[追憶•或る企鵝の回想-前]
††
───兄・イグニスと弟・フレア。
双子の半鬼魔族が俺っち達の集落に来たのは、今から15年近く前の話だ。
まだ乳飲み子みたいなレベルのガキを、あいつが…ジェンが大慌てで脇に抱えて担ぎ込んできたのは今でも覚えてる。
この集落は
当時この集落にいたのは、俺っちこと
ジェンの奴が魔界料理人だった影響で、集落にいた頃に手伝いをしていた雨燕も多少なら料理の心得があったし、体力バカの風鷲は喜んでガキ達の遊び相手を引き受けていた。猛雪は創作者らしく、時折本を読んでやったり絵を描かせたりして、情操教育に一役買っていた。ジェン本人も可能な限り集落に戻って、ガキ達の世話をしてやっていた。
俺っちは、というと…プロスケーターの試合やショーがない時は、集落に戻ってガキ達の相手をしてやっていたし、ガキ達を風呂に入れるのは俺っちの担当だった。猛禽の血が強く鋭い爪を持つ
そうしてある程度育ってきたところで…このガキ達は双子ながら、真逆なのは髪や目の色だけでなく、性格も全く違うことが分かってきた。
銀髪青目の兄・イグニスはあまり口数が多くなく、3歳だというのに言われたことはしっかり守る真面目な性格だった。出した食事は何でもよく食べ、残すことは一度もしなかった。新しいことを教えると、上手くできるまで何十回、何百回と辛抱強く挑戦する根気も持ち合わせていた。ただ…それが災いして、体の具合が悪くても、吐くか倒れるまで何も言わないのは難点ではあった。
対して、黒髪赤目の弟・フレアは…活発を通り越して多弁多動で落ち着きがなく、好き嫌いも激しかった。危険な場所に行かないよう注意したり危険な行為をやめるよう言っても聞かないどころか、わざとそういうことをやって俺っち達の肝を冷やすこともしばしばあった。何かを教えても飽きっぽく、うまく行かなければすぐに癇癪を起こして泣き出すか、興味を失い投げ出していた。結果として、何をどれだけやらせても上達しなかった。その割に、兄の行く先にはいつもついていきたがった。
もちろん俺っち達の誰も、3歳レベルのガキに完璧なんて求めないし、厳しく指導しようだなんて事も思っていない。だが何をやるにしてもまずは手本を見せて、少しずつ上達させていくしかない。教えられて一発ですぐに何もかもできるなんて、さすがにそこまで世界は甘くはない。それを、イグニスは理解し、フレアは理解できなかった。その違いが、2人の成長を大きく分けてしまったのだろう。
───双子が5歳になった頃、俺っちは集落北にある湖に双子を連れていった。この集落は標高が高いことも手伝い、寒季は近くにある湖が凍って天然のスケートリンクのようになる。集落にあるスケートリンクも通年使えて便利ではあるが、魔界は
まあ…正直多動のフレアを連れていくのは不安だったが、イグニスと一緒じゃないと癇癪を起こすので、半ば仕方なくの措置ではあった。
「見ろ、ガキンチョ共。広いだろ?これ、全部氷なんだぜ」
この湖の先には、暖季には果実を実らせる木が多く生えている森がある。凍ってない時期であれば俺っちは水中を泳げるし、泳げない奴も小舟で行き来ができているのだが…この湖に限らず、季節や場所によっては川や道が凍って、普通に歩いての移動が難しくなることもある。緊急時に使える移動手段は、多くあって困ることはない。だから…
「試しに滑ってみるか?まあ、最初は氷の上でバランスを取れるようになるのが一番だな。転んで大怪我なんかしたら意味がねえ」
「…がんばったら、れおみたいになれる?」
