[Episode.7-混沌ケミストリー•A]

††


───対魔討伐組織・JITTE。とはいえ、アンノウンや悪性魔族…通称"悪魔"の出没報告がない間は、一般警察官と同様の職務をこなしながらの待機となる。そしてその活動範囲は、パトカー警邏や交番勤務などに留まらない。

此処、波来祖中央駅の鉄道警察隊にも、そうした待機勤務・・・・に当たっているJITTEのメンバーがひとり。銀髪のショートボブに赤目…アルビノ・・・・の女性警察官・香登カガトヒヨリは、最近被害が急増している連続痴漢事案の捜査に乗り出していた。


「(最近の犯行が同一犯だとしたら、犯人を逮捕すれば被害は一気に減るハズ…痴漢魔は女の敵、としてはアンノウンよりも許せないぐらいだ。波来祖の鉄道の治安は、僕達鉄道警察が守らないと)」


彼女が険しい顔で詰所の窓の外に目をやると、地元プロ野球チーム・大阪ティーグレスのユニフォームを着た人々が何人も通り過ぎていく。優勝争いペナントレースも後半戦、ファンの応援にも俄然熱が入る時期だ。それはつまり、試合時間の前後は最寄り駅に発着する鉄道の利用者も増えているということ。人が増えれば、当然トラブルも増える。街に活気が宿るのはいいが…と、香登は頭を抱えていた。


「そういえば…今日は楢崎・・も試合観戦に行くって言ってたっけ。まぁ彼も久々の休みだし、羽を伸ばせればいいけど」


香登はひとり呟きながら、机上の資料を両手で揃えてまとめあげた。



-7月27日/三ノ宮駅-


───昼から夕方の間の、通勤通学ラッシュとはズレた時間帯。それでも人の往来は多く、雑踏の合間に構内チャイムと駅員のアナウンスが交差して響いている。そんな中…


「ああもう、こんな日に寝坊なんて…!」


列車のホームには、珍しく丸一日の休日を取り、苛立ったようにその場で足をそわそわと動かしながら電車を待つ楢崎の姿があった。しかし電車の側にも遅延があるらしく、楢崎は到着予定列車を表示する電光掲示板と自らのスマホを交互に忙しなく見比べている。

時期は真夏、ホームには熱風が容赦なく吹き付け、灼熱の気温は立っているだけで体力を削り取っていく。


「まだ来ないのか…まさかまた人身事故?もう勘弁しとうせ…」


───そうして漸く到着した列車は、ただでさえ試合観戦のファンで増加した乗客に加え、遅延の影響かほぼ満員状態。だが楢崎は構わず、人と人の隙間にどうにか滑り込むようにして乗車した。


電車のドアが閉まり、車体がゆっくりと動き出す。無理に乗り込んだせいか、乗客に挟まれた状態で殆ど身動きもできない中、車掌の車内アナウンスがくぐもって満員電車に響き渡るのを気にもせず、楢崎はイライラを募らせていた。


その時…楢崎は嫌でも気づいた。目の前に立っている乗客の男が、やたら背が高いということに。しかも大阪ティーグレスの野球帽を目深に被り、サングラスに黒マスクという出で立ち。帽子の下から僅かに白っぽい髪が見えてはいるが、徹底的に顔を隠した武装ぶりに、楢崎は薄気味悪さを覚えつつも…帽子の影響で同志でもある事に謎の親近感を抱いていた。


「(この暑さで、これだけの重装備…怪しいけど、今はそれ以上の何でもない、か)」


そんなことを考えつつも、今はその"怪しい男"に寄りかかるしかない状況。楢崎もなんとかトラブルは起こすまいと、可能な限り動かないようにしていたが…長身の男のポケットから通知音が聞こえ、男がどうにかスマホを取り出して確認すると、男は苛立ったようなため息をついた。


「(はぁ…?無茶言うな、さすがに急すぎるだろ…)」


低く呟いた男の声は、想像よりも若く聞こえた。しかし男はそれ以上喋ることはせず、再び疲れきったようなため息をつくだけだった。


その時


「っ!!!!?」


楢崎の全身に寒気が走る。その理由は───


背後から誰かに臀部を触られている・・・・・・・・・・・・

何かが当たっているだけの勘違いとか、そういうレベルではない。はっきりと揉まれている・・・・・・と表現するのが正しいぐらいだ。


急に楢崎が体を震わせたものだから、目の前にいた男も不審に思ったのか楢崎を見下ろす。


「え、何…大丈夫?」

「ぁ"、………ッ」


楢崎もまさか、男の自分が痴漢の被害に遭うなんて思ってもいなかった。痴漢被害の話を聞くと、被害者は周りに助けを求められないのだろうか、と考えたこともあった。その考えは甘かったと、身をもって知った。恐怖と不快感で声が出せない。パニックでうまく息ができない。動悸と目眩で遠退きそうな意識の中、目の前にいる男の服にしがみついて震えることしかできない。混乱して吐き気が強くなってくる。なんとか嘔吐しないようにと口元を抑えるが、数分と耐えられそうにない。

