[Episode.10-邂逅•A]


───市松の処遇を決めるために行われた"姫路会議"から数日後。


イグニスは楢崎のアパートにすっかり馴染み、約束通り楢崎に教えてもらいながらプラモデルにも挑戦するようになっていた。

また忙しさが一段落ついたことで、早朝は木笠の家まで朝食と弁当まで作りに行っていた。当然これは木笠が家を数日空けない、大阪で試合に臨む日限定ではあったが…木笠は近くに住んでいるらしい小金本も呼びつけ、折角だから来いと楢崎も誘い、4人で食卓を囲む賑やかな朝食風景を実現していた。

さらに、小金本の"参戦"で料理の喫食人数が3人になったことで、イグニスは魔界料理人の試験に向けた新作レシピの考案を再開するようにもなった。3人はイグニスからの申し出…新作料理の感想提出を快く引き受け、思い思いの感想をメモや付箋に書き留めてはイグニスに伝えていた。


「にしても小金本選手、あんたも近く住みだったとはな」

「俺電車酔いするからな、移動はもっぱら車やねん。こないだの飲み会…イヤ話し合いか、あの時も帰りはタクシー使うしかなくてな。駅まで歩きながら、あんたらと話したかったんやけど」

「小鉢は新幹線もアカンからな、ひとりだけバスとか自家用車やねん、可哀相に。東京より遠い試合の時は俺らと一緒に飛行機使うたりするけどな」

「だから小鉢言うな!なんで"金本"の部分圧縮すんねん!」

「小鉢だって俺をアホユッキーとか言うたりするやろ。ほら折角の朝飯が冷えてまうやん、はよ食い」

「わ、話題逸らしよって…」


今日の朝食のメインは、ベーコンとブロッコリーのひとくちチーズパイ。38歳アラフォーの木笠の胃袋でも食べられる量が調整できるよう、という配慮からの小分け式だ。そしてサイドには、根菜たっぷりのコンソメスープ。暑い時期だからこそ、冷たいものの摂りすぎで体を冷やさないようにという気持ちからだ。


「いやー、美味いなぁ!男の子やのにこまい気遣いもできるし、イグニス君はええ主夫になれるで」

「うわぁジェンハラや、ジェンハラユッキーやー」

「えーっ誉めただけやん!?これもアカンの!?」

「俺は気にしてない、褒め言葉と受け取ったから大丈夫だ」

「最近はちょっとした事でもなんとかハラスメントって言われますからね…守秘義務あるので詳しくは言えませんが、警察に言われてもどうしようもないので頭を抱えるんです」

「怖いわぁ…おっさんもう何も言われへんやん…」


賑やかな朝食の時間が流れるうち…ふと、壁にかかっているカレンダーがイグニスの目に入った。そう、今日は───


「あ、そうだ…今日は8月4日、小兵の誕生日か」


イグニスの何気ない一言を聞いて、木笠と小金本の食事の手が止まる。そして───


「ちょお、そない大事なことはもっと早う言うてや!なんも用意してへんやん、えっどないしよこないだの投球回3000回のウイニングボールとかにサインして渡したらええ!?ちょお待っとってや!」


木笠は大慌てで自分の皿に盛った料理を素早く平らげ、家の奥へと早足に消えた。それを見送った小金本も、横に座る楢崎の肩を叩き、自身に背中を向けるよう少し体を捻らせた。


