[Episode.7-混沌ケミストリー•D]

───騒がしい客席の並ぶ廊下を抜け、お手洗いのさらに奥…縁側を模した中庭にある喫煙所に、腰掛けて一服する弥茂と───その背を追って来た楢崎がいた。

喫煙者でないだろう楢崎が自身を追って来たことに、弥茂は敢えて言及せず…静かに白煙を細く吐いた。白煙は溶けるように、街明かりで瞬く星が見辛くなった空へと消えていった。


「…タバコ、吸うんですね」

「おう、幻滅したか?」

「いえ…でも、スポーツをやっている人はやらないものだと、勝手に思い込んでいたので」

「別にそら構へんよ。大人になるとな、吸わなやっとれん事も色々あんねん」


弥茂は再び宙に細く白煙を吐く。客達の声より、今は蛙とキリギリスの鳴く声の方が近くに聞こえる。

楢崎の目の前にいるのは、普段から憧れていたプロ野球選手。仕事の一貫とはいえ、あまり馴れ馴れしくするのは失礼じゃないか…とは思いつつ、やはりファンとしての思いは"夢"を諦めることはできなかった。


「…隣、いいですか?」

「あんたタバコ吸わんのやろ、煙いで?それでもええんやったら構へんよ」

「…失礼します」


拳2つ分の遠慮を空けて、楢崎は恐る恐る弥茂の隣に腰を下ろす。

プロ野球選手はアイドルや俳優ではない。それでもやはり、特定のファンと個人的な交友関係を持つということは、ファンの性別を問わずとも一定のリスクがある。それは弥茂も例外ではないし、本来なら楢崎の申し出は断られてもおかしくはない。

しかし弥茂は、楢崎がただファンだから近くにいたい、などというだけの理由で此処に居るのではないと察していたし、余計な接触や迷惑行為をしないだろう事も分かっていた。それは───


「…で?何しに来たん・・・・・・?いくらあんたが大阪ファンや言うても、ただ俺とランデブーしに来た訳やないやろ」

「………………」

「…あの魔族の子ぉがおったら話しづらい事か」


弥茂の言葉が図星だったのか、楢崎が一瞬息を止める。


「…お見通しでしたか」

「それしかないやろ。で、どうしたん?俺はまだしも、あんたが抜けとるのすぐにバレるで」


楢崎はそれでもすぐには言葉にできずにいたが…弥茂もいつまでも待ってくれるわけではない、というのも分かっている。


「…今更、なんですけど」

「おう」

「皆さん、もう普通に魔族を受け入れてるんですよね」

「なんや、あんたもうちのファンならヘルツ君の事は知っとったやろ?ほんまに今更やん。それとも…今日一緒に来とるあの子のことか?」


弥茂の指摘は的確だったらしく、思わず楢崎の肩が跳ねる。


「………そう、ですね。彼とは今日会ったばかりなんです。でも此処に来る前、彼は初対面の自分の事を助けてくれた上に、介抱までしてくれた。悪い子ではないことは分かっているんです。なのに…やっぱり人間ではないと言われると、すぐに信じていいものか迷ってしまって…嫌な奴ですよね、恩人なのに…たかが種族の違いでこんなこと考えるなんて。自分は…彼にどう接したらいいんでしょう」


楢崎の言葉をただ聞いていた弥茂は…思わず吹き出すような苦笑を漏らし、吐いた白煙が形を成さず消えていった。


「ほんま今更やって」

「え、いやこれはイグニスについてで」

せやから・・・・今更やねんて。あんたとあの子、もう何年も付き合いある友人にしか見えんかったで?仲良うするとか信じるとか、そんなん理屈ちゃうねん。あんた今日、あの子と一緒に応援しとったんやろ?その間、ずーっとあの子のこと疑うとったんか?」


弥茂に言われて、ハッとした。入場ゲートに向かう時も、球場メシを語った時も、スクリーンに映った番号を説明している時も、応援に熱が入ってお互いの手を取り合った時も───

一緒にいて、確かに楽しかった・・・・・、と。


「…そう、でしたね。自分はもう、彼とは友人のように接していた。冷静になって、今更種族がどうとか…考えていた事自体が浅はかでした」

「単純な話やで。自分と合うか合わんか、相手が純粋かよこしまか。ゴチャゴチャ考えるより、で判断するんや。人間関係なんてそんなもんやろ。ユッキーとかは単純やし、もうあんたもあの子も信用してると思うで。人間も魔族も関係なく…な」


