[Episode.7-混沌ケミストリー•E]

───翌朝6時頃。晴天だった昨日とは打って変わり、雨が窓を叩く音でイグニスは目覚めた。腕の中には寝落ち───というより、半分失神に近い状態で寝ている楢崎がおり…


「うお…っ!?あ、そうか…楢崎の家に泊まったんだった。やば…サイズ感良すぎて抱き枕にしてた…」


イグニスが楢崎を解放してゆっくりと上体を起こすと…横の楢崎は何故か背中を丸め、両手を太股の内側に隠すようにして、身体を縮こまらせるような体勢で寝ている。その理由は、普通の男であれば大体の察し・・はつきそうであるが…


「…変な格好、海老みたい」


幼少期からその手・・・の知識を得るのを忌避してきたイグニスには、残念ながら考えが及ばなかったらしい。


「…朝食、何か作れそうなもの…」


イグニスは楢崎の部屋にある小さな冷蔵庫に目をやるが…昨日も本を勝手に触って余計なことになったばかり。幸いか、時刻はまだ早朝。仕方なく、楢崎が起きるのを待ってから許可を取る事にし…昨日の出来事を思い出しながら、ふと疑問に思ったことを調べようとスマホのホームを開く。


「(そういえば昨日、軽々しく"引退"とか言ってしまったけど…木笠選手って今何歳なんだ?35歳を越えた頃からプロ野球選手は引退が相次いでた筈だけど、今の年齢によってはものすごく失礼なこと言ったんじゃ…)」


検索窓に"木笠ユキナリ"と打ち込むと、サジェストがいくらかあったようだが…さっさと検索ボタンを押してしまったため、イグニスの視界には入らなかった。そして、一番上に出た検索結果に───


「ひっ…!」


イグニスは短い悲鳴を上げ、スマホが手から滑り落ちて楢崎の肩にぶつかった。


「…ぅ、なん…」


その衝撃で、眠りの浅かった楢崎も目を覚ますが…


「(…あっ、ヤバ…)」


その体勢からすぐには動けず、視線だけで周囲の異常を探る羽目になる。まず目に入ったのは…スマホを拾い直し、顔面蒼白で呼吸まで荒くしているイグニスの姿。ただ呼吸が荒いだけならば、"今の自分のお仲間・・・か、若いなぁ"などと生暖かい目で見守ることもできた。だが…今のイグニスは明らかに様子がおかしい。


「…どうか、したんですか?」

「っこ、小兵…っ、どう、どうしよう…」

「…お腹でも壊しました?気にしなくていいですから、着替えぐらい貸しt」

「違っ、違う…!木笠選手、引退するって…!」

「───はい?」


そこでやっと、血を集めるべきは脳だと、楢崎の意識もはっきりし始めた。


楢崎からは見えないが、イグニスのスマホ画面には…『【速報】木笠ユキナリ 今年退団か 肩の故障治らず』の見出しが検索結果の一番上に躍り出ている。しかしそれを知らない楢崎にとって、イグニスの発言は青天の霹靂だった。その発言の真意を聞く間もなく…イグニスは壊れていく・・・・・


「速報って何…昨日の木笠選手は引退なんて一言も言ってなかった、だとしたら昨日にあった何かが影響して、っ…まさか、俺とぶつかったせいで…?肩の故障…やっぱり昨日、俺のせいで肩を痛めて…あぁ、どうしよう、どうしたら償える…俺が、あの人の人生を台無しにしてしまったんだ………!」