「楢崎君後ろ向いて後ろ、とりあえず背中にサイン書いたるから。プレゼントは改めて買うてくるわ」

「い、いやいやサインしてもらえるだけで十分贅沢ですから!」

───「あったぁ!すぐ出せるん、こないなもんしかないのすまんなぁ。はい、サイン書いといたで。俺も改めてなんか買うたるさかい、欲しいもんあるんやったら言うてや」

「ギャーッ家宝ッ!!もうこれで10年分ぐらいプレゼント貰いましたからッ!!」

「そない大袈裟な…」

「大袈裟じゃないです墓まで持っていきますむしろ持ち歩きます永遠に」


木笠から受け取ったボールを握り潰す勢いで両手で挟み込む楢崎に、イグニスの呆れた声が飛ぶ。


「家宝にするのはいいと思うが、持ち歩くのはやめておいた方がいいぞ。俺達の使命はアンノウンや悪性魔族を叩くことだ、その戦闘中に破壊されたら取り返しがつかないだろ。俺達以外の誰にもバラさず家で保管しておけば盗まれるリスクも低いだろうし、一番安全な置き場所なんじゃないか?」

「グギッ…そ、それはそう、ですが………」


イグニスは悄気る楢崎から一旦視線を外し、改めて木笠の方を見やる。


「木笠選手、ひとつ頼みがある」

「ん、何や?」

「今日はあんた達も試合だろうから…夜遅くなるだろうけど、試合が終わった後、もう一度この家に集まってもいいか?小規模でいいから、小兵の誕生日パーティー・・・・・・・・をやってやりたいんだ。さっき朝食作るついでに、夕飯とケーキの仕込みも終わらせてある。勿論、あんた達も優勝争いで忙しいのは分かってる。明日に響くようなら仕込みの用意ごと持って帰るけd」

「ええで!!!!」

「ヒエッ…」


木笠の即答爆音に、イグニスは驚いて思わず身を縮めた。


「あっ大きい声苦手やったっけ、すまんすまん…誕生日パーティーええやん、時間短うてもええからやろうや!小金本、今日は特に本気で勝ちに行かなアカンで。楢崎君の誕生日なんやし、まずは快勝をプレゼントしたらんとな」

「まあ、抑えクローザーは点数リードしてへんと出てこれへんもんな…ユッキーを登板させるには、結局勝っとらなアカンって事や。やったろうやないかい」

「よーし、気合い入ったで!お弁当まで作ってもろて、ボコボコに負けて帰っては来られへんな!」


この場の最年長とは思えない元気を見せる木笠を、イグニスも苦笑しながら眺めていた。そして…


「それまでのいい流れは俺が作っておかないとな。俺はこの後、小兵を水族館に連れて行こうと思ってる。今日1日を息つく暇もないほど楽しませてやるつもりだ」

「え~、水族館ええなぁ。俺も行きたかったわ~」

「駄々っ子か、俺らは今シーズンの仕事こなしてからや。オフ入ったらキャンプ入る前に行けばええやんか」

「…せやな~、シーズン中は試合に集中せなアカンよな」


木笠が一瞬言葉に詰まったのを、イグニスは見逃さなかった…が、今は敢えて追及することはしなかった。


「(…気のせい、だよな)」





───水族館は夏休みという事もあってか、そこそこの混雑具合だった。


「うおっ…さすがにそうなるか」

「まあ、こういうとこは家族サービスやデートの定番ですからね。文句は言えません」

「1回だけ行ったが、福岡のマリンワールドも休日はこんな状態だった。仕方ないな、はぐれるなよ」

「子供じゃないんですから大丈夫ですよ」


イグニスと楢崎が雑談しながら人波を抜け、エントランスをくぐってすぐの広場で…楢崎達を見るや歩み寄ってきた少女・・がいた。どうやら服装を見る限り、この水族館のスタッフらしい。

褐色の肌に、藍色の髪を耳の下辺りで2つにゆるく結わえている。身長は166cmの楢崎よりさらに低い程で、菫色の大きな瞳が可愛らしく、頭にかかっている金の鎖の髪飾りも上品な印象を受けた。


