[Episode.7-混沌ケミストリー•B]

───イグニスの荷物をひとまずコインロッカーに預けると、コンビニでチケットを受け取り、今度こそ痴漢に遭遇することなく、3人は無事に甲子園駅へと降り立った。

甲子園の目前まで来たイグニスは、チケットの印刷面に書かれている文字を睨みながら難しい顔で唸り声をあげる。


「うう…ゲートと席順、やっぱり福岡とは別物だな…結局何処に行けば入場できるんだこれ…」

「イグニスは、野球観戦は初めてなんですか?」

「カナ…あー、小うるさい兄貴分兼ライバルに、福岡のドームに連れていかれた事は何度かある。だから野球のルールも多少は勉強したつもりなんだが…甲子園は来たことがないから、入場場所の勝手が分からなくて」

「見せてください、甲子園なら自分達の方が慣れてますから…こっちですね」


先程までとは立場が逆転し、今度は楢崎がイグニスの腕を掴んで、意気揚々と指定されている入場ゲートの方へと進んでいく。その様子に、イグニスは…


「(…良かった、さっきの痴漢の事は忘れられてる。チケットを取り直して正解だったな)」

「ん?何か言いました?」

「イヤ、何も。それより、少し腹が減ったな」


イグニスの何気ない一言に、楢崎の目が急に輝いた。


「だったら球場メシですね!甲子園のグルメは本当に色々ありますから、きっと目移りしますよ!選手弁当というのもあってですねっ」


楢崎の熱のこもった早口に、イグニスは思わず圧倒されて息を飲む。


「お、おう、すごい…んだな…」

「あっ…すみません、ひとりで熱くなって…。確か君はフィギュアスケートの選手、つまりアスリートですし、栄養バランスとかも考えないといけませんよね…」

「それは大丈夫だ。当然ある程度のバランスは考えるが、俺は食事に関してはまず量を摂取する必要がある。福岡のドームでも色々と食べてきたが、甲子園もなかなか楽しめそうだな」


魔族は人間より三大欲求が強く、イグニスも魔族である以上は同様だ。しかも年齢的にも人間の男子高校生…育ち盛りで、運動をしていればかなりの食事量を必要とする年齢に該当する。そんな彼にグルメ情報などちらつかせれば、どうなるかは明らかだ。イグニスは楢崎の説明を聞いて気圧されはしていたものの、初体験となる甲子園のグルメに胸を躍らせていた。


「あのテントで売っているのが選手弁当とやらか?この暑さで常温で置いてるのを見ると不安になるな…」

「大丈夫ですよ、あれは平積みするギリギリまでちゃんと冷暗所に置いてますから」

「それもそうだな」


イグニスは楢崎を引っ張り、弁当を売っている小規模なテントに走り寄ると…


「ここにある弁当、全部1個ずつ貰えるか?」

「はーい、おおきに~」

「めっちゃ食う!?全種類って、10個はありますよ!?」

「言ったばかりだろう、量が要るって。どれも旨そうだし、この程度なら余裕で完食できる。…どうも」


目を丸くする楢崎をよそに、イグニスは平然とした様子で代金を払い、上機嫌で店員から弁当の塊を受け取った。


その時…


───「だぁーッ、やっと着いたわ!ヤバイやんもう試合始まるやん、はよせなしばかれる~ッ!」


両手に弁当を下げたイグニスに向かって、ひとりの中年男性が慌てた様子で突っ込んできた。


「えっ?ちょっ…」

「へ?うわっヤバ、避けて!」


───咄嗟にイグニスが靴底に氷の刃を生み出して後退し、正面衝突は免れたものの…避けきるには至らず、接触した2人はその場に尻餅をついてしまった。


「いっ、た…」

「あいてて…すまん、前見てへんかった。大丈夫?怪我してへんか?」


先に立ち上がったのは中年男性の方だった。少し癖のある栗色の短髪にタレ目の男性は、自分より弁当を守ろうと両腕を目一杯上げていたイグニスの腕を掴んで引っ張り立たせた。


