[Episode.8-情報交差•A]

-波来祖中央ホスピタル・エントランス付近-


新居浜ニイハマ!今日の朝飯はスルメラーメンだぜ!」

「えー!またぁ!?私はいいよ…ていうか岸和田キシワダも懲りないね、こないだ崙先生に叱られたでしょ、院内がスルメ臭で酷いことになるからやめろ、って!そもそも美味しいの?それ…」


朝の診療時間前、まだ患者のいない待合室近くの廊下で話しているのは…藍那アイナと、同期の男性スタッフである岸和田飛鳥アスカ。新居浜は藍那の名字だ。


「だってさ~、何回も外に買い出しだって行けねえじゃん?最近その崙先生もおかしいっつーか、すごい調子悪そうだし…俺らの代わりにこっそり外出させて、気分転換の回数増やさせたいっつーかさ…」

「それはそうだけど、院内の空気を物理的に悪くするのもよくないよ…」

「でも積先生は誉めてくれたぜ?」

「あの人はそういうツマミみたいなの好きだから…その積先生もこないだ屋上でスルメ炙って院長に叱られてたけど」

───「おう何だ、俺の噂か?人気者は辛いぜ~」


待合室に姿を見せたのは、今しがた話に出ていた積本人。


「あ、お疲れ様です積先生!」

「おつで~す」

「ちょっと岸和田!ノリが軽い!」

「いい、いい。それより、ナs…崙見たか?」


積の問いに、2人は揃って首を振った。


「いえ、夜勤で見かけたきり、見てないです」

「飛び込みでオペ入ってたんで、そのオペが終わってるんならシャワールームとかにいるかもですけど」

「ほーん、了解」

「何かあったんですか?」


藍那の言葉に、積は少し声を低めた。


「いやなに、お客様・・・ってやつでな───こっちだ」


積の促しに、その背後から現れたのは…


「へへ…えへへ、ど、どうも…」


にやけ笑いが堪えられない、明乃宙アケノソラ…明乃宙夏輝ナツキと、その様子を呆れたように眺める双子の兄、一希イツキの2人だった。彼らはJITTEではないが、楢崎の同期で一般警察官だ。


「え、警察…」

「なに、警戒しなくていい藍那。こっちの弟の方がどうしても崙の奴に一目会いたいと聞かなくてな。楢崎ってお巡りに話を聞いたらしい」

「会いたいって…忙しいんですから、崙先生に変なことしないでくださいね。ただでさえ今の崙先生、すごく辛そうだから…これ以上負担を増やしたくないんです」


藍那が警戒したように言うと、兄の一希がバツが悪そうな笑顔を浮かべた。


「そのお目付け役兼手綱役として俺が同行してるってわけ。楢崎の代わりに、事件・・に関して聞きたいことを追加で聞きに来ただけだから」

「事件…?それなら…仕事ですし…」


渋々と藍那が答えた時、廊下の奥からナスターが濡れた髪を拭きながら現れた。飛鳥が言った通り、ちょうど手術を終えてシャワーを浴びていた所だったらしい。慌てて出てきたのか、着替えのスクラブも所々濡れたままだ。