弥茂はまた苦笑し、口先ではじくように白煙を吐くと…白煙は輪のような形になって宙に浮かび、また空気中へと溶けていった。


「ハハッ、バブルリング改めスモークリング、やな…1本吸い終わったし、戻ろか。あんまり席外しとったら、あいつら何やるか分かれへん───」

「弥茂捕手」


楢崎の声が低くなったのを、弥茂は聞き逃さなかった。


「…どないした?」

「試合の後で疲れているのに、わざわざ話の場を設けてくださった事には感謝しています。ですが今回の事で、恐らくイグニスはあなた達に…選手達に近づきすぎた・・・・・・。彼は、興味を持った事に半端に向き合うのを許さない性分のようです。だから、もし彼が木笠投手に興味を持った場合───間違いなく、いつか"あの件・・・"に辿り着きます。あなた達が彼を信用すると言うなら…木笠投手はその時、彼に本当の事・・・・を話せると思いますか?」


…暫くの沈黙。弥茂は持っていたタバコを喫煙所の灰皿に押しつけ、もう白煙を伴わない息を長く吐いた。


「せやな…下手に勘違いされてもかなんし、情報は正しく伝えなアカンわな。ユッキーにも、後で一応言うとくわ」

「………………」

「…あんた、優しいんやな。…戻ろか」


弥茂は楢崎の背を軽く叩き、一足先に喫煙所を後にした。しかし…今の楢崎は、憧れていた選手に触れられた、という思考には至れなかった。ひとり残された喫煙所で、遠く虫の音と客の喧騒とを聞きながら…猛暑に相応しくない、薄ら寒い夜風を背に感じていた。





───楢崎が個室に戻ると、弥茂は何食わぬ顔でニヤニヤ笑い、元の席で楢崎を待ち構えていた。


「お、遅かったやん。なんや、腹でも壊したか?」


食えないタヌキ───と一瞬思いはしたが、先程の密会を悟られない為の冗談だ、ということぐらいは楢崎も分かっている。だから…


「…ええ、調子に乗って油ものを食べ過ぎたみたいで」


へらっと締まらない笑みを漏らし、バツが悪い様子を演じて・・・自分の席に戻る。その横では…


「遅いぞ小兵!この場酔い親父・・・・・をどうにかしてくれ!」

「だずげで~…」

「ワハハハ、両手にフレッシュや~!」


テンションの上がった木笠が、イグニスと鳴輝を両腕に抱いて羽交い締めにしていた。さらに小金本はいつの間にか焼酎を注文しており、木笠を止めるどころか酔った勢いで笑いながら手拍子をしていた。普段のクールな小金本の佇まいは、今や見る影もない。


「…小兵呼ばわりしたから嫌です」

「なぁっ、もう~!」


その様子を呆れながら眺めていた弥茂は…頼んだ飲食物の皿やグラスがほぼカラになったのを確認すると、スマホの画面を見て一同に声をかける。


「おう、その辺にしとき。もう遅いし、その子ら帰してやらな。俺らも明日からまだ試合あるんやから…あんたらどっち帰るん?」

「俺は波来祖中央のコインロッカーに荷物預けて───あっ」


そう言いかけたイグニスの顔が、急に青ざめる。それを見た木笠も、さすがに悪ふざけをやめて両脇の2人を解放した。


「え、どないしたん?」

「色々あって、今夜のホテル取るの忘れてた…こんな時間じゃビジネスももう取れない、どうしよう…駅の近くで野宿できそうな場所探すか…」

「イヤそれはアカン、君みたいな若い子ぉが野晒しで寝とったら何されるか分からんて!じゃのうて…楢崎君にそのまま補導されるで!せやけどラブなホテル行かすわけにいかへんし、そもそも君未成年やから誰と行っても門前払いやしな…じゃのうて!あーもう、どないもならんかったらウチで一晩泊めたるさかい、野宿は絶対アカン!ええか!?」

「わ、わ、分かった………」


木笠が力任せにイグニスの肩を掴んで揺するものだから、イグニスは目を白黒させてしまっている。そこで…楢崎がため息ついた。


「…仕方ない、自分が一晩泊めますよ。広くないアパートですが、ただ雑魚寝するだけならなんとかなります。三ノ宮まで行くので、波来祖中央で荷物を引き取ってから乗り直しにはなりますが…まあそれはいいです」

「小兵…」

「このままだと補導という自分の仕事が増えるだけなので。だったら、最初から連れて帰った方が書類の手間がありません。彼の身元引受人はいたとしても福岡ですし、同行していた多禄さんは仕事中で連絡がつかないかもしれませんから」