「ちょっ、ちょっと落ち着いてください、何処にそんな…」


楢崎の言葉には答えないまま、イグニスはLINE登録したばかりの木笠の連絡先を呼び出し…震える指で通話ボタンを押した。





───ちょうどその頃。木笠も朝早くに目を覚まし、起床後のストレッチをしていた。窓から見える雨粒を眺めて、諦めたように長いため息をつきながら。


「あーあ、こりゃ今日の試合は中止かもしれへんな。ま、練習には出なアカンから球場には行くけど───ん?電話…こないに朝早くに誰や?」


ソファーに放り投げていたスマホが唸りながら震えているのに、雨音のせいで気づくのが遅れた。呼び出し相手は…"イグニス君"。


「電話来るの早!昨日の今日でどないしたんや、あの子真面目やし、イタ電するような子でもないやろに…はーいもしもし?どないしたん、おっさんと離れてもう寂しくなったんか?仕方n」

───『グスッ…ぅ…あんた、俺のせいで引退するのか…?』

「へ?な…えっ、どないしたんほんま、何泣いとるん?えっ話が見えへん、落ち着いて話そ?な?お願いやから泣かんといてや…」


言葉通り、木笠にとっても降って湧いたような話だ。引退するなど一言も言った記憶はないし、そもそも何故それがイグニスのせいに結び付くのか見当すらつかない。しかしそれを説明しようにも…イグニスはただ泣きじゃくっているのではなく、過呼吸を起こしているのだと気づいた。


───『………っ、けほっ、けほ…っ、ぅ………』

「あーあーアカン、過呼吸なっとるやん!ゆっくり息吸って、吐いて…大丈夫、大丈夫やから、な?…分かった、電話じゃ埒あかん。うちで話そうや、昼までは時間あるから。それでええやろ?歩けるようになったらでええから、楢崎君と一緒に、昨日別れた丁字路までおいで。迎えに行ったるから」


話は全く見えないが、木笠のために過呼吸を起こしてまで訴えるイグニスを放っておくことはできなかったし…身に覚えのない引退騒動が起きているなら、早急にその火元を確認した方がいいだろう。しかし、以前から存在を知っていたとはいえ、直接出会って昨日今日で一気に近づく2人との距離感を危惧───

しなかった・・・・・

木笠はもう、2人を友人と認識している。友人に家の場所を知られるぐらい、今更なんとも思わなかった。そのぐらい…新しい友人ができた事が嬉しかったから。


しかし、そこで電話の相手が楢崎へと変わる。


───『すみません、ヤバそうなので一旦代わりました。自分も話の筋をまだ聞き出せてなくて、説明は…あっ、だっ、ちょっトイレで、あー………すみません、もう少しかかります。シャワーと着替えさせてから行くので…』

「あー、胃の耐久値が死んだかー…てかめっちゃおおごとなっとるやん、ほんま大丈夫なん?そないになるまでストレス抱えて、イグニス君は一体何を見たんや…ゆっくりでええよ、俺も適当な時間なったら迎え行くから…ほな、後でな」


木笠は一旦電話を切ると、改めて首を傾げた。


「引退…なんでそないな話が飛び出したんや」


そして、木笠の視線が無意識にデスクへと向き───目に入ったものに背筋を凍らせた。


「───冗談やないで、なあ…棺出カンダ


昨夜、確かに寝かせた写真立てが───元通り起こされていた・・・・・・・・・・





───暫くして、木笠はイグニスと楢崎を迎えに行き…2人をダイニングのソファーに座らせると、温かいお茶を用意し始めた。夏真っ盛りではあるが、部屋には冷房が効いていたし、冷たい飲み物は余計に胃を刺激すると思ったからだ。


「いやぁ、お客さん来るのも久しぶりやし、無駄に家だけ広いから手勝手悪うてすまんな。殺風景やろ」

「いえ、自分は全然…いい家ですね」

「半分は見栄と意地や、ひとり暮らしのおっさんには広すぎるで。集合住宅系やと上下左右から何仕掛けられるか分からんって思うただけやし…集合住宅でも高級マンション住んどるチームメイトもおるにはおるしな」