「…俺は問題ない、弁当はシェイクされたかもしれないがな」

「ほんまにすまん、せやけど俺めっちゃ今ピンチやねん。弁当シェイクの詫びは試合後・・・にするよって、また此処に来てくれへんか?」

「試合後…まあ、いいが…」

「ほんま堪忍、試合楽しんでな・・・・・・・!」


男性が大慌てで走り去った後も、イグニスがどうせ自分の用事も試合後だしな、とのんびり考えていると…脇にいた楢崎が驚いた顔で石像のように固まっているのに漸く気がついた。


「…何?どうかしたのか?」

「い…今の、人」

「は…?」

ユッキー・・・・!!!!?な、なんで今の時間に此処に!!!!?」

「うるっさ…だから何なんだ!?」


苛立つイグニスに、楢崎はそれを上回る"怒り"をもってイグニスの胸ぐらを掴む。


「ユッキー、木笠キガサユキナリ!今年で入団20年目、大阪ティーグレス一筋の大ベテラン投手で、今日は投球回3000回達成がかかってるんですよ!だから今日、絶対に見に来たかったんです!」

「わ、分かったから離せ!落ち着けって!喧嘩と思われたら今度こそあんたの同僚が飛んでくるぞ!大事な記録がかかってるんなら、その瞬間を見逃したくないだろ!?」

「ウッ!」


楢崎は弾かれたようにイグニスから離れ、男性…木笠が走り去った方向に目をやった。


「グヌッ…でも、小金本選手といい…君ばっかり、ずるいです」

「それは…なんか、すまない…」


イグニスが2人と関わったのはどちらもトラブルではあるのだが、空気的に謝罪せざるを得ない雰囲気になってしまった。

そこで…


───「オイこのバカ男子共、あーしの事忘れてねーか!?」


甲子園の手前にあるアルプスショップで買い物をしていたホロが漸く追いついてきた。


「知りませんよ、ホロ姉が勝手に離脱したんでしょう」

「あ?なーんだ坊オメーその言い方は?ん?」

「あぁもう、だーかーら!揉めてると警官が飛んでくるって言ってンだろうが!早く座席行くぞ、もう試合始まるんだろ!?」


イグニスの指摘に楢崎は我に返ると…


「そ、そうでした…急がないと」

「やれやれだ…」


大荷物の2人の先頭に立ち、チケットに記載されたゲートへと足を早めた。

その途中…イグニスの中には新たな不安が芽生えていた。


「(だとしたら…怪我をしていたらまずいのは俺じゃない、あの投手の方だ。見た感じでは大きな怪我はなさそうだったが…何事もなければいいけど)」





───なんとか指定の席に着くことができた3人が試合開始を今か今かと待つ間に、イグニスは早速買った弁当を吟味していた。


「急いでいたからあまり見ないでまとめ買いしたが…ステーキ弁当に唐揚げ弁当、野菜中心の農家ヘルシー弁当というのまである。味も知識も選り取り見取り、参考になるな」

「参考?君、自炊とかするタイプなんですか?」

「条件を満たせれば、魔界料理人の資格を取りたいと思ってる。レシピ提出のハードルがシビアなんだが、弁当という切り口は今まで試したことがなかったから新鮮だ」

「ハイスペックすぎませんか君…イヤもう聞いちょらんやないか」


楢崎のセルフツッコミの通り、イグニスは(運良くそこまでシェイクされてはいなかったらしい)弁当を堪能するのに夢中になり、時折幸せそうに微笑むのを楢崎とホロで眺めながら…2人もつられて苦笑していた。


「フフン、農家のありがたみを知れよ?イーくん・・・・

「もう名前覚えるの面倒になって変な呼び名になってる…なんだ、あんたら農家なのか?」

「いんや、あーしが農大の講師やってんだよ。今日は久々の休みってわけ」

「そうなのか?講師…確か相当優秀でないと、その若さではなれないはずだ。あんた凄いんだな」

「オイ坊、こいつあーしが貰っていいか?」

えいわけないろういいわけないだろ!何言いゆーがじゃ言ってるんだよ!まったく、相変わらずおだてに弱いんだから…」

「へーン、拗ねてやーんのー」

「呆れちゅうがぜよ!」

「ちょっ、肩組むのやめてもらっていいか…弁当が落ちる」


ホロが渋々離れると、イグニスは一旦箸を止める。


「本来なら姉弟水入らずだったんだな…家族の時間を邪魔してしまってすまない」

「イヤイヤ、オメーがすぐチケット取り直してくれなかったら、そもそも此処に来れてねーから!ありがとな…だから、はい、これ」


ホロはおもむろに先程の買い物袋を漁り…大阪ティーグレスのレプリカユニフォームを取り出すと、イグニスの肩にかけた。その背番号は…小金本選手の『6』。


「えっ…」

「小金本選手が気になってるんだろ?あーしからの礼だ…あ!勿論チケット代は別で、後でちゃんと返すからな!あっぶね忘れるとこだったわ…もう今出しとこ、いくらだった?坊のも合わせてあーしが払うから」