「あい、どうした皆して?見慣れない顔もいるが」

「あ!!!!褐色メスお兄さん!!!!」

「は?」


いきなり大声をあげる夏輝の対応に固まるナスターに、夏輝は目を輝かせながら早足にナスターの目の前まで歩み寄った。


「初めまして唐突な訪問をお許し下sブエーーーー!」


息つく暇もなく迫る夏輝を引き剥がして後方に突き飛ばしながら、一希が笑顔でナスターへのフォローに入った。


「いやぁ驚かせたな、あまりにも夏輝のバカが素早すぎて俺も止めるのがちょっと遅れた。俺と夏輝は楢崎の同期、ちょっと話を聞きたくて邪魔させてもらった。時間はある?」

「ん、ああ…そういうことなら。しかまさんけよー驚かすなよ

「すまんな、だが安心してくれ。楢崎同様、俺達はあんたの味方だ。不安なら、あとで楢崎に俺達双子が来たことを伝えてもいい」

「…分かったさ、信じる」


一希は目ざとくも、ナスターの手が僅かに震えているのに気づくと、その右手を自身の両手でそっと包むように握りしめた。


「ぇ、え?」

俺達はあんたの味方だ・・・・・・・・・・、って言ったろう?」


一希は先程より、少しゆっくりと、念を押すようにナスターに伝えた。それで───ナスターはこの2人がどうして此処に来たのか、やっと察することができた。


「───そう、そっか」


思わず苦笑を浮かべたナスターを見て、一希は穏やかに微笑みながら告げた。


「…少し場所を変えようか。積先生だっけ、あんたもついてきてくれ」

「俺"は"!?」

「お前うるさそうだけど、置いてくと後が怖いしな…分かった、夏輝もついてきな」


一希はナスター達を連れ、場所を変えようとした時───


───「おや?午前の診療受付はまだですよね」

「っ!」


その声の主は、院長の佐陀のものだった。柔和に微笑んでいるような声だが、相変わらずフルフェイスのヘルメットをしていて真意を読み取りづらい。


───見逃すかよ。


「いやぁ失礼、院長に挨拶もなく。俺達もお忍びでお邪魔してるんで。波来祖南署の明乃宙一希と夏輝、双子の警察ですわ。ちょっと事件について聞きたいことが追加で出てきたんでね、それだけ聞いたらすぐ帰りますよっと」


一希は突然の院長の来訪にも柔軟に対応するが…藍那は一希の様子を見て唇を噛みしめた。


「(一希さん…目が笑ってない・・・・・・・)」

「そうですか、こちらこそ愛想がなくてすみません。お客様にお茶のひとつも出さず」

「いやいや、ほんとにすぐ帰るんで。ちょっと数分ばかり、こちらの先生方をお借りしますんで、いやぁすみませんねぇ、そこの問診室使わせてもらいますわ、ね、行きましょう?お医者さんだって忙しいでしょうし、時間も押してきちゃってるんで」


一希は忙しなく腕時計とナスターの顔を交互に見るようにして、一番近くの問診室にナスターを押し込んだ。


「あ、じゃあ私達も持ち場に戻ります。入口からの案内を頼まれただけなので…」

「おつで~す」


それを見届けた藍那と飛鳥も、佐陀に会釈してさっさとその場を後にした。


───佐陀が立ち去ったのを足音で察すると、積は大きなため息をついた。


「あっぶね…運悪く・・・このタイミングで来るとはな…やっぱラックコントロール・・・・・・・・・サボっちゃまずいってことか」


その言葉が終わるかどうかの時───衝撃音と共に問診室の空気が震えた。その視線が集まった先には…問診室の机に拳を振り下ろしている夏輝の姿があった。


「───よく耐えた、夏輝」


一希は…先程までの朗らかさを陰らせ、やや冷たく呟いた。しかしそれとは裏腹に…恐怖で足を震わせ、自らに凭れるナスターの背を撫でる手つきは優しいままだった。


「…見逃すかよ。俺が…今までどれだけ、そういう人達・・・・・・を見てきたと思ってる」


夏輝にもまた、先程までのお茶らけた雰囲気はない。そこにあったのは、怒りと悔しさ。


「俺が言い寄った時も、少し怯えた感じがしてた。それは俺の落ち度だとしても。あの院長が姿を見せた瞬間の、崙先生の怯えきった表情。見間違うわけがねえ、あれは───DVの被害者と全く同じ反応だ!俺の担当部署は、そういう案件で苦しむ人達を救うべく力を尽くす部署だ。…崙先生。あんた、今まで本当に怖い思いしてきたよな。もう大丈夫だ、もう…俺達が守るから、絶対大丈夫だから」