「それは…確かに、有名人ならではの悩みですね…あっ、淹れます淹れます!」

「構へんから座っとき、君らお客さんなんやから、ゆっくりしとってや」


そうは言われても、なんとなく落ち着かない楢崎の横で…イグニスは未だに泣きじゃくりが落ち着かないでいる。その緊張を少しでも解そうと、木笠の視線がイグニスへと移る。


「あらまあ、今日は前髪もまだ上げとらんのやね。かっこええジャージも着せてもろて、似合うとるでイグニス君」

「いいですよねこのデザイン!『マスクドファイターズ・メテオ』…あっ、特撮コラボのジャージなんですけど、シンプルでありながらポイントに必殺技のイメージで流星と隕石が描かれてるんですよ!発売日が仕事で、売場に行ったらLL以上しか残ってなかったので、着れないなら取っとく用にしようと思ってたんですが、まさか役に立つ日が来るとは思いませんでした」

「めっちゃ早口で喋るやん…楢崎君は元気やね、安心したわ」

「す、すみません…つい」

「いやいや、ええ事や。若いのは元気が一番、よしよし…あっごめんつい頭撫でてもうた…イグニス君大丈夫か?はい、温かいお茶。わざと少なく注いだから、足らんかったら言うて。しんどいなら今すぐ無理して飲まんでええからな、落ち着いてからゆっくり飲みや」

「………すまない、朝早く、っから…めいわっ、かけて…」


未だにしゃくりあげるイグニスの肩を軽く叩きながら、木笠は苦笑した。


「そんなん気にせんでええから、な?困ったら電話してき、言うたんは俺なんやから。それに…最初に言うとくけど、俺は引退するなんて誰にも言うてへんで」

「………ぇ」


その一言で、イグニスの顔色に僅かに生気が戻った。そんなイグニスの代わりに、楢崎が自身のスマホの画面を木笠に見せた。


「速報、木笠選手、引退、肩の故障…イグニスが呟いていた言葉で検索をかけました。恐らくこれですね───『【速報】木笠ユキナリ 今年退団か 肩の故障治らず』。確認しましたが、内容はデタラメのアンチ記事・・・・・でした。しかもこの記事を書いたの、案の定というか、いつものところ・・・・・・・ですよ。いい加減にしてほしいですよね」


それを見た瞬間、木笠の表情が一気に怒りに染まる。その理由を察せた楢崎も表情を険しくしたが、察せなかったイグニスは少し怯えて身体を震わせた。


「ウンガァァァァ、まぁ~たあそこかぁ!ええ加減にせえよもう!」

「え、ど、どういうこと…」

「あー、すまんすまん…びっくりしたな。順番に説明してこか…まず、この記事は書いとる所が昔っから俺のアンチやねん。ちょーっと打たれたり、1球でもトンチキな球ほうったらすーぐネガティブな記事書きよんねん。昨日の投球も、1球だけヘンテコなボール球投げてもうたからな…それが勝手に"肩の故障"って妄想にされたわけや、多分な。なぁーーーーにが速報やねん、おもんない冗談書くなや」

「…でもそれ、俺とぶつけた肩が痛んでコントロールが狂ったんじゃ…だから、俺があんたの選手生命を絶ってしまったって…」

「ちゃうちゃう、ほんまちゃうねん。君も大概悪い妄想しとるなぁ…あの時は、避けられへん!って思うた瞬間に、俺もちゃんと腕や肩は庇っててん。君には背中とケツからぶつかったはずやし、尻もちついた以外に他の場所に怪我はしてへん。ええか?ケツで解ケツしとるんや。君が気に病む事はなんもないねん」


なんとかしてイグニスを和ませようと、木笠はダジャレまで仕込んで必死に笑いを取ろうとするが、横の楢崎が苦笑するに留まった。


「………まあええわ、そんで"引退"の方やけど、これはもう、トシや!た、ん、な、る、トシ!」

「トシ…年齢…?」

「そんな塩のCMみたいなノリで…」

「いやでもほんまそう、これはトシのせいやで。35越えた辺りから、もうなんかあるたび引退、引退、引退や!あなたが思うよりおっさんです、ってな。1本ヒット打たれたら引退、ひとり四死球出したら引退、うっかり暴投したら引退…もう何やっとってもすーーーーぐ引退ちらつかされんねん。俺の年齢やと…あー、38な、もう生きとるだけで引退言われるレベルや。いちいち気にしとったらやっとれんでほんま、あーもう引退言いすぎてわけわからんなってきたわ」