「こんにちは!もうすぐイルカショーが始まりますので、お時間があれば是非イルカプールにお越しくださいね!」


弾けるような笑顔と、予想よりハスキーな声に意表を突かれ、思わず答えに詰まっていると…代わりにイグニスが少女・・に答えた。


「丁度いい時間だったか。提案に感謝する」

「イルカショーですか…人気でしょうし、こっちも混んでそうですね」

「この状況じゃ、何処のブースも似たようなものだ。座れる席があれば僥倖、ぐらいに思った方がいいだろうな」


イグニスが楢崎と話していると、少女・・が少し心配そうに表情を曇らせて楢崎の方を見やった。


「大丈夫ですか?顔色が悪いようですが…」

「ああ…少し気が滅入る事があったようでな、気分転換に連れてきたんだ。この小兵は今日が誕生日だから、それも兼ねてな」

「そうなんですね、お誕生日おめでとうございます!楽しい1日になればよいのですが。ともあれ、今日はゆっくりしていってくださいね…では、私はショーの準備に戻ります」


少女・・は一礼し、小走りに館内の奥へと姿を消した。

その背を見送りながら…イグニスが気づいたのは3つの違和感・・・・・


「気づいたか小兵。今の───神族だ・・・

「えっ?あの女の子が…」

「ついでに、あいつは男型だ・・・。肩幅と声質で分かった」

「え"っ………」


楢崎は伊良田が神族ということより、男であるという方にダメージを受けていた。しかし、イグニスが気づいた最後の…3つ目の違和感は、敢えて口にしなかった。


「(あの神族の声色…小兵に対して警戒していた・・・・・・。最初に駆け寄ってきたのは、ただの接客ではなく何かの確認・・・・・…だが、何を確認したかったのかまでは、現時点では分からない。なら…小兵本人の不安を増すような事は、わざわざ今言う必要はないだろう)」


そして…楢崎の方も、妙な違和感を覚えていた。


「(なんだ…今、あの子と話した時…頭の隅に火花が散った・・・・・・ような…)」

「小兵?どうした?」

「っ、なんでもないです。というか、今2人しかいないんですから小兵呼びやめてくださいよ」

「ん、じゃあ行くか、ケンゴ・・・

「───すみません小兵でいいです」

「…変な奴」


楢崎もまさかいきなり下の名前で呼ばれるとは思っておらず、恥ずかしさからつい"小兵"呼びを許容してしまった。


「(まったく…詰める距離感おかしいろうだろ…)」


楢崎は自身を落ち着かせるようにため息をつきながら、2人はイルカショーが行われるイルカプールへと足を向けた。


───イルカプールに着くと、やはりかなりの人が集まっていた。さすが、イルカは水族館の人気者と言ったところか。席は大半が埋まっており、ショーの時間まではあと僅か。それでもイグニスは、会場近くの飲食ブースを無視しなかった。何故なら…


「暑い…ショーの会場は屋外だから当たり前だが、少ししんどいな…」

「大丈夫ですか?熱中症に気を付けてくださいね」

「悪いな…俺も暑さで倒れたりして、あんたの誕生日にけち・・をつけるような事態は避けたい…何か飲み物でも買うか…。あんたの分も一緒に買うから、何が飲みたいか言ってくれ」

「じゃあ、お言葉に甘えて…この『海のヨーグルトブルーソーダ』とかどうですか?」

「いいな、俺もそれにしよう」


楢崎が選んだのは、カップの下に深い青色のソーダ、上部分にはヨーグルトフローズンが入った涼しげなドリンク。イグニスが2人分のドリンクを受け取ると、丁度イルカショーのプール中央で…


───『皆さ~ん、こんにちは~!イルカショーにようこそ~!』


先程の伊良田が、客席に向かって元気よく手を振っていた。


「おっ、始まるぞ」

「あそこ空いてますよ、ちょっと遠いですけど」

「この際構うか、座れればいい」


2人は会場のほぼ端に空いていた席に滑り込み、ドリンクを片手にショーを見始めた。


『今日皆さんをイルカ達の楽園にご案内するのは、私"伊良田イラダあい"です!本日はよろしくお願いしま~す!』

「伊良田あい…か。天界名は分からないが、うまく偽名をつけたな」

「そういえばそうですね…ティールさんみたいに横文字の名前だと不都合があるのでしょうか」

「(あるとしたら、あんたに対してなんじゃないか)」

「…イグニス?」

「なんでもない。そもそも、トレーナーが自己紹介するパターン自体が珍しいからな。あの神族そのものが、この水族館で人気を得ているスタッフなのかもしれない。そういった時に、やはり名前は馴染みある響きの方が好都合なのかもな」

