一話 血濡れの英雄 ⑨

 足を踏み出した。汗で身体をぐっしょりと濡らし、息を切らしながら。地を蹴った。心臓が張り裂けそうな痛みに、風が喉を焼く痛みに、耐えながら。腕を振った。あらゆる感覚を置き去りにして、ただ走ることだけに集中して。




 やがて限界を迎え、へたり込む。日は沈みつつあり、廃れた町が影を落とし、街路を闇に埋めていく。子供が甘えるような鳴き声が聞こえて、振り返れば影からディストラルが飛び出してきた。獅子の下半身をもったイルカ。




 大築みたく特殊な武装もないのによくやれた方だろう。立ち上がろうとするが、力が入らない。ゆっくりと距離を詰める奴に対し、出来ることは睨んで威嚇することだけ。昨日よりもっと酷いチェックメイトだった。




 違うのは、不思議と心残りがあったことだった。俺は人生に未練がない。友や家族と呼べる人間も心を躍らせるような趣味もないのだから、当然だ。




 こんな荒廃した世界で生きようとしてるのだって、理不尽に奪われるのが気に食わないだけだ。目的も、理由もない。




 だから最後まで抗えればそれでよかった。後悔なんてないはずだった。ならどうして俺の胸中はこんなにもやつくんだ?


 


 不愉快だった。苛ついた。せめて心残りが解消するまでは生きたかった。膝に、肩に力を入れる。ディストラルが叫び、爪を振り上げる。




 本能的な恐怖に逆らって、軌道を見逃さぬよう目を見開いた。直撃するまでに、身体が動くかは分からないし、動いたとして避けられるかも分からない。




 だが今は生き延びる可能性を少しでも増やしたかった。爪はディストラルの背を通り、頭上を過ぎ、俺の脳天に迫る。




 俺の足が右に動く。爪の行く先は耳へ。左の膝がぐらつく。爪の切っ先は肩口へ。態勢が崩れる。爪は腹へ。こぶしで地面を押した勢いで転がるように右へ。そこがタイムリミットだった。異物が肌に侵入し、軽く左腕の肉を裂いた。




 汗がどっと噴き出し、肌が熱を帯びる。焼けるような痛みに俺はたまらず呻いた。




「うあああ…」


 


 次の爪撃が迫りくる。狙いは左腕。避けようとするが、あまりの痛さに力が抜けてしまう。なお悪いことに中途半端に動いたせいで、爪の軌道が頭上に向かう。そのまま爪が振り下ろされ、脳天に迫った時——赤黒い鎧を視界の端に捉えた。




 銃声と錯覚するほど鋭く、強く、乾いた音が鳴った。空気が揺れ、痛むほどの衝撃が肌に伝わった。弾丸のような速さで、動きで、大築が一直線に俺へ肉薄した。




 そのまま眼前のディストラルを抱き寄せ、通り過ぎる。勢いを保ち、直進を続け、その姿は小さくなってゆく。やがて廃ビルに突っ込み、余波で瓦礫が撒き散らされた。




 白の石材が落下していく中、妙なことが起きる。重力に逆らうようにしていくつもの黒い塊が浮かび上がったのだ。塊は瓦礫を避け、空中で集まると、一つの形に集まりながら、放物線を描いて、こちらに飛んでくる。




 世界から形を定められていたかのように、中空で塊はアタッシュケースを形作る。そのまま地面に落ちると、道路を滑り、止まった。




 俺はそこでやっと立ち上がれた。ふらつきながら瓦礫の山となったビルに歩を進めると、積み重なった灰色と茶色の瓦礫群の中に朱色を見つけた。近づくと、瓦礫に埋もれた大築の姿がある。




 こちらに気づいたらしい。遠すぎてぼやけた中でもあいつが頬を緩めたのだけはわかった。


 


 腕が上下して、足は地面を蹴る。息は荒い。気づけば俺は走り出していた。だが、疲労で膝は笑い、息は切れ、風に撫でられた傷口がじくじくとうずき、一歩はどんどん小さくなっていく。