凍った湖を前に、イグニスの目が珍しく輝いていた。
「ああ、ものすご~く頑張ったらな。ただ、最初は氷に慣れるまでが難しいし、本格的にやるんだったら練習は結構キツいぞ?」
「やる!れお、かっこいいもん!」
おーっと、此処まで誉められたら冷鵝くん頑張っちゃうぞ♡
イグニスの目は宝石みたいに輝いていて、今すぐにでも氷に乗りたそうにしているが…俺っちの指示があるまでは勝手に行動しないようにと、どうにか堪えている様子だった。
対して…フレアは終始つまらなそうで、既に土いじりを始めている。興味がないなら無理に誘うのも、とは思ったが…
「フレア、お前さんはどうする?」
「もうかえりたい。さむいし、つまんない」
うーん…この板挟み。俺っちに分身能力でもあればよかったが、そんな都合のいい能力は持っちゃいない。此処まで来たからには俺っちも多少は滑りたかったが、フレアが癇癪を起こす前に切り上げるしかないか…と考えていると
「…おまえだけかえれや、おれはまだここにいたい」
普段は大人しいイグニスが、明らかに不服そうにフレアを咎めた。こういうガキの興味ややる気は大事にするべきだが…嫌な予感は的中、フレアは一気に泣き出しそうになる。イヤ的中するなよ…。
「な"ん"でそ"ん"な"こ"
はい始まった、フレアの爆発的癇癪。俺っちの精神ゲージがみるみる削れていくのを実感する。しかし…今回ばかりはイグニスも負けていない。
「いつもおまえが、おれのやりてえ
「ちょ、ちょっと待てイグニス、落ち着けっt」
「に"い"ち"ゃ"ん"の"ばか"ぁ"!!!!」
「ばかはおまえだ!ひとりじゃなにもできねえくせに!」
「わ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!」
ああああああああ!!!!って言いたいのは俺っちだよ!なんだこりゃどうすりゃいいんだ!だ れ か た す け て
…と思っていたら、フレア達の声を聞き付けたのか、雨燕が俺っち達の元へと文字通り
「ユ、雨燕~…」
「フレア君、湖が飽きたなら何がしたいですか?さ、私と一緒に行きましょう」
「わ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"や"だあ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!」
雨燕は未だぐずるフレアを素早く抱え、さっさと俺っち達から引き離して集落の方へと連れ戻していった。こうなったらもう何をしても無駄で、落ち着くまで待つしかないと雨燕も分かっているらしい。イグニスの方も泣きそうになるのを堪えていたが…静かになったと判断すると溢れかけた涙を袖で拭いて、改めて俺っちを見上げてきた。
「…やる」
「そうか、気持ちに変わりはねえんだな…一応子供用のスケート靴持ってきててよかったぜ、多分サイズ合ってるはずだから」
「おしえてくれる!?」
「おう、しっかりついてこいよな」
イグニスは大きく頷くと、渡したスケート靴に履き替えて、先導する俺っちの手を握って氷の上へと恐る恐る踏み出した。しかしやはり最初だからか、俺っちの支えがあっても足元はふらつき…最後にはバランスを崩して氷の上に突っ伏すように転倒してしまった。
「あっ!」
「うわっ、顔面からいった…大丈夫か!?」
ヤバい。ただでさえ氷の上に叩きつけられるなんて痛いのに、魔族の痛覚は人間のそれより敏感だ。絶対泣く…と思っていたのは、どうも俺っちの側だけだったらしく。