木笠は苛立ったように、湯呑みのお茶を一気に飲み干した。しかし、その苛立ちをイグニスにはぶつけないように語調を和らげる。


「これで分かったか?もう一度言うで、この記事は俺が嫌いな奴が書いたガセ・・の塊や。君がそないなペッショペショのペショ太郎なってショック受ける必要は何処にもないねん」

「………ほんと、に」

「ほんまほんま、せやからもう泣かんの。な?」

「俺、は………」


これで一件落着か、と木笠が安堵したのも束の間。


「俺はありもしないデマに踊らされて、早朝から木笠選手の貴重な時間を無駄にして、余計な心配までかけさせたのか………」

「アーーーーッペショ太郎ーーーーッ!!なんでこうなんねーーーーん!」


イグニスは今度は別の方面でショックを受け、ソファーの上で膝を抱えてしまった。


「それは気にせんでええって、早朝いうても起きてストレッチしとったし。自分の責任やって思い込んどった事を差し引いても、俺の引退騒ぎに過呼吸起こすほどショック受けるとは思わんかったわ…もう大丈夫?苦しくないか?落ち着くまで此処におったらええからな」

「…ひとりで大騒ぎして、すまなかった…小兵も、付き合わせて悪かった。服も…大事なものなのに」

「いいんですよ、今日は午後勤なので余裕ありましたし、そのジャージもどうせ押し入れで腐らせてたので。着られる人に渡るなら、服としての役割を果たせるってもんです。洗濯機回してきたから、君の服も夜には乾いてると思いますが…それもあげます、よかったらそのまま着てください。どうせ自分だとサイズ合わないですし」

「…ありがとう、一生大切にするから」

「そこまで重う受け止めんでえいぜよ…」


どうにかイグニスの泣きじゃくりも落ち着いてはきたが、木笠は…イグニスの背を一度強めに叩いた。


「こら、ペショ太郎ッ!!」

「い"っ、た………!?」

「君は優しい子や。せやけどな、他人の痛みや苦しみまで全部同調しとったらキリないで?君が先に壊れてまうわ、おっさん心配なるで。もっと気楽に生きようや」

「気楽に…」

「そ、生きとる・・・・俺らが、前を向いて行かなアカン。…俺は飛龍さんほどできた大人やないかもしれんけどな、今日みたいに困ったことあったら相談には乗ったるさかい。大阪のおっさんのお節介レベル、ナメとったらアカンで~」


───悪戯っぽく笑った木笠の言葉に、飛龍がよく口にしていた"おっちゃんのお節介"という台詞が重なる。イグニスは思わず目を潤ませるが…これはもう、悲しみの涙ではない。その涙を流す代わりに、目元を拭って苦笑を漏らす。


「迷惑をかけた側なのに…励まされてしまったな。俺達が押しかけたせいで、朝食まだなんじゃないか?そうだったら、せめてそのぐらいは作らせてほしい」

「え、そんなんええのに…と言いたいところやけど、ほんなら楽させてもらおかな?あんまり食材残ってへんけど、好きに使うてええで。失敗しても気にせんときや」


木笠の言葉を受けて、楢崎がフォローを飛ばす。


「イグニスは魔界料理人?の資格のために料理も色々研究しているらしいですから、体調を崩すようなおかしなものは作らないと思いますよ…自分も腕前を見るのは初めてなので、約束はできませんが」