青ざめてカバンから財布を取り出したホロに対して、イグニスは再び弁当を食べ始めながら答える。


「…いいよ」

「へ?い、いやそういうわけには」

「もう、貰った。本当ならひとりで来るはずだった道中が、とても賑やかだった。だから…いい。もう十分だから」


やはりイグニスも、博多を離れたことに対する寂しさはあった。口うるさいとは言いながら、カナワやイフユ、多禄とベルフェ───勿論、飛龍とも過ごした日々が充実しすぎていたから…今朝博多を離れたばかりなのに、こうして冗談を交えながら誰かと話すのが、もう懐かしく感じていた。


「それより、あんた達はこういうの着ないのか?俺よりあんた達の方が、大阪に捧げる熱が違うと思っ」

「あーし達は自前のがあるからな!」


ホロはそう言うが早いか、カバンからやや年季の入った、大量にワッペンを張り付けたレプリカユニフォームを取り出して素早く羽織った。見れば、楢崎も同様にレプリカユニフォームの早着替えならぬ早羽織りを完了しており、それだけでなく応援時に打ち鳴らすカンフーバットまで早々に用意していた。


「さ、さすがだな…というか、あんたらは何も食べなくていいのか?」

「あーしは後でビールと唐揚げ買ってくるから」

「球場内では選手弁当以外にも選手プロデュースメニューがあるんですよ、自分は今年そっちを目当てにしてて」

「何だそれ気になるぞ、後で俺も見に行くか…」

「まだ食べるんですか!?…うわもう弁当半分完食しちゅーぜよ、はっや」

「どれも美味い、恐るべしだ甲子園」


完食した空箱を片付けながら流れるように次の弁当を開けるイグニスを見て、楢崎は甲子園の魔物って食欲モンスターだったか?と胡乱な疑問を持ち始めた。


そうこうするうち試合開始時刻になり、1回表は守備となる大阪側のスタメンが順番にボードに表示されていく。小金本は打順5番・守備位置はセカンドでのスタートになるようだ。

選手の名がコールされるたびに応援団を中心としたファンからは歓声が上がり…その声量と金管のけたたましさにイグニスの肩がその都度震えた。


「…大丈夫ですか?」

「お、大きい音が苦手なだけだ…」

「あー…この席、応援団にかなり近いですからね」

「気を悪くしない、ッでくれ、目標に一丸となって団結するのは悪いことでは、ッ」

「しんどそう…無理はしないでくださいね、というか顔色悪くないですか?」

「音もだが、気温が………」


既に熱にやられかけているイグニスを見て、楢崎は博多支部からの報告書の内容を思い出した。


「そういえば、君は氷魔術の使い手とありましたね…暑さに弱いなら、尚更無理はしないでください。これ飲んでいいですから」


楢崎がイグニスに渡したのは、チケットを受け取ったコンビニで買ったらしい、ポカリのペットボトル。


「…悪い、後で代金は払う」

「いいですよ、君だって駅で自分に水くれたじゃないですか。だから、これでおあいこです」

「…なら、遠慮なく。助かった」


イグニスは受け取ったポカリを飲みながら一息つき、スタメン発表の終わったバックスクリーンを振り向いて見上げる。


「…野球初心者的には、名前の下の数字が打順と混乱するんだよな」

「あれ守備位置ですからね、2なら捕手キャッチャー、6なら遊撃手ショート…確かに順番が滅茶苦茶になっているように見えなくもないです」


そして…イグニスには気がかりなことがもうひとつ。


「えっ…木笠選手の名前がないぞ?記録がかかってるってことは、試合に出ないと意味ないんだろう?まさか、さっき俺と接触した時に怪我…」

「大丈夫、ユッk…木笠投手は抑えクローザーですから、出てくるならスタメンではなく試合終盤ですよ。しかも抑えは試合に勝っていないと出てきませんから、投球回の記録が今日達成されるかどうかは試合の展開次第なんです」