「…差別するわけじゃありませんが、肌色的に横文字の名前の方が違和感ない気もするんですけどね」


2人は話し合いながら、改めてイルカショーへと目を向けた。

しかし…


『名前は左からレイク、ポンド、クリーク…あっあっ、待って!まだ紹介が終わってな…』


伊良田が紹介しようとステージに上がっていた3頭のイルカのうち1頭が、指示を待たずステージから滑り降りて水中へと戻ってしまった。


『な、なんだか今日は皆さんに早く技を披露したい気分みたいですね~!ではクリークの要望に応えて、早速皆さんにイルカの技をお見せしましょう!』


そんなアクシデントにも、伊良田はアドリブで対処する。これには楢崎も思わず上手い、と呟いた。が…

今度は指示を待たず、2頭のイルカがひとりでにジャンプをし始めた。


『レ、レイクもポンドも張り切ってるみたいですね!じゃあ、今度はタイミングを合わせて…!』


伊良田の表情はだんだんと泣きそうになっていくが、それでもどうにかショーを立て直そうと必死に指示を出している。観客はアクシデントも笑って楽しんでいるが、本来はしっかりとイベントをこなしたいスタッフとしては冷や汗もののはずだ。


「あーあー、グダグダじゃないですか…大丈夫でしょうか」


楢崎は心配そうに呟くが、イルカ達の様子を見て…イグニスの直感が働く。


「(あのイルカ達…怯えているな・・・・・・)」

「…どうかしたんですか、イグニス」

「イヤ…可能なら、あの神族に伝えたいことがある」


好き勝手に行動するイルカを睨むように観察するイグニスを、楢崎も不安そうに眺めていた。





───『今日はありがとうございました~!この後も、波来祖オーシャンシティを楽しんでいってくださいね~!』


結局、イルカショーはグダグダに近い形で終わってしまった。アシカやセイウチが指示通りに動かないことはそこそこあるが、賢いと言われているイルカがここまで徹底的に指示を無視するのは稀だ。


「まだ調教が十分でなかったのでしょうか?ですが、それならまだショーには出てこないはず…」


2人は冷たい飲み物で多少気力を取り戻し、連れ立ってのんびりと館内を歩きながらも、楢崎は先程のイルカの行動を謎に思っていた。それに対し、イグニスは未だ悩むように短く唸りながら答える。


「…もっと根本的な理由だな」

「根本的…ですか?」

「"それ"をどうにかしないと、何度やってもショーは永遠にあんな感じだろう。特定のスタッフを捕まえるのは骨が折れるが…あの神族は目立つからな、多少は探しやすいだろう」

「さっき、伝えたいことがあるって言ってましたよね…それって」

「待て、小兵」


イグニスは楢崎の言葉を遮り、その口元に手を翳して静かにするよう促す。しかし、館内は他の客の声で溢れ返っている。楢崎が自分ひとり静かにしたところで…と思った時


「───こっちだ、あの神族の声がした」

「えっ、この騒がしい中で…」

「神力も乗っているからな、ただの人間より察知しやすい。俺の察知能力は、ごく近くないとまともに感知できないが…運が良かった」


イグニスが目を向けたのは…薄暗く、水槽エリアからは死角になっている、スタッフオンリーのバックに繋がる扉。そこが僅かに開いており、声の出所はその奥、ということらしい。


「えぇっ…さすがに勝手に入るのはまずいですよ…」


楢崎はさすがに躊躇するが…イグニスについて扉の近くまでこっそり忍び寄ると、扉の奥から啜り泣きのような声が聞こえてきた。それでも、部外者の自分達が勝手に入れば最悪不法侵入…その理性が、心配を上回る事はできなかった。