嫌だ、恐い、気持ち悪い、誰か助けて───


「…もたれてていいから、あと少し我慢できる?」


その声は、目の前の男のもの。先程の苛立ちとは違い、低いながらも優しく柔らかい声色。硬直してしまった楢崎の肩を軽く撫でるように叩き、それで楢崎も不思議と少し吐き気が治まり、なんとか息もできるようになった。

しかし、楢崎への痴漢行為は収まったわけではない。犯人を逮捕する立場の警察官である自身が、まさか被害者になった挙げ句何もできない情けなさに、楢崎の僅かなプライドも自己肯定感も粉々になっていた。

すると…目の前の男のさらに背後から、別の声が聞こえた。


───「もうよかよ・・・・・くらしちゃり殴っちゃえ♡」

「了解、遅い」


男は短く答えると───楢崎を片腕で抱き寄せ、もう片方の腕を素早く楢崎の背後に伸ばし…小太りの中年の男の腕を掴むと、頭上に捻るようにして引っ張りあげた。


「見てたぞさっきから。貴様、誰の何を触ってた?」

「な、なんやお前!言いがかりはやめんかい、私の周りに女の客おらんかったやろ!」

「は?男なら被害者にならないって言いたいのか?それとも───男なら痴漢してもいい、と?」

「だからさっきから何を訳の分からんことを…!名誉毀損で訴えたろか!」


中年男は逆ギレするが、長身男は背後の男に低く、短く命じた。


撮ってるよな・・・・・・?」

「うん、もうバッチリ♡写真も動画も撮っとーけん・・・・・・、言い逃れできんばい♡ざーんねんでした♡」

「くっ…」


長身男はさらに中年男に低く唸るように凄む。


「次で降りろ、この淫魔。鉄警隊に突き出してやる」

「わ、私は…ッ」


ちょうどその時、波来祖中央駅に着いた車両のドアが開き、中年男は長身男の手を振り払って車両から転がり出るようにして逃げ出した。

しかし


「逃がすと思ってンのか、変態が!」


長身男もすかさず車両を飛び出し、逃げ出した中年男に片手を翳すと───中年男の足元はスケートリンクのように凍り・・・・・・・・・・・・・、接地面の摩擦を失った中年男は足を滑らせ、高速で滑走してきた・・・・・・長身男に転ぶ前に支えられた…と思えば、そのまま柔道技のように地面に押さえつけられた。その反動で、長身男の帽子とサングラスが弾け飛び…透き通るような短めの銀髪と、空の色を映したような青い瞳・・・が露になった。


「確保ッ!もう逃げられないぞ、大人しくしろ!さもなくば全身を氷漬けにして、否が応でも動きを封じる!」

「わ、分かった…こ、殺さんとって………」

「…フン、他人を羞恥と恐怖のドン底に突き落としておきながら命乞いか。最低、気持ち悪い」


長身男はそれでも逃走を警戒して、中年男の足首に氷の手錠のようなものをかけ…すぐ楢崎の元へと早足に戻っていく。楢崎は長身男の背後にいた男に支えられ、ふらつきながらも下車していた。