「そういうことか…なら、チームには意地でも勝ち越してもらわないとな」

「まさに、3番4番5番クリーンナップに配置されている小金本選手の活躍も期待しないとですね…最近は調子出てないみたいだから、今日こそ打つところ見たいんですけど」


楢崎達の思惑を背に、1回表…守備のマウンドに上がったのは、背番号11───鳴輝ナリキレオ。今年で20歳になる、プロ2年目の若手投手だ。明るめの茶髪がトレードマークで、子犬系の顔が若い女性からの人気を急上昇させている…とは、野球系週刊誌による"喧伝"だ。


試合の流れを引き寄せるために、大事な勝負となる先頭打者。捕手のサインに頷いて、投げた3球目を───打者のバットが捉え、高々と打ち上がる。


「うわっ…!」


イグニスと同じように、スタンドからは一瞬悲鳴が上がるが…楢崎は落ち着いていた。


「大丈夫、あの高さなら…スタンドには届かない」


そして打球は楢崎の言った通り、スタンドよりずっと内野寄りに落ちていき、破裂音を立てて中堅手センターのグラブに収まった。


「…あんた、よく分かったな」

「一応経験者なので。まあ、外野スタンド席にいたら、高く上がった打球が全部ホームランに見えるのは分かりますけどね」


そう答えながら、楢崎の視線はマウンド上の鳴輝投手にあった。


「(さすがだ、若手といえど落ち着いてる。さっき打たれた時も、打球を振り返らなかった・・・・・・・・・・・。後ろを信頼してても、なかなかできることじゃない。甲子園のマウンド…自分も一度だけ立った・・・・・・・、苦い思い出の場所。やっぱり、プロ選手は…違うなぁ)」


そのあと続く2番打者、3番打者も打たせて取り・・・・・・、1回裏…いよいよ大阪側の攻撃へと移る。


つまり───


「ヒエッ…!」

「だ、大丈夫ですか!?」

「さ、さっきまで大人しかった、のに…っ!?」


意気揚々と鳴り響く応援団の金管楽器の音色に、イグニスが飛び上がる。攻撃ターンの大阪ティーグレスファンの熱意と勢いは、12球団でもトップと言える程だ。その指揮を執る応援団の派手さは、今更言葉にするまでもない。運がいいのか悪いのか、イグニス達の席は応援団のすぐ近く。イグニスの顔色はみるみる悪くなるが…


「…大丈夫、せっかく来たんだ…耳を塞ぐのはもったいない、なんとかしてこの熱気に溶け込んでみせる」

「その前に君が溶け落ちそうな気がするんですが…」


漸く日差しも和らいできた6時過ぎ、試合は順調に進んでいく。





───その後。


お互い走者は出るものの、試合は0-0…両チーム無得点のまま4回を迎えていた。楢崎は隙を見て焼肉丼とポテトを買ってきており、ホロはビールを食らって既に出来上がっている始末だった。


「…俺も何か買ってくるかな」

「えっ、まだ食べるんですか!?」

「まだまだ余裕だ。それにあんたも、少しは野菜を摂った方がいいぞ」

「グギッ…い、いいんですよ、警察官は体力仕事…」


反論しかける楢崎に、イグニスは肩を組んで耳元で囁く。


「(知っているか、肉ばかり摂っていると…体臭がヤバいことになるらしい)」

「(………それは由々しき問題ですね)」

「…福岡の小うるさいプリンが薬剤師目指してて、そういうの詳しいから。俺達は人気商売と言ってしまえばそうだし、しょーもない理由でヘイト稼ぎたくないからな。野菜…そうだな、気休め程度だが、ついでに枝豆か何か買ってくるから」