「荒場…くん! 気を…つけて! まだ…ディストラルが…残ってる!」




 大築は顔をゆがめながら、途切れ途切れになりながらも、声を絞り出して俺に忠告した。立ち止まって、後方に視線を向ける。いたのは三体のディストラル。




 尻尾のついた四足歩行。体毛が爪のようになった人型の個体。そして巨躯を携えた猪。どいつもあちこちの肉が抉れて満身創痍といった様子ではあるものの、俺を屠るにはそれでも十分だろう。




 視線を戻す。大築は咳き込み、血反吐を吐きながらも笑顔を作った。濁った笑顔だった。それもそのはず。あいつの下半身は瓦礫に埋まり、上半身は血だまりに浸かっている。おそらく全身を怪我しているはずだ。




「どうして俺を気にかけるんだ! 今、大変なのはお前の方だろうが!」




 左腕の痛みを誤魔化すように、怒鳴るような語気で俺は訊く。言い終えると、喉が詰まる。咳き込んで、淡を吐き捨てた。




 瀕死の大築が優先させるべきは俺であるはずがない。誰だって自分が一番大事だ。保身の為なら近しい人を裏切り、他人にこびへつらう。




 たとえあいつが人一倍優しかったとしても、家族でも、友達でも、ましてや会って二日も経ってないような俺に。最後まで尽くす義理なんて。




 最後までお前を信じ切れなかった俺のために命を懸ける理由なんて、あるはずがない。




 大築は疑問には答えなかった。代わりに笑顔を返して、叫んだ。




「荒場…くん! アタッシュケースを…開いて! そうすれば…あなたは…」




 言葉の続きと大築の姿は瓦礫に遮られた。ビルが崩れたのだ。妙に現実感がなくて、俺はぼんやりと眺めていた。やがて瓦礫の山が出来上がると、置き去りになった思いが次々と去来した。




 大築に言いたいことがまだまだあった。訊いてみたいことがあった。あいつといれば何かが変わると思っていた。これからだった。俺を心配させまいとしているのか、瓦礫に埋まる直前まであいつは笑顔だった。




「ふざけやがって…」




 バランスも、方向も定まらない、酔っぱらいのような酷い足取りで歩く。大築はもう死んでいるかもしれない。だが、諦めたくなかった。中途半端な終わり方なんて納得がいかなかった。




 鎧に形を変えるアタッシュケース。大築が残した打開策。あいつはそれを開けと言った。何を意味するのかは判然としない。だが俺が縋れるのはそれしかなかった。




 後ろから呻き声が近づいてくる。時折、飛び道具が風を切り、アスファルトに深々と突き刺さった。放たれたのは剣を削ったような形状の爪。物凄い切れ味だ。当たりどころが悪ければ即死だろう。が、躱せる余力も気にする余裕も残っていない。




 鉛のように重い全身に、押さえなければ一層うずく左腕、がくつく膝。上手く動けるはずはなく、心が急かされるばかりだった。




 やっとの思いでケースまで横断歩道一つほどの距離に辿り着く。そこで何度目かの風切り音。ふと腿に違和感。途端に膝から崩れ、立ち上がれなくなる。遅れて激痛がやってきた。




「がああああ…」




 腿が刺し貫かれていた。たまらず呻き、身をよじろうとするも、それすらかなわない。右足が爪によって道路に縫い留められていたからだ。異物を握りしめ、覚悟を決めて引き抜いていく。




 身体の一部が捥がれるような感覚。喉から血を出すような勢いで叫んで踏ん張り、手足から力が抜けるのを防いだ。幸いにも爪を抜くことができたが、勢い余って腿からも外れてしまう。




 足をつたって、全身にぞわりとした感覚が広がった。頭がくらくらする。神経を傷つけたらしい。足がしびれてきた。朦朧とする意識を痛痒がなんとか引き留めていた。血を流しすぎたかもしれない。立ち上がることはもう無理だろう。




 だが、まだ進むことは出来る。右手をコントロールに、左手を動力に回し、這うようにして俺は再度、動き始めた。




 飛び道具はまだ止まなかった。奴らも限界なのか、狙いを定めるのは難しいようだ。が、少しずつ回復しつつあるらしく、爪が刺さる位置は徐々に俺へ近づきつつあった。




 片手で全身を引きずるたび、思考が緩やかになる。




 もう楽になってもいいんじゃないか?


 


 ここまで頑張った方だろ?


 


 もう世界は滅んだも同然なんだぞ?