「酷い目に遭ったな、すぐに鉄警隊が来る。あいつは徹底的に処罰してもらうから…あ、大丈夫?」


楢崎は…そこで緊張の糸が解けたのか、ホームの隅に膝をついて吐いてしまった。


「あー、あー…大丈夫?よく降りるまで耐えたな…水、水」


長身男は楢崎の背を擦りながら、連れの男が車内から持ち出してくれていた自分の荷物からペットボトルを取り出した。


「これ、まだ開けてないから。ぬるいだろうが、今は冷えすぎたものは胃が受け付けないかもしれない。吐き気が落ち着いたら飲むといい」

「す、すみま"…」

「いい、いい。気分悪くなって当然だ、あんなの」


長身男は楢崎の背を擦り続け、地面に転がした中年男の逃走にも気を配っている。


「鉄警隊はまだか、多禄・・

「呼んだっちゃけど、なかなか来んね。まあ、波来祖は博多・・よりアンノウンが多かけん、人手が足りとらんのやろうか」

「そんなバカな、この気温じゃ凍結拘束は長くはもたないぞ」

「じゃあとりあえず、ぼくが抑えとくばい。イグニスちゃん・・・・・・・はその子ば看とってくれるかな」

「その呼び方やめろ、バカタレ」


その呼び名に聞き覚えがあった楢崎は、一頻り吐き終えたあと改めて長身男───イグニスを見上げた。


「…君、は」


楢崎の視線に気づいたイグニスは、そういえばと呟きながら黒マスクを外した。


「悪い、素顔も見せずに込み入った話はできないな。多禄が変装しとけってうるさいから、新神戸に着いた時から一応隠してたが、もういいだろう。あんた、俺のことを知っている風だが…」

「…始球式、で」

「ああ、あんた野球ファンか。あの始球式はとんだエンターテイメントだったろう」


イグニスは苦笑混じりに話すが…楢崎は答えられなかった。あの時、水嶋に聞いた情報だと…イグニスは16歳。年下どころか未成年に、人々を守るべき立場の警察官の自分が助けられてしまった。その情けなさと申し訳なさに、今度は涙が出てきた。


「えぇ…?イヤ、あんな目に遭ったら泣きたくもなるか…大丈夫だ、すぐに警察が来るから」

「………です」

「えっ?」

「自分が、その警察官なんです………」


楢崎の言葉に、イグニスは今度こそ言葉を失った。





───「そうか…災難だったね楢崎、希望休だっていうのにこんな目に遭うなんて」


鉄道警察隊の詰所では、色素の薄い女性警察官…香登が聴取の応対をしていた。


「…本当ですよ、冗談じゃない」

「ああ、分かっているさ。真面目にやるとも…僕も、男性が被害に遭う可能性を無意識に排除していた。性被害に男女の限定はない、改めて反省しないとね」


楢崎に苦言を呈された警察官…香登は改めて調書を取り出し、楢崎に同行したイグニスを見上げた。


「第三者の君から見た状況も教えてくれないかな。勿論、加害者にも話は聞くし、正確性は今聞いた被害者…楢崎の話と擦り合わせるけれど」

「………分かった」


そう答えるイグニスの口は何故か重く、しきりに楢崎を横目で見ている。その不審な動きに気づかない香登ではない。


「…どうした?」

「………イヤ、年下というか、中学生・・・ぐらいだと思って…諭すような口調で話してしまったので………まさか10歳以上年上だったなんて………」

「はは…」


悄気るイグニスを見て、香登はただ苦笑し…代わりに、共に同行してきた多禄が大声をあげて笑う。


「だはははは、見よって面白かったったい!」

「多禄…まさか貴様知っていたのか…?」

「ベルフェから背の低い同僚がおるっち話は聞いとったけんね、写真も見せてもろうたことあったし」

「うぐぐぐッ…!」

「えっなんでついでに自分もディスられたんです?というか、いつそんな話してたんですか?」


イグニスは多禄への追及を今は諦め、改めて楢崎に向き直って頭を下げた。


「ひとまず、すまなかった…緊急事態で、細かいことに気が回らなかった」

「いえ…君がいなかったら、自分は本当に何もできずに被害に遭うだけ遭っていたし、最悪車内で嘔吐していました…謝るどころか、自分の方が礼を言うべき立場です。ついでのようで申し訳ないですが、助けてくれてありがとうございました」

「礼など…イヤ、素直に受け取っておく。許されたようなら、改めて状況の説明を…というより、痴漢されている最中の動画と写真を多禄が証拠として撮っているから、それを提出する方が早いだろう。多禄が写真と動画に収めるまで、楢崎…氏?には辛い思いをさせてしまった」

「楢崎、でいいですよ。君の事はイグニス君、でいいですか?」

「呼び捨てで構わない。まあ、その辺りは好きにしてくれればいいが」


そんな会話をしている間に、多禄は自らのスマホを香登に差し出した。香登もそれを受け取ると、少し気まずそうに楢崎に目配せしてから動画を再生し…ため息をついて頭を抱えた。