「グヌッ…す、すみません…」


楢崎がイグニスを見送ると、今度は逆側からホロに肩を組まれた。


「グエッ酒くっさ!なんですかもう!」

「よーよー、男同士でなぁーに内緒話してんだぁ?エロか?エロ話かぁ?」

「バッ、あの子はまだ未成年やき、そがぁな汚い話はできん!余計なこと言うんやないぞ、バカ姉!」

「えっマジ?背ぇでけーから坊と同じぐれーかと思ったわ…あーでも顔はまだ若かったな!ハッハ、魔族ってすげー!」

「ダメだこのバカ姉、すっかり出来上がっちゅーぜよ…」


農大の実習の影響か、ホロからは若干の土の匂いと、今しがた飲みまくったビールのアルコール臭が混ざった臭いが漂っている。確かに、体臭の話はホロにもしてやるべきだったかもしれない、と楢崎は呆れ返っていた。


その頃───


「しまった、階段何処だったか…」


イグニスは枝豆と、入場後でも買えたらしい追加の農家ヘルシー弁当を持ったまま、売店エリアを彷徨いていた。


すると…前方から、大阪ティーグレスのユニフォーム、片手には黄色と黒のメガホンを携え、派手なツインテールを揺らす人影が歩いてきた。


「おろ?どないしたん君、迷ったん?」


ツインテールではあるが、声色は男。彼はイグニスを見ると、心配そうに近寄ってくるが…

その姿を見て、イグニスは一目で分かった。


「(こいつ…ヘルツ・・・だ!電車内でルーディスから追加で連絡が来た───"怪物モンスター"の現状報告、まさかその本人と、しかもこんな状況で鉢合わせするなんて!)」

「…どないしたん、怖い顔して?」


男…ヘルツはイグニスの事を知らないらしく、一般観戦客だと思っているらしい。そして、イグニスも…当然、自分から事を荒立てる気はない。ルーディスからの指示は、ヘルツが人間に危害を加えていないかの確認と報告。理由もなくヘルツを攻撃するメリットは、イグニスにも一切ない。だから…


「いや、あんたの言った通りだ。自分の座席が何処だったか迷ってしまって…早く戻らないと、連れを待たせているからな」

「ほーん、チケット持っとるよな?見せてみ、ウチ・・此処の特別名誉スタッフやさかい、座席の番号覚えるぐらい朝飯前なんよ」


監視対象に頼るのは気が引けたが、背に腹はかえられない。仕方なくチケットを取り出して渡すと、ヘルツはあぁ、と嬉しそうに声をあげた。


「すぐそこの階段上がって、左側に曲がって最初の通りを真っ直ぐ上がっていったらええよ。応援団の近くやろ?」

「ああ、すぐ近くだ。助かった」


イグニスは一礼してからヘルツに背を向けると…


「気にせんで楽しんでや───魔界監査官・・・・・くん♡」


ヘルツは声の調子こそ変えなかったが、イグニスは背筋が凍る思いだった。イグニスは慌てて振り向いたが、もうそこにヘルツの姿はなかった。


「あいつ、俺が魔族だと気づいて───」


瞬時に姿を消したヘルツだったが…イグニスはそこまで焦ってはいなかった。


「…イヤ、それはいいか・・・・・・


その理由は───ヘルツは魔界監査官の資料で無差別殺戮兵器・・・・・・・と定義されていたものの、甲子園での行動が確認されて以来、何故か殺害報告が一切途絶えていた。詳細は不明だったが、確かに今のヘルツからは殺意も狂気も全く感じなかった。この甲子園、そして大阪ティーグレスの何かがヘルツの衝動を抑制または変化させているに違いない、と魔界監査官は結論づけており…その調査を、ルーディスは波来祖に向かうならとついでのように命じてきたのだ。


「やれやれ…とんだ飛び入り調査だな」


イグニスが呆れたように呟いた時…スタンドから怒号のような悲鳴が響いてきた。何か起こったに違いない、とイグニスはヘルツに教えられた通りの道筋で自分の席へと急いだ。


───得点ボードに刻まれた、2-0の表示。此処に来て、相手チーム…東京ジビエーズに2点もの先制点を許してしまったらしい。


「小兵、これ…何が」

「…やられました、ツーランホームランです。1アウト・ランナー2塁から、甘い球を狙われて…」


弁当を渡した楢崎の苦々しげな表情を見て、イグニスも唇を噛んだ。マウンドで立ち竦んだままの鳴輝の背中が、先程よりも小さく見えた。


何より───



───「何やってんねんアホー!」

───「二軍行けや、役立たず!」

───「金積まれたんやないんか、この成金・・!」



「…やめろよ、なんで…どうして味方に暴言吐いてるんだ」


イグニスは青い顔で、今度こそ両手で耳を塞いだ。イグニスが、実は大阪ティーグレスのファンを苦手・・・・・・とする一番の理由がこれだ。応援の熱こそ12球団トップだが、裏を返せば…ミスや失点をした際の暴言のキツさも、12球団の中で群を抜いているのが大阪ファンだった。