「おい、最後に信頼を損なうような事を言うな!」

「えっ、そうなん!?あーもったいな、そんなんやったらもっと色々買っとけばよかったわ~!」

「…あんたさえよければ、また今度改めて何か作りに来るよ」

「ははっ、通い妻ならぬ通い主夫みたいやね…あっちゃうねん!セクハラやなくて!」


木笠は慌てて言い訳をするが、イグニスは気にせず冷蔵庫をチェックしている。どちらかというと…隣の楢崎の方が少し冷ややかな視線を向けているぐらいだ。


その時───楢崎の持つスマホが警報音を放ち、冷蔵庫の側にいたイグニスは驚いて身を跳ねさせた。


「な、何…」

「JITTEからの連絡です!アンノウン出現情報…近い、500m圏内です!クッ…装備がないこんな時に…!」

「銃の供給ポートは?この近くにないのか?」

「一応ありますが…」

「だったらあんたはそれを取りに行くのを優先すればいい。あんたが戻るまで、俺がアンノウンを抑えるから。…すまない木笠選手、朝食はお預けだ。危ないから、あんたは家から出ないでくれ」

「え…君らが戦うん…?」


若く可愛らしいとさえ思っていた年下2人が急に戦闘モードに入ったのを見て…木笠は心を痛めたものの、一般人である木笠には頷く以外の選択肢がなかった。


「…分かった。朝飯の事も気にせんでええから。せやけど…無理したらアカンで。危ない思うたら逃げたらええ。いくらお仕事や言うても、君らが苦しんだり大怪我したりするの、俺は嫌やし見とうない。頼むから…無事に帰ってきてや。なんもできん俺は、せめて君らの帰る場所にぐらいならなアカンからな」

「…ん、行ってくる。木笠選手、これ…ジャージの上だけ預かってもらえるか?貰って即日傷ものにしたくない」


イグニスはジャージの上を脱いでTシャツ姿になると、脱いだ上着をそのまま木笠に手渡した。


「おう、預かっとく。それでも怪我には気ぃつけえよ」

「勿論…行くぞ、小兵」

「分かってます、すぐ戻りますから…任せます」


イグニスと楢崎は早足に玄関を飛び出し…ひとり残された木笠は、2人の無事を願って両手の拳を強く握り込んだ。





───多禄やベルフェのいた博多とは違い、アンノウンの数も狂暴性の高い個体も圧倒的に多い波来祖には、GO-YO銃の緊急供給ポートが数多く設置されている。一番近くにある供給ポートは…昨夜木笠が言っていた銭湯のすぐ横にある。


「…あった!」


楢崎はポート前に着くなり早速グリップを握り、数秒の生体認証を経て銃を───引き抜ける・・・・・はずが・・・


「…は?なんで…ちょ、おい!どういて抜けんがじゃ!」


グリップを引いても揺すっても、普段ならすぐ引き抜けるはずの銃はびくともしない。苛立つあまり口調を荒らげ、銃の側面にある液晶部に目をやると…


「…なんちやだよ、"データ更新中・・・・・・"…!?」


言わずもがな、銃の緊急供給ポートは24時間稼働を前提としている。そういった常時稼働タイプが共有データを更新する場合、利用者の少ない深夜や早朝を利用する…というのは他のシステムも採用していることだ。

ただ…何のデータを更新しているのかまでは、子機である銃の液晶部だけでは分からない。更新されているのが使用者のデータである可能性もあるため…楢崎も迂闊にグリップから手を離せない。


「クソッ、タイミング最悪ぜよ…早く早く早く早く、早うしてくれや!」


楢崎は苛立ちを募らせながら、来た道の先…イグニスがアンノウンと対峙しているであろう方向を睨んでいた。





───その頃、イグニスは…


「博多の時はベルフェが情報を共有してくれていたけど…細かい出現場所までは分からないか」


楢崎は500m圏内だと言っていたから、そう遠くはない───と思った時。

楢崎が走り去った方向とは逆…長く続く道の向こうから、殺気を伴った…明らかにヒトではないナニカが、妙にゆっくりと近寄ってくるのが目に入る。立ち上がった黒い棺桶のようなものの背後からはミミズにも見える触手状の物体が伸び、足の代わりに触手で這いずるようにして移動している。よく見れば棺桶の上部には苦悶の表情を浮かべたような顔がついており…見るだけで嫌悪感を催すアンノウンだ。