「………ッ………」
「あーあーあー、額にタンコブできかけてんじゃねえか…」
「………ま"だや"る"」
目に涙をいっぱいまで溜めてはいたが、ギリギリの所で"泣いてない"と言えるレベルで堪えている。
「つっても痛かったろ」
「………な"いたら"、れお"、おしえ"るのやめ"るとおも"って………」
「バッカ、ガキンチョが転んで泣いたぐらいで見切りつけやしねえし、初日でスイスイ滑れるようになるなんて思ってねえよ。そんなことになったら形無しだ、むしろ俺っちが泣いちゃうぜ?まずは氷の上に慣れるこった。少しずつ練習すれば上手くなっていくから、無理せずやっていこうや」
まだ壁づたいに歩けるリンクの方がよかったかと、初手の判断を誤ったことに舌打ちする。それでもイグニスは諦めず、俺っちの方に手を伸ばす。
「…向上心の
そうして、イグニスはその日のうちに…俺っちの手に引かれながら、まだまだガタついて覚束ない足取りではあるが、なんとか氷の上で滑れるようになっていた。
───そこからの上達はトントン拍子、と言ってもいい。根気強さが功を奏したか、数週間後には俺っちのリードなしでも真っ直ぐ滑れるようになっていた。
「れおー!みて、すべれてるー!」
「おいおい、よそ見してるとバランス崩し…」
「あぅ!」
「あちゃー…ほら見ろ、大丈夫か?」
しかし、もうイグニスはぐずる暇もなく、転倒してもすぐに立て直し、元の速度まで加速する強さが身に付いていた。
参ったな、5歳児があんだけ根性見せてんだ。俺っちも…
「多少は本気見せなきゃ、嘘だよなァ!」
氷上で一気に加速し、進行方向に対し
3
───
着氷した時の感覚で、ガタつきなく降りられた事を噛みしめる。
「(よしッ、転倒・減点項目、共になし!)」
「ふわぁ、れおすごい!すごい!めのまえがぶわーなった!おれもそれやる!やりたい!」
イグニスは満面の笑みで俺っちに拍手を送り、そのまま速度を上げて───まあ、そりゃ無理だ。見事な横滑り転倒をお披露目し、それでもなんとか起き上がる。そして…
「…ぜったいやる。れおみたいに、すごくなる」
「ははっ、無理はすんなよ?まだまだ最初なんだからな、ブレードの使い方から覚えていこう。焦らなくたって大丈夫だから」
「うん!よろしくな、
…コーチ、か。俺っちはまだ現役選手だが…ガキのお守り程度のコーチの真似事なら許されるだろうよ。
───数ヶ月後には、イグニスはスケーティングだけでなく、アクセル以外の1回転ジャンプもできるようになっていた。それでも時々転倒はするものの、痛かろうが泣き言ひとつ言わず、すぐ次のジャンプへと気持ちを切り替えていた。…この根性、本当に5歳児か?中身にブラック企業社畜のおっさんが転生してるとかないだろうな?と疑ったのは1回や2回じゃない。だがイグニスは、正真正銘の5歳児。できることがひとつ増えるたび、得意気に俺っちに報告する無邪気さも持ち合わせていた。
「れお!
「フライングシットスピン、な。しっかし…上達が早いな、お前さんが使うのが氷魔術ってのも関係してるのかね」
「まじゅつ?つかってないぞ」
「いやいや、親和性の話だよ」
「しんわせー…って、なんだ?」
首を傾げるイグニスに、思わず苦笑が漏れる。
「難しい話は後でいい。そーれーよーり!なーんか顔赤くないか?デコ出しな…ほらやっぱり、熱あるじゃねえか!今日は此処まで、帰って休むぞ」
「えぇ~、まだへいき…」