「悪いね、一芝居打ったんだ。俺達が聞きたい事件の話ってのは、あんたが受けたパワハラに関しての話。あんたがパワハラを受けているって、署に匿名の・・・告発があった。相手が相手じゃ・・・・・・・、楢崎には話しづらいと思ってな」


一希は匿名の・・・の部分で積に目配せするが、積はしらばっくれるようにあさっての方を向くばかり。一希は震えるナスターの肩を優しく撫でていたが、さすがの夏輝も一希に場所を代われとは言い出さなかった。それぐらい、我を失いそうになる程に佐陀に対して怒っていた。


「辛かったろう。命の危機を感じた事もあったろう。だが、もう安心していい。俺達警察に任せて」

「…りだ…」

「どうしたって?」

「無理だ、院長は超能力・・・を使う…普通の人間じゃどうしようもない。下手をしたら、俺の代わりに誰かが殺される!そんなの…そんなの嫌だ…!」


ナスターは全身を強張らせるようにして怯えるが、一希は余裕の態度を崩さない。


「大丈夫大丈夫、表向きの・・・・護衛は俺達警察がしっかりやる。そんで…積先生。強力な用心棒・・・・・・の当てがあるんだろ?」

「…ああ。取り合ってくれるかはともかく、話を持ちかける価値はある相手だ。土壇場で運良く・・・こっちに流れが来た感じだな。…ああ、そうそう」


積は徐に、懐からUSBメモリを取り出して夏輝に差し出した。


「院内にいくつか無断で隠しカメラを仕掛けておいた分だ。昨日の院長の所業・・もガッツリ映ってる。ああ、それ以外の個人情報とかは映ってねえから安心してくれ。あんたらと…楢崎ぐらいには見せてもいいか」

「…もしかして、それで昨日は助けに来るのが間に合ったってこと…」

「ま、そーゆーこったな。嫌な予感は前々からあった。お前ナスターが下手に動いたってのもあるが…ありゃ院長がやりすぎだ。ただでさえ院長の奴、脅迫で・・・ナスターをいいように使ってるってのに」

「っやめろフュッテ、それ以上言うな!」

「おっと、やべ…」


ナスターは…先程見せた怯えの何倍も強い恐怖と怒りを浮かべ、慌てて積の言葉を遮った。が、遅いと言えば遅かった。DVやパワハラを主に扱う部署の夏輝が、「脅迫」などという単語を聞き漏らすわけがない。


「どういうことだよ、あの院長、まだ崙先生に何かしてるって言うのか!」

「やめてくれ!!!!───頼む、お願い…やめて………」


ナスターの泣き叫ぶような悲鳴に、夏輝もついに追及をやめざるを得なかった。本人がこれだけ拒絶するなど…内容も気にはなるが、無理に聞き出すこともできない。


「…夏輝、そこまでだ。本人が嫌がっているなら深入りはするな」

「…分かってる。まずは、今ある証拠でこの状況を何とかしねえと…だろ」


夏輝がUSBを懐にしまう傍ら、一希は改めて積に今後の動きを確認した。


「本来ならこのまま保護、といきたいが…」

「あー…そりゃ難しいな。そいつは医者…命を救う・・・・存在で在る事が、何よりの生きる理由で最優先事項だ。保護が最善で安全なのは分かっちゃいるが…」

「分かった。なるべく本人が安心できる環境を維持する方がいいからな。俺達と…楢崎にも話を通して、その用心棒とやらと話が繋がるまでは、交代で巡回するようにする。万一に備えて緊急用の呼び出し端末も貸し出そう」