その罵声を、若き鳴輝は振り向くこともせず、黙って背で受け止め続けている。


その在り方を・・・・・・イグニスは知っている・・・・・・・・・・


「───頑張れ」


イグニスは耳を塞いだまま、顔を上げてマウンドを見つめながら、絞るような声で呟いた。そして…


「頑張れ、鳴輝投手…なんとかなるから、頑張れッ!!」


罵声に紛れ、届かなくてもいい。それでも…イグニスは今の鳴輝が他人事に思えなかった。レオ、という名が、自身のスケートの師である冷鵝レンオウの呼び名と一緒だから…というだけでは、決してない。


それこそ…フィギュアスケートは転倒と隣り合わせのスポーツだ。イグニスだって、試合でも何度か転倒した事はある。その時、諦めと落胆、悲鳴が混ざった声がリンクに響くのを、イグニスは知っている。その"失望"を、たったひとりで受け止めて、それでも演技をやりきらないといけない孤独・・を…イグニスは知っているから。


そんなイグニスを見ながら、楢崎は…


「…大丈夫、野球は9人でやるスポーツです。今の鳴輝投手には、8人のチームメイトがついています。だから───」


楢崎が言い終えるより早く、プレイが再開され…鳴輝は落ち着きを取り戻したのか、後続の2人をしっかり打ち取って見せた。


「鳴輝選手は…投手ピッチャーは、点を取られた程度・・で折れちゃいけないんです。彼は若くても、もう立派なチームの要ですから」

「…そうか、投手は孤独なんかじゃないんだな。俺が思ったより…ずっと、強かった」


イグニスも漸く一息つくと、自分の席に座り…そこで、弁当を楢崎の分しか買ってこなかった事を思い出した。ヘルツとの遭遇やグラウンドからの悲鳴で、思考領域が満たされてしまっていたらしい。


「あ………はぁ、何やってんだか」


しかし、試合は4回裏へと進み、大阪ティーグレスの攻撃が始まる。しかもこの回は、5番・小金本からの打順で始まる。応援団の金管楽器がけたたましく鳴り響こうが、もう構わない。


「反撃開始…そうだろ、小金本選手」

「取られた点は、倍返しにして取り返すぜよ」


イグニスも楢崎も、打席に向かう小金本を睨むように見守った。


───先制された回のすぐ裏。同点、そして逆転の狼煙のろしを上げるためには、まず先頭打者が空気を作ることを要求される。その役割を任されたのは、5番打者・小金本コガネモトレツジ。ベンチには、追撃をなんとか抑えはしたが、やはり失点の責任を多少なりとも感じて肩を落とす鳴輝の姿がある。此処はやはり、先輩である自分がバットで取り返して、その負担を和らげてやるしかない。


「(この空気で凡退するわけにいかんで…)」


小金本は既に10年以上務め上げたプロだ、この程度のプレッシャーで緊張するような小心は既に捨てている。それでも…スタンドからの声援になんとか応えようと歯を噛みしめ、マウンドでこちらを睨む相手投手を睨み返す。


第1球───ボール。一見ストライクに見えた投球は、ベース付近で軌道を変えて捕手のミットに収まった。こんな見え見えの球に手を出す程、小金本の選球眼は甘くない。

第2球───ストライク、の球を小金本は見逃さない。しかしタイミングがやや遅れたかバットの先で引っかけてしまい、一塁線ボテボテのファールとなる。


「(クソッ、芯で捉えとったら…)」


ファールはストライクが入っていない状態なら2回までストライクに数えられ、3回目または2ストライク以降はストライクとは見なされず"打ち直し"になる。小金本はヘルメットを直しながら、黄色と黒の旗がはためくスタンド席を見やる。