「…助かる、この恩義借りは必ず返すから」

「そういうのいいですから。こんなの貸しに入りませんよ、終電逃して友人・・の部屋に転がり込む、なんてよくある話です。誉められたことではありませんが、補導対象になるよりマシですからね」


友人…その単語が楢崎の口から出たことに、弥茂は他人事ながらこっそり苦笑を漏らした。


「ほな、話纏まったみたいやし、会計して出るで。今日は俺が全部奢りにしといたる」

「いやシゲさん、そないな訳には」

「ええねん、俺の気まぐれや、得しとき。その代わり、ユッキーは2人をちゃんと送ってやりや」

「うーん…了解、ゴチになっとくわ。おおきになシゲさん」


弥茂が全員分の会計を(予想外の金額に少し引きつった顔で)済ませ、店外に出ると…小金本は呼んでいたタクシーで、弥茂と鳴輝はそれぞれ徒歩で、木笠達と別れて帰っていった。残された3人は、弥茂と鳴輝が去っていくのを見送ってから、人もまばらになった駅へと歩いていった。

その道中…


「───筧飛龍・・・


木笠は空を見上げたまま呟いた。


「…え」

「氷上の絶対王者…怪我で引退してもーたけど、最近まで君が一緒に暮らしとったんやろ。さっき楢崎君が福岡って言うたの聞いて思い出したんや…惜しい人を亡くしたな」

「知ってる、のか」


驚いて上擦るイグニスの声に、木笠も苦笑交じりに返す。


「そらスポーツ誌読んどったら目に入るわ、昔に一瞬やけど話したことあるしな。あの人俺の2つ上やから、そない深い関係やないけど…俺が中学の時、飛龍さんにリンクの場所聞かれたんよ。後で知ったんやけど、高校の修学旅行抜け出してリンク行こうしてたらしいねん。そんで、去り際に「球児か?頑張りんしゃい!」って背中バチィン!って叩かれてな。痛かったけど、気合い入ったなぁ…もう一度ぐらい、改めて話してみたかったわ。もう少し落ち着いたら、墓参りぐらいは行かせてもらおう思てる。そんな人の忘れ形見・・・・に会えるなんて、こないな偶然そうそうないで。小金本の件もやけど…おおきにな。君が元気なの見て、少しホッとしたわ」

「…そうだな、きっと飛龍も喜ぶと思う。…まだ葬式も終わってないけど」

「え、半月ぐらい経っとるけど大丈夫なん?その…ご遺体の…鮮度、とか…すまん、うまい言葉が見つからへんけど」

「司法解剖に時間がかかった上、葬儀所もなかなか見つからなくて…来月頭になるって多禄が言ってた」

「(あれ?多禄さんは完全に他人やろ?なんで飛龍さんの葬式の段取りを知って…)」


木笠は思わず疑問を口にしかけたが、直後にイグニスが慌てて口元を抑えたので、あっなんか口を滑らせたんやな…と理解し、言葉を飲み込んだ。


「と、とにかく、葬式もまだだから。もし参列するなら、言ってくれたら用意はできるから」

「そ、そうやな!月曜日やったら移動日やし、西方面の試合やったら移動誤魔化しながら参列できるかもしれんな、うん!広島戦とかやったら方向同じやし助かるなぁ~!」


焦り合う2人の話をぼんやり眺めていた楢崎に…木笠の視線が向けられる。


「そない拗ねんとってや、仲間外れにしたいわけやない…俺は君の事も知っとるよ、楢崎君。こないな所で会うと思っとらんかったから、思い出すの少し時間かかったけどな。背の低さで思い出したいうか…」

「う"るるるるっ」

「ごめん、ごめんて!怒らんとって、な?」


木笠は慌てて唸る楢崎の背を擦り、変わらず歩きながら語り出す。


「…10年ぐらい前やったかな、スランプになっとった時や。当時はまだ先発やったんやけど、なかなか勝ち星取れんとチームに迷惑かけててな…。ちょうど甲子園を高校球児達に貸す時期になって、少しでも気分を変えよう思うて、その日朝イチの試合見に行ったんよ。それが、波来祖第三高校の第二試合…楢崎君の投げとる試合やった」