「…少しだけ、少しだけ様子を見たらすぐ引き返しましょう」

「分かってる、あんたの仕事を増やしたくないしな」


足音を立てないよう、しかし素早く、声のする方へと近づいていく。そこは───建物の外、イルカ達の訓練プールらしい場所に繋がっており…その片隅で、先程の伊良田が座り込んで泣きじゃくっていた。


「あ、君はさっきの…」

「(うわっバカ…)」

「えっ…」

「あ"…」


イグニスが止めるより早く、楢崎が思わず声を出してしまい、伊良田が驚いたように顔を上げた。


「あなたは、入口で会った…い、いえ…どうして此処に…?」

「あー、えっと…」


言葉に詰まる楢崎に代わり、イグニスが諦めたように答える。


「あんたを探していた。スタッフ専用の場所に入ってしまったのは悪いと思っている。だがさっきのショーを見て、どうしても伝えたいことがあったんだ。それさえ済ませばすぐ出ていく」


伊良田は慌てて目元を拭い、立ち上がって楢崎とイグニスの方を見た。


「…すみません、情けない所を見せてしまって。イルカのトレーニングには全力を出しているのですが、なかなか言うことを聞いてくれなくて…ショーも今日の有様です。私よりお客様の方が、その原因に気づくなんて…私、向いてないんでしょうかね」

「イヤ、そうじゃない。理由は根本的、かつ単純なものだ」

「根本的…ですか?まさか私…イルカ達になめられてるんでしょうか…」

「なめているわけじゃない───その逆、あんたを恐れている・・・・・んだ」


イグニスの答えに…伊良田は涙で濡れた目を丸くした。


「恐れている…?」

「最初の紹介の時、指示を待たず水中に戻ってしまったのは、あんたの一番近くにいたイルカだった。指示もないのにジャンプをした2頭のイルカは、あんたが振り向いた時にあんたのすぐ側を回遊していた。言うことを聞かないというより…あんたから逃げている・・・・・ように見えた」

「そんな…私が、イルカ達を怯えさせるなんて…」

「単純って言ったろ、あんた神力が漏れてる・・・・・・・んだよ」

「っ!」


イグニスの指摘に、伊良田は驚いて目を丸くした。


「わ、私が神族だと見抜いて…」

「だから最初から神力が漏れてたんだって。此処までダダ漏れで分かりやすければ、俺みたいな察知能力が弱い半鬼魔族でもすぐ見抜ける。勘の鋭いイルカなら尚更だろ」

「あなたが、魔族…」


伊良田はしばらくイグニスを見つめていたが…やがてプール内のイルカへと視線を落とした。


「…無意識に、あなた達を怖がらせていたのですね。水面を叩いたり、大きな音で脅かしたりといった、イルカにしてはならない調教法は避けていた筈なのですが…どうしたら、あなた達と分かり合えるのでしょうか…」


伊良田がプールに向けて上体を屈ませ、中腰になった時…伊良田の首から下げられたスタッフパスの裏。そこに───神族の持つあの紋章が入ったカードが見えた。イグニスの言った通り、やはり伊良田は神族だったのだ。