「…確定だね。よく撮ってくれたというか…僕が見ても気が滅入るよ。楢崎、今日は無理せずに帰った方がいいんじゃないかい?」


しかし、楢崎は険しい表情で首を振る。


「いえ、今日は自分だけでなくと行くつもりで、本当なら今頃甲子園駅で待ち合わせる時間なんです…あっそうだ、連絡…!」

「えっ、甲子園…?あ、そうだ」


楢崎が慌ててスマホを取り出すのと同時に、何故かイグニスも慌てた様子でスマホを操作し始める。間の空いた香登は気持ちを切り替え、被害届の準備をしていたが…


───「おいボン、生きてるか!?」


騒々しく喚きながらドアを蹴り開け、詰所に姿を見せたのは───柿色の癖髪をウルフカットにして背中まで伸ばし、モスグリーンのツナギを着た猫目の女性。彼女は苛立ったような表情で詰所のドアを閉めると、驚いて振り向いた楢崎が目を丸くした。


「は!?ホロ姉・・・、どうして此処に…」

「どうしても何もねーよ、何やってんだこんなとこで!オメーが白髪の兄ちゃんに連れてかれる画像がSNSで回ってきたんだよ!」

「え、それ俺?」


楢崎に"ホロ姉"と呼ばれた女性は側にいたイグニスの呟きには反応せず、大股に楢崎に歩み寄ると、逆に数歩下がろうとした楢崎を壁際まで追い詰め、有無を言わせず肩を組んだ。その距離の近さに、楢崎はうんざりしたように息をついた。


「駅員に話聞いたよ、大丈夫だったんか?まさかカツアゲとか…」

「ちょ、ちょっと待ってくださいホロ姉、本当に話を聞いたんですか?白髪の、って人は自分を助けてくれただけで、何も危害なんて加えられてませんよ」

「え、そうなん?あーし・・・はオメーが白髪の兄ちゃんに連れてかれたって事しか…」


"ホロ姉"は状況を正しく理解しておらず、未だ楢崎と肩を組んだまま妙に威圧的な雰囲気を放っている。見かねたイグニスが"ホロ姉"の肩を叩くと、そこで漸く"ホロ姉"もイグニスの存在を認識する。


「おいやめろ、楢崎が苦しがってるだろ」

「あー?なんだ文句あんのか…うわクッソイケメン」

「は…?」

「いーんだよ、あーしは楢崎・・ホロ…坊はあーしの弟・・・・・だ」


"ホロ姉"…ホロの答えにイグニスは驚き、香登は納得したように頷いた。


「成程、お姉さんの方から心配して駆けつけてくれたんだね」

「いいから離してください…苦しい………」


ホロは素っ気ない態度を崩さない楢崎に絡むのを諦め、改めてイグニスの方へと歩み寄った。


「で、何があったんだよイケメン君?」

「イグニスだ、イしか合ってない」


一連のやり取りを見ている多禄は声もなく笑い転げているが、イグニスはあのバカタレ後で蹴る…と思いつつも、まずは楢崎に対してアイコンタクトを送る。


「(…説明していいのか?)」

「(…仕方ありません)」


楢崎の沈黙を答えと解釈したイグニスは、一度ため息をついてから改めてホロに説明を始める。


「気分のいい話じゃないし、簡単にまとめる。そこの小兵・・が中年男の痴漢被害に遭った。俺はその犯人が逃げようとしたから引っ捕らえて、小兵の介抱をしていた。それだけの話だ」

「ちょっ、なんですか小兵って!」

「姉弟だから同じ名字だし、説明する時に"楢崎"だと混乱するだろ」

「だからって…グギッ…」


文句を言える程度には楢崎ケンゴの精神状態が落ち着いてきた事にイグニスは安堵したが、もうひとりの楢崎…ホロはみるみるうちに青ざめていった。


「あーしの可愛い坊に…痴漢…セクハラだぁ…?そいつ何処だ、あーしがシメてやる」

「ダメだ、ダメダメ、今度はあんたが暴行罪で調書を取られるぞ」

「イグニスちゃんが犯人ば投げ飛ばしたんな、逃走防止の制圧んためやけんね。過剰防衛にはならんはずばい」

「ぐっ…」


未だ怒りの収まりきらないホロに、香登が声をかける。


「被害届をちゃんと出せば、犯人には然るべき刑罰が下せるから。もし君が犯人に暴行を加えたら、君が逮捕されるだけでなく、"既に十分な制裁を受けた"として犯人の罪が軽くなるかもしれない。それは嫌だろう?」