「うわ気持ち悪…さっさと始末しよう」


雨も降るなか、あまり戦闘を長引かせたくはない。取り出した鍔から刀を生み出すと、まずは…


「───視界は悪いけど、雨はマイナスばかりじゃない」


アンノウンに向かって手を翳し、足元を凍らせて動きを封じる。

酷暑とも言える夏の気温では、本来イグニスの氷魔術も長く留めることはできないが…雨であれば、少なくとも凍らせる材料・・は空から無限に供給され続ける。わざわざ魔力で水分子を圧縮する手間を省けるので、最初に凍らせた箇所から魔力を伸ばしていくだけでいい。視界不良と、服が肌に貼りつく不快感さえ我慢すれば、雨はイグニスにとって自らの負担を軽減できる、味方とも言える天候だった。


しかし、アンノウンもこれで終わりではない。凍っていく足元からは遠い上部の触手を振りかざし、自らに向かう直線上のルートを妨害し、近接武器のイグニスを近寄らせない。


そんな時───イグニスの耳に、信じがたいものが聞こえてきた。


『───……シテ…ル………』


アンノウンが・・・・・・喋っている・・・・・

しかも理性のない唸り声などではなく、明らかにヒトの言葉を。


「あいつ、何か喋って…ダメだ、聞き取れない」


とはいえイグニスも、アンノウンの言葉を真面目に聞くつもりはない。相手が洗脳系だった場合、下手に言葉を聞き取ると致命的になりかねないというのは、多禄との付き合い・・・・で十分理解している。

それでも…


「どちらにせよ、接近しないと埒が明かない!なんとか隙を見つけないと…」


イグニスがアンノウンを睨みながら考えていると───


突如、鈍い音と共に…アンノウンがぐらついた。直後、苦悶の表情をさらに歪ませたアンノウンの脇に───野球のボール・・・・・・が転がった。

まさか、と思ったイグニスが振り向いた先には…2球目を構え、アンノウンを睨む木笠の姿があった。アンノウンに直撃したのは、木笠の投げた豪速球だったのだ。


「あんた…ダメだ、危ないぞ!」

「距離は十分離れとる、これ以上は近づかんよ。ストレッチはしとったし、トレーニングがてら、あとで中庭で何球か投げよう思っててん。…君が接近する隙は作ったる。任せとき、救援・・なら大得意や」


確かに…アンノウンの触手のリーチは、イグニスの倍以上離れている木笠に届くような長さはないようだし、相手の大きさで時間がかかってはいるが、雨も手伝って氷魔術で徐々に上部の動きも封じていけるはずだ。楢崎はまだ合流しないようだし…イグニスも覚悟を決める。


「分かった、無理はしないで…頼む」

「おう、君もな!」


言うが早いか、木笠の2球目が再びアンノウンの頭部に命中し…その隙を突いて、イグニスが刀を振りかぶって懐に飛び込む。

そして


『───コロシテヤル、キガサユキナリ・・・・・・・


アンノウンの声が、はっきりとイグニスに届く。


「…えっ?」


予想だにしない言葉に、イグニスはアンノウンの触手の一撃を横っ腹に食らい、住宅街のブロック塀に叩きつけられる。


「ぐっ…!」

「イグニス君!」

「…大丈夫、少し油断しただけ…」


今の言葉は、木笠本人には聞こえなかったらしい。

殺してやる───それは豪速球を2発も顔面に叩き込まれた恨みからの言葉なのか、それとも…


「(…どっちにしろ、こいつを放置したり逃がすなんて選択肢はない。仕留めた後で、木笠選手本人に確認を取ろう)」


そうこうするうち、アンノウンはついに上部まで氷魔術で覆われ、身動きを完全に封じられる。


『オ、オ、オォ………ッ!』

「───貴様の事情など、俺達には関係ない」


イグニスは静かに告げると───


「───セイヤァッ!!」


打者がバットを振り抜くように、凍りついたアンノウンを刀で真っ二つに両断した。アンノウンはそのままバラバラに砕け散り…恨みがましい唸り声をあげながら雨中に消散していった。