───あの始球式以来、1番打者に立ったことはない。別に制裁を受けたとかではなく、監督による打順の大変革である。

元々小金本が据えられていた1番打者は、試合で最も打順が回ってくる。誰より多く出塁し、駿足を生かして盗塁などを絡め、後続打者のシングルヒットでも本塁に帰れるような進塁策が求められる。しかし今の大阪は、3番4番5番…所謂クリーンナップと呼ばれる、点取りを任せられる重量打者の方が不調続きで不足し、急遽小金本が5番に据えられた。元々の役割と違っていても、与えられた使命を果たすのがプロだ。慣れない打順で言い訳をする予定は、小金本の中には一切ない。


そんな小金本を───スタンド席の楢崎達も懸命に声援を送って見守る。小金本のヒッティングマーチ…選手固有の応援歌が、打席に立つ小金本を後押しする。



【今宵のヒーローは

いぶし銀 小金本!オー!

叩き込めスタンドに

特大アーチ

(レ・ツ・ジ!レ・ツ・ジ!)】



小金本は焦っても気負ってもいない、だが…打球はなかなかフェアゾーンに飛ばず、決め手に欠ける。連続ファールで粘るものの、次が7球目。試合慣れした中堅も、緊張が続いて疲労が隠せなくなってきている。勝負を見守る楢崎の方が、なまじ経験者のせいか精神がすり減る思いだった。


「ううっ…そろそろ決めないと、お互い体力を削られるだけですよ…」

「…応援の勢いが増している、すごい熱意だな」


イグニスは耳を塞いで…いるかと思えば、よく見れば逆に両耳に手を添え、何かを聞き取る・・・・・・・ようなポーズをしている。イグニスの言葉に、楢崎は…


「そりゃまぁ、大阪ファンの応援は───宗教・・みたいなものですから」



宗教

───■教



「そりゃまぁ、大阪ファンの応援は───■教・・みたいなものですから」


───イグニスの表情が、絶望し…悲しみに染まる。


「…こんな、ちっぽけな"願い"まで…剥ぎ取るのかよ」

「え?何を───」


楢崎は怪訝な顔で問うが…イグニスは、もう折れない。顔を上げ、真っ直ぐに小金本を見据えると───応援団のリズムにタイミングを合わせ、小金本のヒッティングマーチを歌い始めた。


「(俺は許さない・・・・許せない・・・・。だからもう、奪わせない───粘ってくれたお陰で、ヒッティングマーチは覚えられた。この"願い"は、俺が届かせる!)」



───『指揮者ディレットーレ2楽章・・ 情熱駆動アパッシオナート───



ちょうどその時…ベンチで肩を落としていた鳴輝が、何かを感じてスタンドの方へと目をやった。応援団の近く、スタンド席の上空に───人型の何かが浮いている・・・・・・・・・・・

煌めく銀の短髪に黒の軍服姿で、目の辺りは鍵盤を模したバイザーのようなもので覆われている。腰から下はストールが巻かれ、足はないように見える。両腕は肘から手先が宙に浮き、肘から肩にかけては存在しないらしい。その姿は───ヒトとは幾らか形状が違うものの、何故かイグニスに酷似していた。


「…あの、シゲさん・・・・?俺の目がおかしいんっすかね…?スタンドのあそこ、何か…」

「あーん?………何かおるな、え?ほんま何?」


鳴輝に声をかけられた、捕手のシゲさん・・・・───弥茂ヤシゲヒロノブも、思わず眼鏡を外して目を擦る。その様子に、他のチームメイトも次々にスタンドの"異常"に気がつくが…どういうわけか、スタンド方向を向いているはずの主審は全くの無反応・・・・・・。それどころか、謎の浮遊物体が目の前にいるはずのスタンドからも、動揺したような声は一切聞こえない。むしろ───


「…なあ鳴輝、気のせいか?アレ・・が見えるようになってから───スタンドの声、俺らに直接響いてきてへん・・・・・・・・・・・・?」

「あっ…それ、俺もなんとなく思ってたっす!なんて言うか…声援が塊で心を殴ってくる・・・・・・・・・って感じで、ガン!って来るっす!しかも、この声援には核になる声・・・・・がある…力強く、俺達の背を押してくれてる。なんか…元気出てきたっす」

「ほな、次の回からも行けそうか?鳴輝」

「大丈夫、行けるっす!…多分!」

「おい、そこは言い切れや」


弥茂は呆れてため息をつくが…鳴輝はやっと笑顔を取り戻し、肩の力を抜いてベンチに背を預けた。謎の浮遊物体は、変わらず指揮をするように指揮棒タクトを振り上げ、その先を小金本へと向ける。小金本は───