「それは…そう、だな…」

「安心してよかよ、不起訴になったらぼくが消しちゃる・・・・・けん♡」

「だッ…あんた、バカッ!自分の立場分かってンのか!?」

「おっとっと」


口を滑らせた多禄の不穏発言はともかく、ホロの怒りもなんとか落ち着いたらしい。その頃合いを見て、楢崎はイグニスの方に向き直る。


「改めて…イグニス、でしたね。君の名前は、菱川の怪文s…じゃない、報告書に銀の剣豪・・・・の魔族イグニス…本当にそう書いてあったんですって、睨まないでください…とにかく、そう記載されていたから、君の働きについても多少は知っているつもりです。博多支部のJITTEと共に、治安維持に努めてくれていたんですよね」

「あのドM、ペラペラと…!今度シメ………イヤ、それじゃあいつは悦ぶだけか………はぁ」


イグニスはあの菱川には何を言っても無駄だと諦め、呆れたようにため息を漏らした。


「今月中旬の博多山笠荒らし・・・の鎮圧も含め、JITTEに手を貸してくれていた魔族がいたと、博多支部を預かる阿万里の報告書にもありました。"魔族"の言葉に驚きはしましたが、君に悪性がもし見受けられていたら、勘の鋭い阿万里は何かしらの警告を報告書に潜ませているはずです。ですが、そんなものは一言もなかった。阿万里が君の事を信用していた証でしょう」

「ん…山笠そのものが標的になった訳じゃないが、櫛田神社も巻き込まれていたし、博多にとって大切な行事が邪魔されそうになっていたのは事実だ。あの街には3年近く世話になったしな…ただ、俺は俺の問題に片をつけただけ。結果として、一番守りたかったひとは守れなかった…誉められるような結果じゃない」


イグニスは声色を低めて俯いてしまう。

本当は誇張も甚だしい、ヒーローのような大袈裟な書かれ方をしていたけれど…と言うのを楢崎はどうにか飲み込んだ。仮に菱川や阿万里の報告書そのままを伝えてしまえば、少なからず照れから怒り出すだろうと思ったからだ。


「さっきも言いましたが、博多支部は阿万里の管轄です。会ったばかりの君を100%信頼するのはまだ難しいですが…君はさっき、何の見返りもないのに自分を助けてくれた。自分としては、君に悪性はないと思っています」

「ほほー、人間に協力的な悪魔?もいるもんだな。アンノウンみてーに、どいつもこいつも人間の敵かと思ってたが…オメーはなかなか骨のある男って事か、イケメン君」


ホロは性懲りもなくイグニスを名で呼ばないが、イグニスが表情を曇らせたのは最早そこではない。


「悪魔と呼ぶな、魔族と呼べ。俺達の中では、節操なく悪を為す魔族の事を"悪性魔族"、即ち悪魔と呼んでいる。そんな連中と同列に扱われたくない」

「…そうですね、君は悪い魔族じゃない。本当に…ありがとうございます」

「あー…もういいから、気にするな。そろそろいいか?俺も甲子園に用事があるんだ」


イグニスがスマホを取り出すと…楢崎の視線はそのストラップに釘付けになった。


「はぁ!!!!?」

「え、何…?」

「そのユニフォーム型メタルチャーム!!!!小金本コガネモト選手のサイン入ってるんじゃないですか!!!!?」

「うるさ…前に始球式出たって言ったろう、帰る前にその時の詫びだってもらったんだよ。俺は福岡側のゲストで出たのに、律儀な人だ」

「直"筆"!!!!?」

「あーもう、しゃーしか・・・・・!これはやれないぞ、本人から直接貰ったんだから」

「グヌヌヌヌ…!」


楢崎は半泣きで肩を震わせていたが、すぐに何かに気づいたように固まると、サッと顔色を青くして自分の荷物を漁り始めた。


「今度は何…?あんた忙しい奴だな」

「今日の観戦チケット………!嘘だ、ない…ない!さっきまで持ってたのに…吐いた時に落とした…!?」

「あー、なんか紙混ざってたかも…ホームを汚したままにはしておけなかったし、吐瀉物は凍らせてそのまま処理したから、一緒に処分したかもしれないな…だが、どちらにせよもう復元は難しいだろう…」

「そんなぁ、最悪だ………」


楢崎はその場に膝と両手をつき、嗚咽を漏らしながら項垂れた。


「あっちゃー…まあ、しゃーねーって。気にすんな坊、ひでー目に遭って体調悪かったんだし。チケットはまた今度取ればいーから」


姉・ホロのフォローを聞いても、楢崎は床に突っ伏したまま身動きひとつできないでいる。その様子を横目に…イグニスは黙ってスマホを操作している。そこで、何故か多禄が静かに口を挟む。