「え…見てたんですか、自分が───ボロボロにされた・・・・・・・・試合を」


憧れのプロ野球投手が、自分の投げる高校野球の試合を見てくれていた…本来ならば嬉しい事の筈が、楢崎にとってはそうではない。


「…そうやね、結果だけ見れば───8-0のコールド負け。相手は甲子園常連の、東北地方の高校やった筈や。それでも…君は逃げへんかった、逃げられへんかった・・・・・・・・・。君の代は投手が少なかったんか、打ち崩されても、明らかに疲労しとっても…君はマウンドから降りんかった。イヤ…降りられへんかったんかな。せやけど…君はあないに小さな体で、気迫は相手の大柄な投手に負けとらへんかった。打線の援護もなく、意気消沈しとるチームの中で、君だけが最後まで闘志を失っとらへんかった。試合終了のサイレン鳴った時…俺の方が泣いてもうたわ。できるんやったら、よう頑張ったって抱きしめに行ったりたかった。せやけど、そないな事したら不審者扱いでつまみ出されるよってな…代わりに俺が、死ぬ気で投げたるって思うたもんや。不思議なもんで、そこから調子も戻ってきて、勝ち星も取れるようになった。負けた試合にこないな事言うんも失礼やけど…折れへん君の姿を見て、俺は立ち直れたんや」

「…恥ずかしい姿をお見せしました。憧れの甲子園のマウンドに立てたのに、大敗して第二試合敗退なんて…悔しかったですよ。1回勝ったぐらいで、天狗になってたのかもしれませんね。どうせなら、大勝した第一試合を見てほしかったです」


楢崎は諦観の笑みを浮かべ、木笠と同じように空を仰ぐ。当時の苦い記憶を思い出して、泣きそうになるのを堪えるように。そんな暗い空気になったのを察したイグニスが…ぽつりと溢す。


「今からでも遅くないんじゃないか」

「へ?遅うないって、何が…」

「よく頑張ったって、頭でも撫でてやればいい。こんなチャンス、次にいつあるか分からないんだし。できることはできるうちにやっておいた方がいいと思うけど」


木笠と楢崎は暫く呆けていたが…やがて木笠が苦笑を漏らし、楢崎の頭を軽く撫でた。


「わっ…ちょっ、汗かいてますって…」

「せやな、誉めるんに遅いなんて事ない。よう頑張ったな、頑張った…うん、ようやっとったよ、君は…ようやった」


木笠はそのまま楢崎を抱え込み、楢崎の頭が木笠の胸板に押し付けられる。楢崎は感極まり、木笠に見えないように涙を流した。20cm近く身長差のある投手同士の"労い"を、イグニスは黙って見守っていた。


「…すまんすまん、いきなり悪かったな」

「いえ…大丈夫です。むしろ、気を遣わせてしまってすみません。なんか…スッキリしました。ありがとうございます」


楢崎の言葉に嘘はなく、心の曇りが晴れたように爽やかな笑顔を浮かべていた。それを見て、木笠もニカッと笑い…和やかな空気に戻ったところで、イグニスがスマホの画面を見て声をかける。


「…一段落した?次の電車、3分後だから急いだ方がいいんじゃないか」

「うおっほんまか、食った後に走りたないんやけど~!」

「ま、待ってください…!」





───なんとか電車に間に合った3人は、波来祖中央駅で降りた後、イグニスの荷物を回収して…木笠も共に三ノ宮まで同行し、人も少なくなった駅北部をまた連れ立って歩いていた。


「なんや、ここまで近かったんやね。同じ駅で同じ方向やったらド近所やん…お、此処の銭湯おすすめやで。広いし、湯が温泉なんや。さすがに今日はもう閉まっとるけど、またゆっくり来たらええわ。………あ、ハッテン場・・・・・やないから大丈夫やで」

「はは…」


木笠の最後の言葉は冗談であると理解しつつも、どうも反応に困って楢崎が苦笑していると…イグニスは本当に理解できなかったらしく、怪訝な表情を浮かべて首を傾げた。


「え、何?ハッテン場って…」

「わーわー何でもあらへん忘れよか~!よーしよしよしええ子やね~はい忘れた!」

「何何何、何だいきなり!」

「(やっば~この子未成年なの忘れとったわ、いらん事言うた~!)」


木笠は失言を誤魔化すため、イグニスの頭を滅茶苦茶に撫で回したが…イグニスは不服そうに黙り込んでしまう。しかしそこまでされれば、イグニスも"深く聞かない方がいい単語なんだろうな"程度の察しはつく。先程は自身も多禄に関して失言したし、これで帳消しにするか…と諦め、ひとまず聞き流すことにした。