 この先生きてたって何の意味があるんだ? 




 頭を過ぎるのは死への誘惑。それすら、魅力的な提案に思えてくる。




「うるさい、黙ってろ」




 だが、たった一つの思いが俺を押しとどめる。自分の弱音を黙らせるため、俺はあえてそれを口にする。




「おれは」




 右手を伸ばす。咳き込んで言葉が途切れた。奴らの怪我が回復しつつあるのか、煩わしい咆哮が盛んになってゆく。




「あいつの世界を」




 肘と左ひざに力を入れる。踏ん張ると息が漏れて、続きが遮られる。道路にこすりつけた肌を小石がなぶった。




「見たいんだ!」




 頭を腕まで引き寄せると同時に、胸中の思いを吐き出した。もう一度手を伸ばすと乾いたインクのようなざらついた感触を感じた。




 さすってみれば金属特有の冷たさとねばついた生々しい触り心地がやってきた。眼前にあったのは、赤黒い外殻と銀の留め具がついたアタッシュケース。サイズは大きくモニタの一つでも入りそうなほどで、デザインは黒の単色がもとにするシンプルなものだ。




 ——グルゥウアアッ! グルア! グルウウアア!




 ディストラルが後ろで咆哮する。喉は掠れ、咳き込むように叫びは途切れる。それでも滲む威厳は色褪せない。奴らの足音がやけに重々しく感じられた。




 ケースに手が届いた安堵で鈍りかけていた危機感が一気に引き戻る。両端のロックを外し、左足だけを支えにして、上口を後ろへと押し出した。見た目通り、かなりの重さがあり、疲弊していた俺はケースを開けると、途端に脱力してしまい、その場に倒れこんだ。




 小さな黒点が羽虫のような速さで視界を横切る。見上げると、宙には無数の黒片が浮かび上がっていた。そこで俺の視界は影に覆われる。その正体は猪型ディストラル。巨躯を生かし、俺を踏みつぶそうとしているのだろう。




 試みは黒片に遮られた。散開したそれらは衝撃で猪を吹き飛ばし、俺に纏わりつく。少しすると黒片が集合し、互いに結合して、小さなパーツを作り出した。




 パーツ同士が出来上がると、再び集まり、俺の身体を覆い、腕、脚、胴、頭と次々に部位を組み立てていく。




 やがて全ての黒片が鎧という形に統合された時、俺はそれが元から身体の一部であったかのような錯覚を抱いた。




 何かを着ている感覚がないのだ。鎧の重さは感じられず、内側で金属が肌と触れ合う感覚もない。明らかに通気性が悪そうな見た目をしていたにも関わらず、蒸し暑くもなく、だからといってひんやりとしている訳でもない。




 何よりも驚いたのは五感がいつもと全く変わらなかったことだ。肌を撫でる風、鼻を刺す血の匂い、ディストラルの足音、どれも正常に感じられる。緑のバイザーを通しているはずなのに、視界すらも変化が見られない。鎧は不気味なほどの自然さをもって俺の身に馴染んでいた。




 立ち上がる。さっきまで瀕死だったのが嘘のようだった。疲労と痛みは消え、頭はいつもよりクリアに回る。動作に淀みがない。普段通りに膝が、肘が曲がり、しっかりとした足腰で地面を踏みしめられた。




 甲高い金属音が鳴った。見遣れば、弾かれた爪が宙を舞っていた。耐久も十分らしい。しかも痛みはなく、せいぜい痒くなった程度。鎧を通しても五感が感じられるのに痛覚はその限りでない。どうやら都合の悪いところは例外が設けられているようだ。




 体毛のように爪が生えたディストラルが襲い来る。奴は爪を剣のように構えて、俺に斬りかかる。夕陽を反射した爪は金属のような光沢を煌めかせ、喉元に迫る。




 ただ、動体視力が強化されているのか、その動作は緩慢に見えた。俺は後ろに軽く下がって躱し、右フックでカウンター。拳は爪の鎧をいともたやすく砕き、奴の顔面に炸裂。肉を抉り取り、脳に到達する。




 柔らかい、嫌な感触だった。命を奪うこと。否応なく意識させられる。元はこいつも元はただの生き物だったかもしれないと。だが俺は奴らが人々を虐殺するのをこの目で見た。今更、躊躇うはずもなかった。