「(イグニスは肩幅と声質で判断した言いよったけんど…ヒントは目の前にあったんやねやだな)」


そう楢崎が思った時…プール内で周遊していた1頭のイルカが、いきなり高くジャンプした。


「えっ」

「お?」


楢崎とイグニスは呆然とその様子を見上げていたが…イルカはそのまま勢いよく飛び込み、水飛沫が思いっきり2人を襲った。


「うわッ!」

「だッ…!」


バランスを崩した楢崎は、そのままプールへと落下し…


「(っまずい…!)」


咄嗟に助けようと手を伸ばしたイグニスも…濡れたプールサイドでは踏ん張りがきかず、引っ張られるようにプールに落下してしまった。


「お、お2人共…!」


伊良田は慌ててプールを覗き込むが…2人は上がってこない。実は───楢崎もイグニスも泳げないのだ。


「そんな…」


伊良田はすぐさまプールに潜り、意識の途絶えそうな楢崎とイグニスの襟ぐりを掴んで急浮上した。


「っ大丈夫ですか!?しっかり!」

「ぅ………ゲホッゲホ…すみません」

「ゴッホゴホ、オエッ…な、情けない…助けようとして、面倒を増やしてしまった…伊良田、だったか…あんたのお陰で助かった」

「ご無事なら何よりです、お気になさらず」


2人はなんとかプールの縁にしがみつき、ジャンプしたイルカに水中から尻を押し上げられ、どうにかプールサイドに上がることができた。一気に体力を持っていかれた2人は、ぐったりと壁に背を預ける形でプールサイドに座り込み、その横に伊良田も腰を下ろした。


「あーあ、海水でベタベタやねやだなぁ…すみません、巻き込んで」

「イルカは海の生き物だからな…とんだ誕生日にしてしまった、すまない」

「いえ、気にしないでください…君は自分を助けようとして巻き込まれたんですから、謝るなら自分の方です」

「お互い様、ということにしておくか…はぁ、生臭い」


イグニスが服の裾を手で絞るのを、楢崎は凝視しないよう目を逸らした。その様子を…伊良田は何故か微笑ましく見守りながら、改めて楢崎に声をかけた。


「お2人共、このオーシャンシティの裏には一般の温泉施設があるんです。勿論、入浴は有料ですが…契約の関係で、このオーシャンシティのスタッフには入浴回数券が支給されているんです。やっぱり海水に触れる機会が多いと、特に人間のスタッフの方はべたついて不快でしょうしね…これ、お2人でお使いください。この回数券は、そちらの方がイルカ達の不調の原因を教えてくださったお礼です。私も今後、神力の漏出を抑えるよう努力してみますね。回数券自体は一般の方が買うものと変わりませんから、あなた達が使用しても咎められることはありません。私は必要になったら改めて購入しますので、お気になさらず。一旦館内着を借りて、その間にコインランドリーで服の洗濯ができますので」

「ゴホッ…で、ですが君は…」

「私は大丈夫です。スタッフは閉園までは業務時間ですから、どちらにせよショーがあるごとに毎回温泉までは行けません。ちゃんとプール近くにシャワーがありますので、私はそちらで済ませられます。あなた達はスタッフではないので、そのシャワーで他のスタッフの方に見つかって、面倒なことになってもいけませんからね」


伊良田はにこりと笑うと、早速と立ち上がった。


「あの裏口から、スタッフ専用の通路で温泉施設に繋がっています。元々スタッフ専用なので、帰りはこの通路で水族館には戻れませんが、入場チケットがあれば東口から再入場できます。この後も、よいお誕生日を…私もシャワーを浴びに行きますので、これで失礼しますね」


プールから伊良田が立ち去った後…我に返った楢崎は慌ててスマホを取り出した。防水タイプにしていたのが幸いし、なんとか壊れずに済んでいた。…保護フィルムは、先日落としたショックでボロボロに割れていたが。

そしてイグニスもまた、スマホや財布を入れていたウエストポーチを慌てて漁る。こちらも一応防水仕様ではあったが、ファスナーの隙間から僅かに水が入ったらしく、財布が少し湿気を帯びていた。


「あーあ、後で拭いておかないとな…チケットは財布に入れてたからなんとか無事だ、少し湿ってるけど」

「………この前の甲子園のチケットを思い出しました」

「忘れろ忘れろ、もう終わったことなんだから。ほら、バレないうちにさっさと退散するぞ。じゃあなイルカ、俺のせいで水温を下げてたらすまん」


イグニスは楢崎の腕を掴むと、イルカ達にまで挨拶しながら、今度こそ足を滑らせないようにプールサイドを後にした。

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