暫く歩くと、分かれ道に辿り着いた。


「俺こっから西やねんけど、君らは?」

「あ、此処から東ですね…さすがにお別れですか」

「名残惜しいけど、まあ今生の別れやないしな…そうや」


木笠は徐にスマホを取り出し、LINEのコード画面を表示した。


「えっ」

「俺の連絡先。君らやったら悪用せんやろ?楢崎君も、魔族とかなんとかの話できる人間はおって損はないやろし、逆に魔族のイグニス君も、事情分かる相手がおった方が相談しやすいやろ?シゲさんの前やと個人情報の管理ガー!って絶対止められたからな…なんか困ったら連絡してき、練習中とか試合中は出られへんけど、朝と深夜やったら返事できるよって」

「でも、そんな簡単に連絡先教えたりして…」

「ええのええの。今の連絡先、同じプロ選手とトレーナー、行きつけの居酒屋数件とタクシー会社ぐらいしかないねん。楢崎君は俺の方が困っても頼りにできる警察官やし、元ピッチャーで話も合うやろ。イグニス君は種目はちゃうけど同じアスリートやから、トレーニングの相談とかにも一応乗れると思うで。俺やって別ジャンルの友達・・ぐらいほしいわ…まあ、こないなおっさんが友達て、迷惑かもしれんけどn」

「「そんな事ない(ぞ/です)!!!!」」


イグニスと楢崎は木笠の方に身を乗り出すようにして言い切り、早速表示された木笠のコードをトークルームに登録した。


「ついでに俺達も相互登録しとくか」

「そうですね、何かと必要そうですし」

「よーし、これで俺らは内緒の友達・・・・・やな!秘密基地みたいで、年甲斐もなくちょっとワクワクしてきたわ…ほな、お休み。此処から遠ない思うけど、君らも気ぃつけて帰るんやで」


それだけを告げ、ゆっくりと楢崎達に背を向けた木笠に…


「───木笠選手」

「ん?どないしたんイグニス君」

「あんたは俺が同じアスリートだからって言ったけど、俺はあんたが引退しても、あんたが消せって言うまでこの番号消さないから。アスリートじゃなくなったからって、簡単にあんたとの縁を切ったりしないから」


真剣な表情で木笠に告げていたイグニスの表情が───優しい笑顔に変わる。


「俺は福岡から来たけど、今日1日で大阪ティーグレスの事が好きになった。あんたの事も、本気で応援する。…頑張って」

「…おう、おおきにな。君も無理せずにやるんやで、オフやったら君の試合も見に行ったるさかいな」


木笠も悪戯っぽい笑顔を返し…3人は互いに手を振りながら別れた。





───楢崎のアパートはそこからすぐの場所にあり、男ひとり暮らしには十分な1LDK。この時間では、ユピテ達による電磁結界そうおんもさすがに止んでいた。JITTEの給料ならもっといい場所にも住めるのだが…楢崎はそうしなかった。職場との往復、時々趣味。それさえ満たせるなら、部屋の広さにこだわりなどなかったから。JITTEにいればそのうち死ぬ・・・・・・、という消極的な考えがないわけでもないが。それを反映したかのように、楢崎の部屋には物があまりなく、少し寂しさすら感じた。


「荷物はその辺に適当に置いてくれたら大丈夫です」

「待った、キャリーの車輪拭かないと」

「いいですよ別に」

「適当だな…ん?」


呆れながら背筋を伸ばして部屋を見渡していたイグニスの視線が、この部屋には珍しく派手・・な物体を捉えた。


「なんだこれ、ロボットの人形…?」

「あー触っ…てもいいですけど、壊さないでくださいね。プラモデルですよ、まあ…趣味みたいなものです」


イグニスの視線の先にあったのは、妙に存在感を放つ木の棚。そこには殺風景な部屋には不似合いな、色とりどりのプラモデルが数体並べられていた。


「へぇ、凄いな。あんたが作ったのか」


イグニスはプラモデルが並んだ棚まで歩み寄り、しかし壊すのを恐れてか至近距離で眺めるに留めていた。


「暇だったら、明日にでも1個ぐらい作らせてあげますよ。買っただけで積んでるのあるし」

「えっ…イヤ、それはあんたに悪いというか、折角自分で作ろうと思って買ったんだろ」

「フフ…知っていますか、初心者の悲鳴ほど新鮮で美味しいものはないんですよ」

「あんたキャラ変わってないか?」


イグニスも興味が湧かない訳ではなかったが…この波来祖には遊びで来たのではない。最初の指令…"偽物フェイカー"・平故ピングーの監視を果たすため、まずはその姿を現認しなくてはならない。しかもヘルツのように、特定の団体による保護と監視が既になされている相手ではない。それに…