「だな、当面はそれで様子を見る。ナスター、お前もそれでいいか?」

「…大丈夫」


積に対するナスターの答えを聞くと、一希は改めてナスターの背を軽く叩くように撫でてから…腕時計のようなものをナスターの手首に巻いてから一旦離れた。


「本当は俺達が連絡に使ってる、スマートウォッチってやつだ。何かあればすぐ連絡してくれればいい。とりあえず、夏輝に直通で繋がるようにしておくから」

「おいおい、そこまで言ってお前じゃないのかよ」


積のツッコミにも、一希は冷静に答えた。


「今日は夏輝ひとりで向かわせると警戒されると思ったから、お目付け役としてついてきたけど…俺は夏輝とは部署が違うんだ。普段は航空隊のパイロットとして巡回用ヘリに乗ってる。ヘリはパトカーや徒歩ほど自由がきかないから、呼び出しに即反応できない事もある。まあ、いざとなれば命令無視してホスピタルのヘリポートにでも緊急着陸するけどな。…だから俺、目はいいんだぜ?なんたってパイロットだからな!」

「成程、頼もしいこった」


話が一段落ついた所で…ホスピタルに救急車の音が近づいてきた。


「おっと、仕事だな。俺も本業に戻る時か…ナスター、いけるか?」

「…大丈夫、やれる。命を救う…それが俺の仕事で、役割で、生きる意味だから!」


ナスターは一度自身の頬を叩いて気合いを入れると、先程までの弱々しい表情を吹き飛ばし、強い眼差しで問診室を出ていった。

その後ろ姿を見送るようにして…積もいよいよ覚悟を決めた。


「(…さてと。あとは…俺の仕事・・・・、か)」




───救急車から下ろされたストレッチャーが、早足に処置室に運ばれていく。その後ろを、同乗した楢崎と木笠が追う。


「16歳男性、頭部と脇腹を殴打!嘔吐跡あり、意識レベル低下しています!」


患者イグニスの情報を医師のナスターに伝えるのは、看護師長・・・・八十嶋ヤソシマモモ。ボブの髪を後ろの高い位置でまとめた女性看護師で、切れ長の瞳はしっかりとナスターを捉えている。彼女は他の看護師と違い白の厚手の上着を羽織っており、その左胸部分には青い線で縁取られた十字が刻まれている。この上着こそ、看護師長・・・・の証だ。

ただし、本来の看護師長となるには彼女は勤務年数も実年齢も足りてはいない。人手不足により看護師達の平均年齢が低年齢化し、それでも業務上はリーダー役が必要…ということで、このホスピタル内の特例としてまだ若い彼女がその任を預かっている、という背景があった。


「了解、MRIの準備して!」


八十嶋に指示を飛ばし、脈を診ようとイグニスの首筋に触れたナスターが───小さく悲鳴を上げ、手を引っ込めた・・・・・・・


「崙先生?」

「しまった…この子、魔族か!」


見ると、引っ込めたナスターの手が…赤く爛れていた・・・・・・・


「どういうことですか、崙先生?」

「…神族は、信頼関係のない魔族に触れると表皮が爛れてしまう。…大丈夫、ゴム手袋すれば問題ないから。救うべき命に変わりはないさ」


そう言っている間に…ナスターの爛れていた箇所はもう治癒しているようだった。そして…楢崎と木笠を置き去りに、イグニスは八十嶋達によって処置室へと連れていかれた。


「…あの男、君の知り合いやったん?」


廊下に残された2人。静かに問う木笠の声に、楢崎を責める様子はない。だが…起きてしまった最悪とも呼べる事態に、楢崎は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて答えるしかなかった。


「…はい。普段は問題ないんですが…雨が降っている・・・・・・・という状況下においては、暴走の危険性があると知っていたのは事実です。しかし…何故あの場所に現れて、何故イグニスを狙ったのかは、今はまだ分かりません。アンノウンを追ってきた、というなら、現れた理由は分かるのですが…そうだ、アンノウンは!?」