「…イグニスちゃん、ぼくはそろそろ寄席の準備があるけんさ。ざーんねん」

「多禄…えっ、もしかしてあの落語家の『名護屋多ろく』!?ほんとだ、めっちゃ有名人じゃん!やっべー、あーし今日ツイてるかも!…あ、じゃねーよな…坊がこんな目に遭った日なのに、ごめん」


ホロがつい舞い上がったことを恥じて悄気た時…イグニスの視線がスマホから上がり、床に這いつくばっている楢崎へと移った。


取れたぞ・・・・、チケット」

「え…えっ?なん…えっ??」

「甲子園の観戦チケット。取れたって言ったんだ、あんたと姉の分でいいんだろ。ギリギリまだ座席空いてたから」

「なん…ど、どうして君が…?」


そこで楢崎は漸く体を起こし、半泣きのままイグニスを見上げるが、イグニスは相変わらず冷静に答える。


「さっきの痴漢騒動でうっかりしていたが、俺もルーd…野暮用で甲子園に用事ができたんだ。だから、取ったチケットは3。多禄は寄席の準備があるから同行できない。別々の支払いが面倒だったし時間もないから、俺もあんた達の横の席になるが、それは容赦してくれ」

「ほ、本当に…?本当にチケット…」

「コンビニで引き換えだから、今すぐ行けば試合には間に合うはず…まあ、最初の数分は遅刻するかもしれないが。ほら、くたばってないで、立てって。急がないと、本当に間に合わなくなるぞ」


楢崎はあまりの展開に、暫く呆然としていたが…突然イグニスに縋って泣きじゃくりだした。


「あ…あ"り"がと"う"ござい"ま"す"………」

「ワーあんた、もう…いいから、行くぞ!ほら、もう泣くなって」

「うんうん、行っておいで。被害届は大体できたし、後は僕に任せてくれたらいいから。イグニス君とやら、楢崎をよろしくね」


香登の妙にニヤニヤした笑みの後押しを受けて、イグニスは諦めたようにため息をつく。


「仕方ない、乗りかかった船だ。どちらにせよ目的地は同じだし、今日が終わるまでは一緒にいて様子を見る事にする。もう一度電車に乗る事になるし、こんな状態じゃ心配だしな」

「悪いなー、イ…何だっけ?」

「イグニスだ、なんでイだけ覚えてるんだよ」

「イグニス…あー、篝火・・か!いい名前じゃねーか、イケメン君!」

「(この女………)」


ホロの暢気な答えにイグニスはもう訂正する気も起きず、詰所を出ると一旦多禄と別れ、楢崎の腕を掴んで再び駅のホームへと向かう。ホームに行くまでの道中に、チケットを受け取れるコンビニもあったはずだ。


「(俺の用事は、あくまで甲子園そのもの・・・・・・・にある。試合を観戦する必要は、ないと言えばないけど───)」


同じく試合を見に行こうと急ぐファン達の雑踏に混ざりながら、イグニスは小さく笑った。


「(今日のスタメン発表を調べたら、小金本選手が出るって書いてあったしな。彼の活躍を改めて見守るのも悪くない)」




───場所は変わり、夕方の甲子園球場。


「ん~ふ~んふふ~んふんふんふふふふ~ん~♪︎」


試合開始時刻も近づき徐々に観戦客が増え始めた、緩やかなざわめきの広がる甲子園球場を、外野席の一番高い場所から鼻歌交じりに見下ろす影がひとり。

大阪ティーグレスのレプリカユニフォームを着込み、地毛の濃い金髪とはかけ離れた、黒に金とピンクのメッシュが入った高めの位置のツインテール…勿論つけ毛だが。その奇抜な出で立ちを見ても…観戦客達は気にする素振りもない。見て見ぬふりというより「いつものだね」と言わんばかりの馴染みよう。一見、派手なだけの無害な人間に見えるが───


「…そろそろ準備せんとな」


バックスクリーンに設置された時計を確認すると高く跳躍し、グラウンドに降り立つか…と思えば、ちょうど客の往来が途切れているフェンスギリギリの通路に着地した。


「神聖なグラウンドに降り立つ権利は選手のもんや、傷つけたらアカンアカン…っと」


その名はヘルツ。

魔界監査官が"怪物モンスター"と定義した───無差別殺戮兵器・・・・・・・

そして、イグニスが甲子園に向かう本当の理由・・・・・だった。

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