「…飛龍の親族、筧飛燕と美鈴にも直接会って、話さないといけない」

「あ…そう、でしたね。お葬式の段取りとか、電話だと難しい部分もあるか…。美鈴さんでしたら一応自分が連絡つきますから、もし必要なら声かけてくださいね」

「え、そうなのか?」

「…まあ、波来祖こっちでも色々あったんですよ。学校に潜入とか…」

「恨みがましいな、どうせあんた生徒役やらされたとかだろ」

「グギッ………」

「図星か。英断だと思うぞ、教師役じゃナメられそうだしな」


なんとか反論したかったが、188cm16歳クソデカ高校生サイズに言われては立つ瀬がない。苛立ちの行く先を失った楢崎は…


「キーッ!もう遅いんですから、さっさとシャワー浴びて寝ますよ!ほらバスタオル!自分が浴びてる間に入る準備しててくださいね!」

「うおっ、そう怒るな、適材適所というか…悪かったって」


楢崎が大股に浴室へ消えると…机の上に乱雑に置かれた数冊の本がイグニスの目に止まる。適当に重ねられている本の姿は几帳面なイグニスにとって落ち着かず、悩みながらも机へと近づいていく。


「(勝手に触るのは…イヤ、ちょっと整えるだけ…整えるだけだから)」


しかし…その本のタイトルを見て、イグニスは息を飲む。

『終活』『遺書の書き方』『身辺整理の方法』───およそ働き盛りの27歳が買い込む本の内容とは程遠い。


「───なんで…こんな」


まさか楢崎は、重大な病でも抱えているのか…それとも、隠しているだけで強い希死念慮に苛まれているのか。そう思うと、冷や汗が滲み、血の気が引いて呼吸が苦しくなる。それでも震える手でその本を整えようとすると…本の間に何か紙が挟まっているのに気がついた。この本の並びから嫌な予感はしたが…やはり落ち着かないので、一思いに紙を引き抜くと───その内容はやはりと言えるもので、イグニスは込み上げる吐き気を必死に堪えた。


───遺書・・


死を覚悟した者が記す、最期の言伝。それを…まだ若い楢崎が何故記したのか。そう考えるうちに…早くも楢崎が浴室から戻ってきた。


「あっちょっと、何やってるんです?」

「わぁあっ!?」


楢崎の声に驚いたイグニスの手が、うっかり本と遺書を床に叩き落としてしまう。


「あっ、う…すまない、でも、なんでこんな…遺書なんて」

「うわ泣きそう…気にしなくていいですよ、それ失敗したやつですし、あとで捨てておきます」

「失敗…よかった、じゃああんた、まだ死ぬ気はないって」

「清書は既に提出しています・・・・・・・・・。何もおかしくありませんよ、JITTEは既に死んだ者・・・・・・の扱い。本当に命を落とした時、提出した遺書が親族に届く仕組みです。自分達だけでなく、WAVEの人達も加入と同時に遺書提出しますしね。命を懸けて悪魔やアンノウンと戦う事…その覚悟を示すために」


楢崎は真っ直ぐにイグニスを見て告げた。その"覚悟"に…イグニスは何も言い返せなかった。それでも…


「…死ぬ覚悟、か」

「…君には早い話だったかもしれませんね。その若さではまだ」

「誰かを守るために命を捨てる覚悟があるって意味なら、俺だってないわけじゃない。だけど───」


思い出す。フレアに狙われたカナワを守るために、上空から急降下してカナワを庇い…失血死しかけた時のことを。それを今此処でわざわざ語ることはしないが…楢崎もまた、あの時の自分と同じことをする可能性があるのだと痛感した。


「あんたいい奴・・・だ、死んでも構わないなんて思えない。あんたが死んだら…俺は悲しい。苦しいよ」


相手はまだ会ってすぐの、魔族の青年。それでも…泣きそうになりながら、自らの死を悲しむと言われた楢崎は、少しだけ心の重荷が軽くなった気がした。

要らないと言われてきた・・・・・・・・・・・自分に、それだけ思われる価値があるのかと、今一度考える程度には。


「そんなに思い詰めないでください、自分だって簡単に死んでやるつもりはありません。祖母の死の真相を知るまでは…絶対に。…ほら、シャワー浴びて寝ましょう」

「…ああ、すまなかった」


イグニスは改めて落とした本を拾い上げ、端を揃えて机の上に置き直し、バスタオルと着替えを持って浴室へと向かった。楢崎の言った"祖母の死"とやらも気にはなったが…その話は改めて聞くことにして。