「…倒したで、あの子が。俺もちょっとだけ手ぇ貸したけど、トドメ刺したんはあの子や」

「…すみません、銃の解放に手間がかかってしまって…いえ、何を言っても言い訳ですね。結果としてアンノウン討伐には間に合わず…不慮の事故で、イグニスが重傷を負ってしまった。自分が側にいるべきだったのに」


肩を落とす楢崎の背を、木笠が軽く叩く。


「あの子が怪我したんは、君が言うた通り事故や。君が責任感じるような事やない」

「ですが…」

「俺らが今するべきなんは、あの子の無事を願うことや…せやろ?」

「………はい」


楢崎は納得しきれなかったが、木笠の言うことにも一理ある。2人は処置室の前で両手を組んで待っていたが…


───なんとイグニスは、数時間後には一般病棟で不服そうな表情を浮かべて上体を起こしていた。


軽い脳震盪・・・・・、ですか…」

「そう。最初の一発は不意打ちすぎて対処できなかったけど、次に頭を狙われてるのが分かった時点でわざと足の力を抜いて、さらに相手の打撃に合わせて頭を振ることでダメージを最小限に抑えた。ただ、その後はコンクリートに倒れて、衝撃を逃がせなくなってたから…もう一発上から食らってたら、頭蓋骨砕かれて死んでたかもな。木笠選手が庇ってくれてなかったら、俺は此処にいなかったかもしれない。…結局、危ない目に遭わせてしまった。すまない…でも、ありがとう」


イグニスが笑みを浮かべて感謝を述べると…木笠は感極まってイグニスに抱きついた。


「うわぁ~もうほんま無理、死んどったかもしれんとか怖いこと言わんといてや~!おっさんの寿命削れたやんけ、あー怖~!無事でよかった…ほんま、よかった」

「イダダダダッ、脇腹の方は肋骨にヒビ入ってるって!俺は魔族だから回復は早いけど、1日は猶予見てくれ!」


イグニスの悲鳴に、木笠は慌ててイグニスを解放する。


「ご、ごめんて…でもほんま大丈夫なん?脳震盪は俺らでも試合で頭に死球デッドボール受けてなることあるし、心配や…セカンドインパクト症候群とかもあるし、1ヶ月は頭の怪我にほんま注意せなアカンよ?約束やで?」

「大丈夫…場所が頭だから、いくら魔族の回復が早くても、今日1日は様子見で入院だって。…今日は俺のせいで大騒ぎだな、本当にすまない。あんたら仕事とかどうしたんだ?」

「…アンノウンによる・・・・・・・・被害者の救護で、出勤時間が遅れる旨の連絡はしています。気にしないでください」

「ほんまやで、怪我人が気ぃ使わんでええねん。監督に電話して"化け物に襲われて救急車呼んだ"言うたら今日は来んでええ言われたわ…怪我したんは俺やないけど、言うた事に嘘はないし、その辺の説明は後でええやろ。魔族の回復がどうちゃら言うんはピンと来んけど…しっかり治すんやで?な?そうやないと、おっさん心配で試合やこ出られへんわ」


木笠はイグニスの頭を撫でながら、優しく言い聞かせるようにイグニスに告げる。その様子を見て、イグニスは…


「…だったら、ひとつ聞きたい事がある」

「ん?どないしたん、何でも聞きや」

「───あんた、殺意を抱くほど恨まれた事・・・・・・・・・・・・はあるか?」


イグニスの問いに…木笠と楢崎の表情が凍る。木笠本人はもとより、ファンである楢崎でさえ瞬時に否定してこないところを見ると…どうやらイグニスの読みは当たっていたらしい。


「…あるんだな」

「…そら投手やっとったら恨まれるのなんて日常茶飯事やで。さっき言うた死球デッドボール絡みとか、前の打者を敬遠したからナメられた、とか───何度対戦しても打てん、とかな」

