[Episode.5-博多の一等星•E]

───イグニスを迎え入れた翌朝、飛龍がいつものように朝の仕込みをしようと起き出すと…既に居住スペースのキッチンから何か物音が聞こえてくる。


「(えっ?まさか…)」


急いでキッチンへ向かうと…イグニスがキッチンに立ち、朝食の用意をしているらしかった。テーブルには既にベーコンエッグ、ほうれん草のバターソテー、オニオンコンソメスープが並び、トースターから食パンが焼けた音を聞いたイグニスが振り返ったところで…飛龍と目が合い、身を跳ねさせて驚いた。


「あっ…か、勝手にすまない…世話になる以上は、食事の用意ぐらいはするべきだと思った、から…。も、もし使う予定の食材を使ってしまっていたなら、あとで買いに行ってくる!」

「…あのなぁ、君…昨日ん夜に倒れとって、まだ一晩しか経っとらんばい?無理せんで、まだ寝ときんしゃいよ」

「た、体調は大丈夫だ、熱も下がったと思うし、だるさや吐き気も落ち着いた。あの変な薬剤師にも、改めて礼を言わなくてはな」


イグニスの言葉に嘘はないらしく、確かに昨夜よりは顔色もよくなってはいたし、暗かった瞳にも僅かながら光が宿ったようにも見える。それでも…


「…用意してくれた事には礼ば言わんとね、ありがとう。ばってん、この後はゆっくり休みんしゃいよ?俺が此処にいなさいて言うたんやけん、何か手伝いばせないかんとかは気にせんでよかけんさ…」

「いや、これからも朝食の支度はさせてほしい。ただの恩義返しの手伝いではなく、別の理由もあるんだ」

「…分かった、話ば聞こう。ひとまず、先に食べようか。せっかく作ってくれたとに冷めてしまうけんね」


そうイグニスにも座るよう促し、2人で朝食をいただく。飛龍にとっては…消えた婚約者以来、実に十数年ぶりに誰かと共にする朝食だった。


「いただきます───美味いな!?」

「…味はあまり期待していなかった、という顔だな」

「す、すまん…イヤ、正直甘く見とったっちゃん…」

「俺の師…育ての親と言うべき存在が魔界料理人だった・・・んだ。…調理の技術は、師から学んできた」


"だった"…という過去形の言い方と、その発言に伴ってイグニスの瞳に再び影が差したのを、飛龍は見落とさなかった。だが、それでも出会ってまだ一両日と経っていない相手に、言いたくなさそうな事なのを分かった上で踏み込むのは、さすがに人心がなさすぎるとも判断した。


「(…この子が自分から話しとうなるまで、俺が急かすべきやなか)」


そしてその代わり、別の質問をイグニスに投げかける。


「…イグニス君は、料理人になりたかと?」

「まあ…そう、だ。魔界料理人は、受験資格が人間界の調理師免許よりもう一段特殊で…『365・・・種類のレシピ・・・・・・及び各レシピに対する3人以上の試食感想の提出』が必須になる。だから…いずれはあんたの店の厨房で、メニュー考案と調理の修行をさせてほしい。暫くは俺が朝食の準備をするから、もし店の手伝いをさせてもらえるレベルに達したら…」

「分かった、よかよ」


…まさか即答されるとは思っていなかったらしく、イグニスは呆けたまま目だけをしばたかせている。


「…え、本当に…」

「じゃあフィギュアスケートやっとるとは、選手になりたかってわけやなかと?」


飛龍の口調に、責める様子は微塵もない。ただ単純に、事実がどうなのか気になったから聞いただけの事だった。しかし…イグニスは顔を伏せ、声を低めて答える。


「…すまない。言い出せなかったが、冷やかしでやっているわけではないんだ。俺が引き取られた先は、時期によって川や道が凍ったりしていたから…回り道をしたり無理に渡るより、スケート靴で滑った方が早いし安全だった。その手段として、師の友人だった冷鵝がスケーティングを教えてくれていたんだ。だけど…経験者のあんたから見たら失望させてしまうようなレベルだから、本当は…あのスケート靴を受け取る資格は、俺にはないんだ」

「責めたり失望したりなんかしとらんばい、あのスケート靴も、部屋の隅で腐っとーのが忍びなかったけん譲ったんよ。気にせんで…」

「今朝、あんたの名前で動画を検索した。…あんた本当に凄い選手だった。その夢を…半端な俺が抱えて本当にいいのか、改めて迷ったぐらいに。冷鵝から聞いた…ああいう大会に出るには、バッジテストっていうのが必要なんだろ。俺はそういうの、何もないから…冷やかしとかお遊びって思われても仕方ないけど」