アンノウンの消滅を確認すると、木笠が急いでイグニスの元へと走り寄る。


「イグニス君、大丈夫か?塀に叩きつけられとったけど…」

「俺は大丈夫…ちょっと背中を打っただけだ」


…分かっている。誤魔化されないうちに、聞かなくては。


「…木笠選手、あんたは」


───その言葉が終わらないうちに。


イグニスを労おうとした木笠の目前で、イグニスの身体が横っ飛びに宙を舞い、再びブロック塀に叩きつけられた。


「ぐぁっ…ゲホッ、ゲホッ…!」

「───は?」


目の前で起こった急変に、木笠は訳が分からないといった様子で周囲を見渡した。


───先程までイグニスがいた場所に、知らない人影がいた。

イグニスの脇腹を鈍器のような何かで殴り飛ばしたのは、深い紫の長髪を高い位置で結わえた、白い陣羽織姿の男・・・・・・・・───


「───我が請願・・・・雨露に消ゆ・・・・・


陣羽織姿の男は恨むような声で呟くと、起き上がりかけたイグニスに接近し───今度は頭部を殴りつけた。


「ぎゃっ…!」


見れば、それは槍のような武器だった。頭部を殴られたことで、イグニスはそのまま地面に倒れ伏す。男はなおもイグニスの頭部を狙って槍を振りかぶるが、コンクリートの地面では衝撃を逃がせない。そんな状態で頭なんかに一撃を食らったら、イグニスはきっと───


「───ッやめんかいボケェ!!!!」


考えるより先に、身体が動いていた。木笠はイグニスと男の間に滑り込み、両手を広げて立ち塞がった。そして、最大限の怒りを込めて男を睨むと…男の槍が木笠の目の前で止まった。その切っ先を、木笠は目を瞑ることもせず睨み続け、その向こうにある生気のない男の顔に殺気を飛ばす。


その時…やっと楢崎が現場に合流してきた。しかし、楢崎が目にしたのは…暴れ回るアンノウンなどではなく。


「───市松・・?なんっ…何やってるんですか、市松ッ!!」


楢崎は銃を放り出し、慌てて木笠の真横まで走り寄る。その途中で…男、市松が自我を取り戻す。


「───えっ?ケンゴ…え?何、これ…」


市松の視界に映ったのは───怒りを露にし、両手を広げて立ち塞がる男に槍の切っ先を向ける己の姿と…男の足元で頭から血を流して倒れている青年の姿。そして…状況を飲み込めないながら、男と同じように己を睨む楢崎───。


「何しとんねんって聞いとるんや、お"ぉッ!!!!?」

「そんっ…俺、俺が………?」


木笠の怒りの一喝を受け、市松は混乱し…泣きそうになりながら、瞬時にその場から離脱した。


「あっクソ、逃げ…イヤ、今はそんなんどうでもええわ!楢崎君、救急車呼んだって!脇腹と頭殴られとんねん、病院連れてかなアカン!…イグニス君、しっかりせえ!」

「わ、分かりました…!───すみません、救急です!患者は16歳男性、頭部と脇腹を固いもので殴打され、意識が混濁しています!」


雨を避け、木笠の家の軒下で救急車を呼びながら…楢崎は海でアウセンが言っていた言葉を思い出していた。



───「雨が降っている間の市松は、強い・・」───

───「呪い・・だ」───



「(呪い…それって、どういう…)」


息も絶え絶えのイグニスと、それを介抱する木笠を眺めながら…楢崎は唇を噛み締めた。

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