「…それは」

「分かっとる、君が聞きたいんはこないな一般的な話やない…そうやろ?」


イグニスが答えに困っていると…木笠は天井を仰いで長く息を吐き、横に座る楢崎に目配せした。


「…楢崎君は知っとるかもしれんな。…イグニス君、俺の名前で検索したら、サジェストに何が出る思う?」

「え…」


木笠については、ちょうど今朝検索したばかり。しかし…イグニスは検索結果を急くあまり、サジェストに出ていた候補を見落とした。だから…イグニスは知らなかった。


「───八百長・・・、そして殺してやる・・・・・…八百長の相手に俺が言われた言葉や。球団が火消ししとるけど、ファンの間では今でも噂になっとる…木笠ユキナリが棺出タカシを殺した・・・・・・・・・・・・・・・・、言うてな」


木笠が背負う、呪いの十字架・・・・・・を。


「八百長…そんな、あんたが勝負で手を抜くなんて」

「…うん、それも全部今から話したる」


木笠が低い声で続けた時…楢崎が歯噛みして俯いた。


棺出カンダタカシ…俺と同じ高校の、1つ下の後輩で中堅手センター。俺とは別のチーム…東京ジビエーズに入団して、ムードメーカーとして頑張っとったらしい」

「頑張って…いた・・


イグニスは木笠の言葉尻を繰り返す。殺した・・・、などと言われているのなら…やはり。


「───ああそうや、死んだんよ・・・・・…俺への恨み言を遺してな」



††


-12年前-


棺出タカシは、入団した東京ジビエーズでキャリアを積み、スタメンで1番・センターの大役を任され、その仕事を全うしていた。

そしてちょうどその頃の木笠は、先発投手としてのローテーションに組み込まれることが多かった。


「今日こそ打たせてもらいますよ、木笠先輩」

「おう、やってみいや。できるもんならな」


同じ出身校の先輩後輩が、別々のチームでライバルになることは珍しくない。それどころか、兄弟や親子の対決が実現することさえある。だから周囲も、木笠と棺出のライバル関係を微笑ましく見守っていた。


───その関係に変化が起きたのは、それから約1年後。


棺出の脳に腫瘍が見つかった。

しかも位置が悪く、摘出に成功したとしても、ほぼ確実に運動能力に後遺症が残るだろうと診断された。


棺出は…荒れた。まだ30歳にも至らない中で、迫られる引退の決断。ただし、万にひとつではあるが、奇跡的に後遺症が出ずに復帰できる可能性もあった。


───病巣がそれだけならば・・・・・・・・・・


棺出の腫瘍は、脳だけでなく足の関節部深くにも発生していた。

運良く脳の腫瘍を取り除けたとしても、足の関節がダメになっていては、プロ野球選手として使い物になるわけがない。だから、棺出は…引退するしか、もう道がなかった。


そんな時…棺出は木笠を呼び出した。


「もう俺には時間がない。最後の打席…俺に打たせてください・・・・・・・・


木笠に───八百長の打診・・・・・・をするために。


そして、木笠の答えは───


「………分かった・・・・。前金はいらん、全部終わってから振り込んでくれたらええ」


棺出と目も合わさず、短く答えた。


しかし


棺出の引退試合、木笠は───手を抜かなかった・・・・・・・・

代打として打席に現れた棺出だったが…思い出として、棺出にわざと打たせるどころか…八百長とは程遠い、いつも以上の全力投球。木笠には、応援してくれているファンを裏切るような真似はできなかった。だから…棺出には本気の自分を打ち崩して、実力で勝ったと胸を張ってほしかったのだ。


───そんな木笠の思いは、棺出には届かなかった。


棺出は三振を喫し、球場はどよめいた。病人に容赦がない、鬼だ、などと…当時は散々ヤジが飛んでいた。木笠はただ、病人といえど卑怯な提案をしてきた棺出より、自分を応援してくれているファンを選んだだけなのに。