───楢崎よりは時間がかかったものの、イグニスも10分程度でさっとシャワーを浴び終え、その間に楢崎は部屋に布団を敷いていた…1組だけしかない布団を。


「うわ君、髪の毛下ろすと年相応って感じに見えますね。意外」

「うるさいな、老け顔って言いたいのか」

「違いますって、むしろ逆…こっちが幼く見えるって言いたかったんです」

「それ誉めてるのk…って、布団1組か。そりゃそうだよな…ひとり暮らしなんだから、布団がいくつもあるわけない。まあ、屋根があるところに泊めてくれただけで上等だ。俺はその辺で寝るから気にするな、手洗いに起きた時に蹴り飛ばしてくれるなよ」

「いやいや、自分が連れてきておいて地べたで寝ろって言うのも非情でしょう…布団使っていいですから、体痛めますよ」

「家主を差し置いて寝床を占領できるか…うーん、だったら横並びで寝るしかないんじゃないか」


提案したイグニスは深く考えていない様子だったが…


「えっ!や…それは、その」

「何、寝相でも悪いのか?頻繁に蹴り飛ばされるなら確かに勘弁願いたいが」

「そ、そうじゃなくて…」

「煮え切らないな、男2人が横並びで寝るだけだろ。それが納得いかないなら、やっぱり俺が玄関かどこかに転がるしかないな」

「それはダメですって…ううっ、分かりました…横並びでいいです」


別に楢崎も、今更イグニスの事が怖くなったとか、嫌になったとか、そんな幼稚な理由ではない。ただ…誰かと一緒の部屋で寝るという経験が、楢崎には殆どなかった。だから、今になって妙に緊張してしまっていたのだ。


「…じゃあ、電気消しますよ」

「ああ」


───暗闇と化した部屋には、カーテンから月明かりが僅かに漏れるだけ。五感のうち視覚が鈍ったことで、他の感覚が研ぎ澄まされるのを感じる。一足先に布団に転がっているイグニスの隣で、楢崎も覚悟を決めて横になる。


「(…知らないシャンプーの香りがするぜよ)」


楢崎が浴室に置いているものとは違う、透き通るような石鹸の香り。イグニスの私物であることは想像がついたが…


「(ううっ…ソワソワする)」


同じ部屋どころか、真横に他人がいる状況。寝るどころか目が冴えてきてしまった楢崎の横で…


「───そうだな、もう…タバコのにおい・・・・・・・はしない」

「…え?」


楢崎が何かを言う前に───イグニスが上体を起こし、"床ドン"の体勢…四肢で楢崎を囲むように、上から覆い被さってきた。


「───っ!?」


抱きつかれているわけではない。だから楢崎に身体的な負荷は一切かかっていない。辛いのはむしろ、四つん這いの体勢になっているイグニスの方だが…その行動の理由が、楢崎には分からない。ただ…僅かな月明かりが照らしたイグニスの表情は、何故か寂しそうに見えた。


「あ、の…何を…?」

「さっき…喫煙所で弥茂選手と何を話してた?あんたタバコなんて吸わないのに、離席から戻った時…弥茂選手と同じタバコのにおいが染み付いてた。俺に言えないこと?言いたくないこと?だったらもう聞かない。俺…あんたを信じていいんだよな?」


───息を飲む。弥茂に話したのは…よりによって魔族との関わり方についてだ。誤魔化すべきか…という思考は、至近距離で自身を見つめるイグニスの視線によって破棄された。


「(…ダメだ、誤魔化した方が拗れる───てか近くで見たら、睫毛長っ!顔が近い!吐息がかかる!なんだよ…そんな表情かおされたら、嘘なんかつけんぜよ…)」


イグニスの体勢に反して、拘束力は恐らく殆どない。だから突き飛ばして離れることはできたが…そんなことは当然できなかった。悲しげに見つめられているだけなのに…息が上がり、心臓がやかましく脈打つ。朦朧としてきた意識をどうにか手離さないようにして、荒い呼吸の合間に答えを返す。


「………っ、自分は…魔族と接するのは初めてだったので、何か気を付ける事はないか、弥茂捕手に聞いただけです…。でも、あの人の言う通りでした…今日、君と一緒にいて…っはは、楽しかったから。警戒することも、気を付けることも、関係なかった。今日会ったばかりの君の事を、自分は…とっくに友人・・のように扱ってたんだから。…これで信用の証になるか分かりませんが、君さえよければ…波来祖滞在中は此処に泊まっていいですから。自分が信用に足らないと思えば、君はいつでも自分の首を掻き切れる…それでは不足でしょうか?」