 拳を振り抜く。奴は肉片を散らしながら吹き飛び、激突した壁に血の塗装を施すと、そのまま動かなくなった。




 次の相手は尾のついた四足歩行。奴は尾を鞭のようにしならせ、俺に肉薄する。飛び上がり、回転して勢いをつけ、唸りを挙げた尾で首元を狙う。腕を上げ、それを掴む。




 対応に必要な動作はそれだけだった。どうやら反射神経まで強化されているらしい。宙ぶらりんになって、必死に暴れまわるそいつを振り回し、十分な勢いをつけてから地面に叩きつける。中身がぶちまけられ、べったりとした血の感触が俺を襲った。




——グルゥゥアアアア!!




 間髪入れずに、横合いから勢いをつけて猪が突進してきた。生身であれば充分脅威となり得ただろう。だが鎧を着て多面的に能力が強化された俺には既に児戯にも等しかった。




 鼻っ柱に拳をくれてやる。直撃すると、拳が猪の顔面に突き刺さった。巨躯で俺の視界が塞がれながらも、確かに拳は皮膚を、肉を裂き、頭蓋を、脊髄を砕く。クッションのように優しい感触で俺の頭部を包んだところで、奴は勢いを失う。腕を振ると、物言わぬ骸となったそいつがすっぽ抜け、みるみるうちに血だまりが広がった。




 敵は全て片付けたが、ほっと一息をついている場合ではない。あいつを速く助けなければ。目的地に向かって一歩を踏み出す。




 大築は重傷だ。出血は酷い。そのうえ、崩れた瓦礫に挟まれたはずだ。予想されるあいつの身体への影響は、出血多量、臓器損傷、頭部への強い衝撃。




 もう、死んでいても——。




 嫌な想像が止まらない。焦燥が胸を満たし、鼓動が速まる。無駄に思考が駆け巡った。急迫した状況に、消え去った疲労が姿を現したと誤解しそうになる。軽やかになったはずの足取りがぬかるみに囚われているように重く感じた。




 だから、俺は、




 身体能力をもっと強化することにした。




 突如として、風を得たように足が速まった。


 違和感が何かを理解できた時には既に瓦礫の山まで来ていた。さっき俺は鎧の機能を知っている前提で思考し、使った。つまり、鎧の使い方を既に理解していたことになっているのだ。




 底知れない薄気味悪さを感じつつも、今は差し置き、大築の捜索を始めた。そのうち血だまりが広がっている場所を見つけ、大急ぎであたりの瓦礫をどかしていく。




 作業の途中で、気配を感じ、振り向き様に殴った。いたのはさっきのイルカまがい。臓腑と骨片が飛び散り、そいつは倒れ伏した。




 鮮血が舞う中で、俺は人らしき影を捉えた。血に視界を塞がれることも厭わず、俺は咄嗟に駆け寄った。血に濡れていたせいで、顔はよく見えなかった。だが、背格好や服の形は大築に類似している。血を失っているが、生きている。ひとまず安心し、思考が緩やかになった。




 だからだろう。




 ディストラルの背後にいた違和感に。




 大量に血を流してなお平然と直立している異常さに。




 胸や手を突き破った骨や右目から生えた蜘蛛の足に。




 俺は、気づけなかった。


 


 大築が突然、飛び掛かる。反射的に腕が動く。止めようとした時にはもう手遅れで、拳があいつの腹に吸い込まれていく様子を見送ることしか出来なかった。




「う…あぁ…」




 か細い呻き声が耳で霞み、消えてゆく。嫌な感触が手を包んだ。柔らかく、それでいて、ねっとりとした感触。


 


 気味が悪くて、抜け出そうとして手を引いた。ずるりと音を立ち、大築が地面に倒れ伏す。あちこちから歪に骨が突き出した胴に、一つ、大穴が開いていた。




 右手を上げる。しずくが大穴へと滑り落ち、広がっていく血だまりの一部となってぽしゃんと音を立てた。




 拳を見る。夕陽を受けて血に濡れたそれは鈍い光沢を放つが、日が沈むにつれ闇に飲み込まれていった。


 


 俺が大築を殺した。




 その事実をようやく受け止めてからは呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。


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