そして…棺出はすぐにはベンチに戻らなかった。バットを持ったままその場に立ち尽くし…


「…なんで、なんでだよ。打たせてくれる・・・・・・・って言ったじゃねえか!俺は蜘蛛の糸を掴む思いで頼んだのに!嘘つき、裏切り者!あんたは約束を破ったんだ!許せねえ、殺してやる!殺してやるゥアアアア!!!!」


棺出は───よろめきながらも、バットを持ったままマウンドの木笠に殴りかかった。両チームのベンチから選手やコーチが飛び出し、棺出を止めようと群がった。プロ野球の乱闘、といえばこういう光景を思い浮かべるのではないだろうか。

しかしその制止より早く…棺出が振り回したバットは、当時両投げだった木笠の左肘に当たった。…木笠はマウンドから動かなかった。棺出の力無いバットスイングも、避けられたはずなのに避けなかった。

木笠は棺出よりファンを選んだ。それでも…プライドを捨てて頼み込んできた後輩を裏切った苦悩は、いつまでも木笠の心に傷を刻み続けた。


「───棺出、退場ッ!!」


主審の右腕が、力任せに頭上で弧を描く。棺出は最後まで、木笠に暴言を吐きながら…東京ジビエーズのチームメイトに引きずられる形でグラウンドを後にした。引退セレモニーもインタビューも、本人の退場によってなくなった。後味の悪い試合は…2-0で大阪ティーグレスの勝利に終わった。


───その翌日。


棺出が高架から身を投げて自殺した・・・・・・・・・・・・・・・・


気が狂ったのか、病状が悪化したのか、木笠への当て付けだったのか…決定的な動機は分からなかった。

実家の自室には、木笠への恨みを書き殴った遺書と───

部屋の壁いっぱいに、己の指先を噛みちぎって記した、"殺す"という呪いの血文字が遺されていた。



"八百長の代わりに自殺するよう脅されていた"

───事実無根の妄想だ。


"自殺ではなく木笠が突き落とした"

───事実無根だ。


"八百長の前金だけ受け取って反故にした"

───事実…無根。



もう、否定するのも疲れるぐらい…木笠は酷い誹謗中傷を受けた。


"死んでしまえば、後は残った方を好き勝手に妄想で叩いてくれる"

"どうせ予後が見通せないなら、少しでも相手に傷をつけてやる"

…そんな考えが、棺出の最期の思考だったのかもしれない。


木笠はその日以来、左腕で投げることができなくなった。

精神的に追い詰められ、心労で何度も倒れた。

長いスランプに苦しみ、もう引退しようかとも考えた。


───そんな時に見たのが、ボロボロに打ち崩されても立ち続けた、高校生の楢崎の姿だった。


「…俺は、悪いことをしたとは思うてない。棺出を裏切って、死ぬまで恨まれたのは事実や。それでも…俺にはまだ責任がある。やれることがある。引退いうて早々に逃げ出したら…それこそ、ファンに対する裏切りや。俺は立ち続けてやる。俺のどっかが壊れるまで、マウンドにしがみついたる。…それで、お前に許されようとは思うとらん。俺を恨んで呪い殺すなら、お前の好きにしてくれたらええ。それでも俺は、最期までマウンドに居座り続けたる。それが、俺の意地や」



††


-現在-


───話し終えた木笠の横で、楢崎は啜り泣き…イグニスも嗚咽を漏らしていた。


「あんたのせいじゃ…ない、そんなの…あんた悪くないだろ…」

「ご遺族には、香典すら受け取ってもらえんかった。打たせてやる、言うてから…やっぱり本気でやるわって嘘ついたんは事実や。事実やけど…俺はあいつにも、本気で向かってきてほしかったんや。その結果が三振でも、ホームランでもええ。全てを出しきったんやったら、どっちの勝ちでもよかったんや。せやけど…病人に本気出せ言うんは、俺が間違っとったんやろうか。病人やからって丁重に配慮して、可哀想にってヨシヨシして…そないな勝負したとして、棺出はほんまにそれで納得できたんやろうか。何が正解やったんか…俺は今でも、あの日のマウンドを夢に見る。それでも俺は、あの選択が間違っとらんかったって、ファンに証明するために…死ぬまで・・・・マウンドに立ち続けるんや」