「ダーメだ。倒れるまでなんてやらせないし、回復も遅くなるぞ。休むのも練習のうちだ、元気になったらまた連れてきてやるから」
明らかにぐったりしているくせに強がるイグニスをさっさと抱え、集落の方へと戻る。イグニスは教えれば覚えるし、失敗しても根気強く挑戦する。その成長と上達を見ているのが面白く、俺っちもついつい熱が入りすぎたのかもしれないな。
しかし…残念ながら、喜ばしいことの後には厄介ごとが降ってくるのが
「なんだなんだ、またフレアが癇癪起こしでもしたか?」
よく聞くと、泣き声と怒声は
「もう片方は猛雪か、珍しいな…あいつどうした?」
気にはなったが、調子を崩したイグニスを抱えたまま修羅場に突撃する無謀さはない。まずは雨燕の家に寄ってイグニスの世話を一旦頼み、改めて猛雪の家へと急ぐと…やはり、中で猛雪とフレアが双方癇癪を起こしたような状態で言い争っているようだった。…なんだこのカオスは。
「猛雪、入るぞ!?」
入口の鍵は開いていたので、猛雪の返事も待たず家に入ると…限界原稿戦士、もとい漫画家の猛雪の家らしく、廊下の足元には真っ白の原稿用紙やラフ案が散らばっている。しかし…普段から散らかっている猛雪の家の中は、今日はその比でない程に荒れていた。何が起きているのか…
───「どうしてくれんだよこれぇ!締め切り明日なんだぞ!」
───「し"ら"な"い"い"い"い"い"い"い"い"う"わ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!」
まずは、キレ散らかしている猛雪とギャン泣きしているフレアを宥める方が先決のようだ。現場は今いる廊下のすぐ隣、猛雪の作業部屋だった。
「どうしたよ猛雪…うわ」
思わず、俺っちも息を飲んだね。猛雪の手には、破られた完成稿らしき原稿が数枚。しかも破られた原稿はそれだけではなく、猛雪の足元や机の下、とにかく部屋の床一面に散らばっていた。そして…烈火の如くキレる猛雪の目の前には、そんな原稿の残骸を踏みつけながら泣きじゃくるフレア。あー、これは…状況が読めてきたぞ。
「どうしたもこうしたも見りゃ分かるだろーが冷鵝!フレアの奴、ちょっと目を離した隙に、よりによって完成原稿ビリビリに破ってやがった!原稿は俺ら漫画家の魂だぞ、ふざけんじゃねーよ!」
「まあまあまあ、フレアの側の話も聞かねえとさ…フレア、お前さん、なんでこんな事しちまったんだ?猛雪の大事な仕事道具なんだから、破ったら怒られるのはなんとなーく分かんだろ?そもそも、どんな理由があっても人の物を勝手に壊すのはダメなんだけどな」
癇癪持ちを頭ごなしに叱りつけるのは逆効果だ。俺っちは努めて冷静に、優しくフレアに問うと…フレアの癇癪は少し収まり、泣きじゃくりながら答える。
「だって、みんな、にいちゃんばっかり、ほめるもんっ」
「はぁ!?八つ当たりしてんじゃねーよ!それはテメェが出来…」
「待ぁーった猛雪それはナシ!」
猛雪の発言がトドメになりかねなかったので咄嗟に止めたものの…言おうとしたであろう言葉を否定しきれない気持ちがあるのも事実だった。
ただ俺っち達だって、イグニスばかりを誉めてフレアを一切誉めなかったわけじゃあねえ!根気の続かないフレアでも、なんとかできたことを見つけては誉めるといった苦肉の策ではあるが、それでもなかなか誉めるポイントを探すのに相当骨を折ったんだ。