「(なんや、急に現れて…イヤ、ヘルツ君・・・・の事もある。害がないなら今更や。むしろ…あいつ、俺を鼓舞しようとしてる・・・・・・・・・・・んか?)」


小金本に届く声援が、はっきり聞こえるヒッティングマーチが、熱を帯びて小金本の闘志に纏わりつき───火をつける。


「(分かった、やったるわ───これだけお膳立てされて、打たれへんかったらプロちゃうやろ、なぁ!)」


余計な力が抜け、気合いが入る。粘りに粘った、10球目のストレートを───バットが真芯で捉え、乾いた金属音が響き渡る。瞬間、球場からは空気を割るような歓声があがる。


「打った!おい、打ったぞ小兵ッ!」

「ま、まだや!ヒットになるまで、イヤ、スタンドに入るまでは油断できんぜよ!?」


イグニスと楢崎は思わず感極まり、一足先にお互いの手を合わせていたが…楢崎はすぐに我に返ると、いつの間にか傍らに置いていた古びたグローブを掴むと、スタンドに向かってくる打球に対して構えた。初回に相手チームの打者が放ったフライとは違い、打球は伸びる…どんどん伸びて、高く上がったまま───楢崎が頭上に構えていたグローブに勢いよく飛び込んだ。


「痛…ッ、はは…強烈」


───ホームラン。打った小金本本人も、呆然と打席で固まっていたが…


───「オイ、今度は始球式ホームランちゃうぞ!ちゃんと点が入ってるんや、ちゃっちゃと1周して来んかい!」


ベンチの弥茂の冷やかし・・・・で我に返ると、落ち着くための息をついてから…晴れやかな気持ちでゆっくりとベースを回っていく。スタンドを見ると…あの謎の浮遊物体はもういなくなっていた。

だが…もう大丈夫、と小金本は確信していた。今の情熱的な応援・・・・・・は、きっとチームメイト全員に届いたから。


「(あいつ…応援してる対象にしか見えへん・・・・・・・・・・・・・・、とかなんかな?それやったら、俺達以外が冷静やったのも納得がいく。なんや、あいつ…気のせいやろか、あの始球式の子ぉに似とったなぁ)」


ホームを踏み、ベンチに戻ると、チームメイト達からハイタッチで出迎えられた。心配していた鳴輝も、もう落ち込んではいなかった。


「さすがっす小金本さん!俺も頑張って、これ以上失点しないようにするっす!」

「おう、このまま逆転したろうや…シゲさん、サークル行かんでええんか?7番次の次やろ打順。ノーアウトやしあんたまで絶対回るんやから、はよ準備しとかな」

「げっ、せやった!」


小金本のホームランの余韻にすっかり浸っていた弥茂は、慌ててヘルメットとバットを掴み、ネクストバッターズサークル次の打者が控えておく場所へと小走りに向かっていった。


そして、スタンドでは───逆転の一手に対する歓声と応援歌の混ざった"音の洪水"に、イグニスはなんとか耳を塞がず耐え、楢崎は周囲のファンとカンフーバットを打ち鳴らし合っていた。


「点が入ると応援歌の高速詠唱が始まるの、まだ慣れないな…」

「高速詠唱って…」

「歓声に混ざって歌い始めるから、どれだけ聞き取ろうとしても後半の"我らの希望~"ぐらいまで来ないと何言ってるか分からないんだよ」

「それは、まあ…分かりますけど。今からもっと騒がしくなりますよ、逆転しなきゃなんですからね」


楢崎は笑みを抑えられず、普段のささくれ具合が嘘のようにはしゃいでいる。その様子を見て、今日の痴漢騒動の事などもう頭にないのだと、イグニスも安堵したが…


ひとつだけ、気がかりなことがあった。


「(今のホームランの軌道・・、確かにスタンドには届く高さだった。だが、それを加味しても───急に横に折れ曲がった・・・・・・・・・・ようにも見えた。まるで…小兵の方に、球が引き寄せられたみたいに)」


だが、それが何だったのかは分からない。風の影響?途中で虫にでも当たった?それとも───


疑問を残したまま、試合は進んでいく。

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