楢崎は…力の抜けた締まらない笑みを浮かべて、目を瞑った。イグニスに殺意や敵意はない。それでも…隠し事をするような形になったのは事実。ビンタの一撃ぐらいは覚悟するか───そう思っていると。


「───バーカ、そんなことするか。俺も楽しかったんだから…あんたは大切な友人・・。それでいいだろ───ケンゴ・・・


イグニスの甘い声が、耳元で囁くように震える。そして…軽く額同士がぶつかる感覚がして、目の前にあった圧が薄れたのに気づいて目を開けると、イグニスは上体を起こして楢崎の脇へと戻り、苦笑混じりの笑みを浮かべていた。


「脅すような真似をしてすまなかった。…というか、今の、その…っ、セクハラとかそういうのになる…?俺…とんでもないこと、あんたにしてたんじゃ…!?」


イグニスは今更になって顔を真っ赤にして狼狽えるが…

楢崎の苦悩・・は、恐らくその比ではなかった。

先程、木笠がイグニスを意地でも野宿させたがらなかった理由が───今になって分かった・・・・・・・・・


「(あ…危なかった・・・・・なんとか耐えた・・・・・・・…!相手は男だって分かってるのに、揺らぎかけた・・・・・・…!こんなの、ずるい…これが、魔族の脅威・・…!)」

「…小兵?どうしt」

「あーすみませんちょっと今話しかけないでもらえますか…君のせいで、ちょっと苦しい・・・ので…」

「えっ…だ、大丈夫か…?やっぱりストレスがかかって」

「いやほんと大丈夫ですから、ちょっと距離取って…ほんとに」


爆発しそうに高鳴っている心臓と、呼吸を整える時間が必要だ。意識すればするほど、それ・・は言うことを聞かなくなる。


「(友人・・、って…自分で言うたろう、アホ)」


冷房を入れているのに、折角シャワーを浴びた身体がもう汗ばんでいるのが感覚で分かる。それが暑さのせいだけではないことぐらい…理解している。

そうしているうち…隣のイグニスは深く聞くのを諦めたのか、穏やかな寝息を立て始めた。こちらの気も知らず…と少し恨めしげに寝顔を覗き込んだのは失敗だった。どうにか落ち着き始めていた心臓が、年相応の青年らしい無防備な顔を見て再び爆音をあげる。


このままではまずい、と判断した楢崎は、再び浴室へと向かおう…とするが。


「(えっ…嘘、待っ)」


すぐ横にいたのが災いしたか、イグニスは楢崎を抱き枕のように抱え込んでしまう。昼の電車内と同じように、楢崎の額がイグニスの胸板に密着する。少しひんやりとした身体からは、楢崎と違い落ち着いた心臓の鼓動が伝わってくる。鼻腔を擽る他人のシャンプーとボディーソープの香りが、楢崎の心臓を余計に跳ねさせる。


「(───寝られるわけ、ないろう)」


昂るばかりの火照りを何処にも逃がせないまま、無情にも夜は更けていく。





───同時刻。一軒家の自宅でひとり休んでいた木笠も、ちょうど就寝前のストレッチをして寝入る所だった。


「やれやれ、今日は色々あって疲れたわ…楽しんだ後は倍疲れる言うけど、ほんまやな」


今日の試合も、その後の座談会も、本当に楽しかった。新しく若い友人・・にも恵まれ…幸せな気分で寝られそうだった。


───ただひとつの懸念を除けば・・・・・・・・・・・・


木笠の顔から笑みが消え…作業用デスクに置かれた写真立てを横目で見る。そこに笑顔で写っていたのは、10年以上前だろうか、まだ若い木笠と、もうひとり・・・・・───


「…お前は俺を許さへん・・・・やろうな。俺が誰かと仲良うするんも、試合で活躍するんも、プライベートを楽しむんも…お前にとっては恨めしさ・・・・しかないやろう。せやけど───」


木笠はデスクに歩み寄り…苦い顔を浮かべながら、写真立てを前に倒した。


「───ええ加減にしてくれんか・・・・・・・・・・・棺出カンダ。俺を呪い殺す・・・・なら、勝手にせえ。俺は…もう、忘れなアカンのや。そうせーへんかったら…いつまでも前に進めへんねん」


そう呟いた木笠の瞳は…冷たく、しかし悲しげに揺れていた。





───【速報】木笠ユキナリ 今年退団か 肩の故障治らず───

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