イグニスは…木笠の執念にも似た気迫を受けて、納得した。

死を恐れないから・・・・・・・・、暴走した市松に対して盾になれたのだ、と。


「…それでも、本当に死んだりするなよ。あんたに何かあったら…俺も小兵も悲しむし、あんたをずっと信じてるファンも絶対辛い思いをする。…約束、してくれ」

「うん、うん…そうやな。その約束、今度こそ守らなアカンな」


木笠は穏やかにイグニスに語りかけるが


───イグニスは改めて今の話を整理していた。


"殺してやる"というアンノウンの発言。

アンノウンと同じ発言をした人間がいた。

その人間は10年前に既に故人。

そして、彼が亡くなった時期───


理解した。理解してしまった。

アンノウンの正体・・・・・・・・を、その出所を。


「───やっぱり、そうだったのか」

「えっ?」

「…イヤ、なんでもな」


───そうイグニスが答えるより早く、病室に多禄が蒼白な顔で駆け込んできた。多禄はイグニスの顔を見るなり…気が抜けたのか、息を吐きながら病室の出入口で膝をついてへたりこんだ。


「た、多禄…!?」

「い、生きとった………よかった………ぼくの精神ゲージがゴリッゴリに削れてしもうたばい………」

「勝手に殺すな…というか、あんたなんで此処に…」

「…すみません、緊急だと判断して、君のスマホを借りて自分が連絡させてもらいました。親族ではないにしろ、一応保護者的な立場だと思ったので…」

「…大袈裟」

「「「大袈裟(ちゃうで/やないぜよ/やなか)!!!!」」」

「うわぁ、ワヤワヤ言うなよ…」


3人から否定の大合唱を受け、イグニスが縮こまると…多禄がなんとか立ち上がり、楢崎の隣に椅子を引いてきて座った。その表情は、見たことがないほど険しいものだった。


「…話は聞いた、市松のバカタレが暴走したとやろ。…あいつは近々、オジキ主導のもと、霊兵全体の裁判会議にかけられる。魔族言うても、無害で無抵抗なイグニスちゃんを傷つけただけやなか。人間にまで武器ば向けたけんね…人間に危害を加えるとは、大原則の契約違反。もし人間ば傷つけとったら───そん時点で、あいつは消えとった・・・・・。イヤ…そうやなくても、ぼくが許さん・・・・・・

「…いつになく怒ってるな、多禄」

「面倒ば見とった子が殺されそうになったんやぞ!オジキが許しても、ぼくが───」

「多禄」


珍しく怒り狂う多禄に対して…イグニスは冷静に多禄を宥める。


「その判断は少し待ってほしい。市松?の暴走癖…俺は使える・・・と思う」

「えっ…使える…?」

俺が殴られたことで・・・・・・・・・、多少は分析もできたって事だ。何より、いきなり殴られた側の俺だって、文句のひとつも言ってやらないと気が済まない。あいつ、謝罪もなしに逃げたんだからな。その前に雇い主が霊兵と契約を切ったら、俺の分析も説明も、あいつへの文句も謝罪もあったもんじゃない。そうだろ?」

「それは…そう、やね」

「…逃げる直前のあいつ、本気で怯えてた。俺を殴ったこと、心の底から後悔してると思う。…その被害者の俺が待ったをかけてるんだ、少しぐらい融通きかせてもらえないか」

「うーん…まあ、被害者本人のイグニスちゃんがそげん言うなら、オジキに相談してみるばい」

「ああ、任せた。あとちゃん付けやめろ」


話が一段落したのを聞いて───

病室のすぐ外にいた・・・・・・・・・市松は…黙って立ち去った。

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