俺っち達だって分かってる。フレアの振る舞いの方がこの年頃のガキンチョとしては近いんだろうし、イグニスはそれを反面教師にして極力俺っち達を怒らせたり困らせたりしないように立ち回っているだけだ。言い方を変えるなら、イグニスは大人の顔色を窺うようになってしまっている。こういうタイプの方が途中で壊れてしまいやすいから、聞き分けがいいように見えて注意が必要だったりする。
そうは言っても、だ。
贔屓だの比較だの、ガキンチョはそういう扱いの差には敏感だ。うっかり最初にイグニスの方を誉めると、フレアが不服に思って癇癪を起こすのは分かっていた。
だからこそ俺っち達は、まずフレアに何をどうしたいのか聞いてやってから、それ以降の行動を決定していた。当然、わがままが過ぎる時は、爆発癇癪食らうのを承知で叱ったりもした。あれが嫌いこれが嫌いと言う中でも、栄養失調や餓死に至らないよう、なんとか食べてくれる料理を集落の全員で模索したりもした。命に関わる悪戯は、俺っち達の危険を覚悟で助けた。…毎回、毎回、毎回だ。
だから…実際イグニスの相手は、いつも手のかかるフレアの後回しになっていた。そうしてフレアに振り回される俺っち達を見て、イグニスは俺っち達に気を遣うような立ち回りになってしまったのかもしれない。あの湖での事だって、きっと溜まりに溜まった怒りが爆発してしまったのだろう。たかだか5歳の子供にそんな我慢を強いるなんて、精神衛生上最悪にも程があるのに。せめて、上手くできたことに対しては誉めるぐらいしてやらないと…今度はイグニスの方が、最悪な壊れ方をしかねないのだから。
───イグニスとフレアは、戦禍に巻き込まれた故郷から唯一逃がされた(らしい、とジェンが言っていた)戦災孤児だ。つまり俺っち達にとっては、顔すら知らない他人の子供。それを可能な限り愛情をかけ、隅々まで世話を焼き、それでも…やはり、子育てってやつは報われない事も多い。正直、俺っち達も辟易していたところはあった。猛雪が言ってはいけない一言を怒鳴りそうになったのも…頷いてはいけないが、頷けた。
「…フレア、とりあえず此処はもういいから、風鷲の所で遊んでもらいな…猛雪」
「………最悪だ、このタイミングで原稿落とすとか。じわじわ人気出てきた所だってのによ…ハァ、担当に電話だな。あ~うぜー…俺のせいじゃねーのによ………」
身動きできないフレアを他所に、猛雪は肩を落としながら、スマホを掴んで一旦廊下に出ようとした。その時…
───「
この惨状を知らないイグニスが、サンドイッチの乗った盆を持って、額に冷却シートを貼ったままニコニコしながら猛雪の目の前まで近寄ってきた。
しかし
「今それどころじゃねーんだよ!見たら分かんだろ!」
うわっ最悪…と俺っちが言うまでもなく、猛雪の怒声に驚いたイグニスの笑顔は瞬時に吹き飛び、一気に泣きそうな顔になって俯いた。
「ご、ごめんなさ…ごめんなさい………」
「あーもう、猛雪こそ八つ当たりやめろって!どうしたよイグニス、大人しくしてろって…つーか雨燕は何やってるんだよ、見ててくれって言ったのに」
───「す、すみません…止めたんですけど、どうしても原稿頑張ってる猛雪に差し入れするんだって聞かなくて…」
遅れてヨロヨロと入ってきた雨燕の様子から、珍しくわがままを言ったイグニスに相当手を焼いたと見える。だが…
すると…イグニスは持っていた盆を雨燕に押し付けると、散らばった原稿の切れ端を拾い集め始めた。
「おい何してんだ…ああ、片付けは後でやるからいいよ。どーせ全部ゴミになるんだ、適当に放って───」
「ちがう、まだごみじゃない!」
「ハァ?何言ってんだ…そんなボロボロの紙屑、もう何の価値も」
「あるよ!
