、鮮血の様な鎧を思い出して生きる目的にしてきた。それなのに、もう二度と目にすることは出来ないのか。私の人生何だったんだろう。

 あぁでも、あの方のことを思いながら生きたのは楽しかったな。生まれて初めて優しく触れてくれたひと、生きながら死んでいた毎日に希望をくれたひと。


「アレウス様」


 声にならない声で愛しい方の名前を紡ぐ。やがて意識すらも熱に呑まれていった。

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