…これには、猛雪も目を丸くして暫く固まっていた。ろーろー、とは猛雪の手掛ける連載漫画、『光の戦士
「…どのみち明日までじゃ間に合わねえよ。いいよ、担当に電話して平謝りしとくから」
「でも、そうしないと、もんしぇーが…
普段は泣くのをどうにかして堪えるイグニスの目から、雫が落ちる。
…イグニスの言い分は、実は大袈裟じゃあない。
魔族の中でも、芸術や創作なんかを生業とする"表現者"は、魔界では特に重宝されている。魔族は欲望を抑えられないし、常に新しい刺激を求めてないと退屈で死ぬって表現は、オーバーでも例え話でもないんだ。だから"表現者"達はいろんな手法で新しいエンターテイメントを提供して、他の魔族の欲望を満たして生きている。
だがそれは───
重宝される、は
何も生み出せなくなった"表現者"は、言うなれば
イグニスはきっと、その事を何処からか知ってしまったんだろう。
「やだぁ、もんしぇーしんじゃやだぁ…ううっ、ぐすっ…えぇぇぇぇ………」
「バーッカ、連載原稿1回落としたぐらいじゃ殺されっかよ。売れかけてる作家殺しなんかやらかしたら、そいつが読者にリンチされて殺されちまう。ほーらもう泣くなって、熱上がっちまうぞ…よいしょっと、作家にペンより重いモン持たせんなよな。さっきは怒鳴って悪かったよ、サンドイッチ、ありがとな。あとでもらうからよ」
こうなっては、猛雪も怒るどころじゃあない。泣き出したイグニスを片腕で抱えあげてあやしながら、器用にも空いた方の手でスマホを操作して電話をし始めた。
「あー、もしもし?すんません、ちょっと原稿遅れるっつーか落ちるかもしれなくて………や、ちょっとゲロしちまって、原稿がゲロまみれに………俺っす俺、寝ゲロやっちまって………あーはい、すんませんマジで、1日遅れでよかったら、なんとかツギハギしてそれっぽく仕上げられると思うんで………はーい、すんませーん」
猛雪は怒りを鎮めたついでに、原稿破損の理由をフレアのせいにすることもせず、自分のせいだと庇ってやっていた。そのやり取りを見ても…フレアは不満そうな表情のままだった。
───結局、俺っち達が総出で原稿の修復を手伝い、補修ができないコマは猛雪が改めて描き直す、という人海戦術荒療治の結果…あとは猛雪があと少し描き足せば大丈夫、という段階まで奇跡的に原稿を復旧させることができた。偶然とはいえ、手のかかる大ゴマや描き込んだコマが半分ぐらい無事だったのも大きかったらしい。電話でああは言っていたものの、明日の営業時間内にデジタル提出ができれば原稿は落ちない、と猛雪は言っていた。…頑張れよ。
そして…イグニスが熱を出しやすいのは、どうも本人が氷魔術を扱うせいか、体温調節が感情の起伏に引っ張られてる可能性が高い。人型の体温は、高すぎても低すぎても命に関わる。こればかりは、少し厳しめになっても指導する必要があるか。
ちょうどその日はイグニスの添い寝の持ち回りが俺っちに回ってきていたので(フレアは暴れ出す危険性を考慮してパワーのある風鷲がつきっきりで見ている)、床についたイグニスの肩を軽く叩きながら言い聞かせる。
「いいか、イグニス。お前さんは頑張りすぎたり、すごく怒ったり泣いたりすると、体がガーッと熱くなったりサーッと冷えたりしちまう。難しいかもしれねえが、怒ったり泣いたりしそうになったら、落ち着いて息を整えるんだ。感情をコントロールして、お前さん自身を守るためにな」
「こんとろーる…?」
「そうだ。お前さん…自分が苦しいのは耐えるくせに、誰かが傷ついてたらワーッてなっちまうんだろ?それは優しい心の証だから、考えを改めたりはしなくていい。でもな?そのせいでお前さんがワーッてなって、熱が出すぎたり冷えすぎたりして…お前さんが苦しんだり、最悪死んでしまったら、俺っち達はすっごく悲しい。これから先に会う人達もそうだ、お前さんが人を思いやった結果、お前さんのことを好きになってくれた人達を悲しませちゃいけねえ。だから、ちょっと頑張って感情をコントロールするんだ。自分のためだけじゃねえ、周りのためにもな…さ、難しい話は此処までだ。また熱が上がっちまう前に寝ような」
「…ん」
イグニスの頭を抱え込むようにしてやると、数分と経たず寝息が聞こえてきた。せめて俺っちも…この寝顔ぐらいは守ってやれる存在になりたいもんだ。
───そうしてイグニスの精神統一訓練も本格的に始まり、双子はもう少しで6歳の誕生日を迎えようという…寒い日の夜だった。
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