「じゃ、受けりゃあよかやんか?バッジテスト」

「…え」


イグニスは再び顔を上げ、恐れにも近い表情で飛龍を見返す。しかし飛龍は、苦笑を漏らして話を続ける。


「初級受けるとは小さか子ばっかりやけん目立つやろうけど、仕方なか。今の君のジャンプの出来映えは見らな見ないと分からんけど、基本が出来とーやったら4級ぐらいまではすぐ受かるばい」

「でも、そういうのはもっと若い頃から受けてないと…」

「半端やて思うとーやったら、半端じゃなくなりゃあよか。プロのスケーターば目指さんとしたっちゃしても、バッジテストの級は自信になる。君もまだ十分若いんやけん、そう悲観しなしゃんな」

「…すまない、何から何まで…」

「何ば言いよーと、頑張るとは君自身やけん。そこまでん道は、大人のおっちゃんがなんとかしちゃる。君は自分が思っとーより、頑張り屋さんやておっちゃんは思うとーけん。大丈夫、どげんかなるばい」


───この子にはまだ、綺羅星の如く未来の選択肢がある。やりたいことがあるなら、できることがあるなら、可能な限りやらせてあげるべきだ。この子が抱えている暗い思いを、希望の光で照らせるなら。できることで自信をつけさせて、いずれは自分に価値があると思わせられるなら、今から教育したって遅いことなんてないはずだ…そう、飛龍は信じていた。


しかし───


───「え、3級落ちた?」


数ヵ月経ったある日、死にそうな顔で帰宅したイグニスの様子に、思わず飛龍から苦笑が漏れる。


「………バッジテストのために、わざわざクラブ立ち上げやコーチの申請をしてくれたのに…俺はもうダメだ………」

「どげんしたんね、はらかいたり怒ったりせんけん、何があったんか教えんしゃい」

───『俺っちから言うよ。序盤から、別の選手が跳んだトウジャンプの穴にエッジを引っかけて大転倒。そのまま数十秒ぐらい頭真っ白になって固まっちまってさ、リカバリーしようにもそれで気持ちが切れちまった。コンビネーションジャンプも続けられなかったし、最後のジャンプも回転不足。今回に限っちゃ、まあ誉められる箇所がまるでなかったな』

「あちゃあ…不運が重なったとやなぁ」


コーチとして(画面越しではあるが)付き添いをしていた冷鵝も、言っている内容は容赦ないながら敢えて明るく言うよう努めたが、逆にイグニスはますます落ち込んでしまう。だが…


「ハハハ、よかよか、仕方なか。そういう時もあるとよ、気にせんで次しっかり受かろうな、大丈夫大丈夫。さ、今日はイグニスの好きなもんば夕飯にしよう、元気出しんしゃい」


小学生でも受かるような級で落ちても、飛龍は一切責めなかった。

その寛大さと優しさが効いたのか───以降は6級まで一度も落ちることなく、イグニスはほぼ半年でバッジテストを駆け上がることになる。


そして…その半年と並行して、厨房での修行も始まっていた。前の日の晩に大まかなレシピを考案し、朝になったら飛龍と共に試作。そうしてできたメニューは、何故か一般客の客足が増えてきたカフェに1日限定のメニューとして出し、レシピ成立の条件である味の感想を書いてもらって集めていた。

客足が増えた理由は…13歳にしてバッジテスト初級を受けたイグニスの存在は異質で、(例の落ちた3級以外は)バッジテストにも関わらず抜群の実力を見せつけていた。その噂はスケーター達の間で少しずつ、博多の街に広がっていた。そんなイグニスがあの"一等星"の筧飛龍、『破天荒な氷龍』の教えを受けていると知られ、その関係を一目見ようと飛龍のカフェを訪れる者が増えていった…という経緯だった。

そんな中…


「うんうん、よかよか」


飛龍は満足げに、イグニスの姿を見て頷いた。このために多禄の人脈を頼り、オーダーメイドで仕立てた、イグニス専用の燕尾服風のユニフォーム。


「イグニスは背が高かけん、大人っぽか服がよう似合うねえ」

「俺のためだけに、わざわざオーダーメイドまで…?」

「何ば言いよーと、従業員の身だしなみば整えるとは店長ん仕事ばい。そん代わり、しっかり働いてもらうけんね」

「それは勿論だ、至らない点があればいつでも指摘してくれ」


イグニスは快諾するが、彼が13歳だという事実は飛龍と手伝いに入っている多禄の配下しか知り得ない事実───だから飛龍も、定休日の月曜を除いてもイグニスの手伝いは1日おきにしていたし、年齢だけ見れば中学生ということで夜の手伝いをする時も8時には切り上げさせていた。

敬語こそ使えないもののイグニスの接客は丁寧で、またオープンキッチンになっている厨房でイグニスが調理する姿の真摯さも話題を呼んだ。そうして客の噂がまた新たな客を呼び、カフェは昼夜問わず少しずつ繁盛していった。


しかし───そんなイグニスに対して、飛龍は唯一とも言える懸念点があった。


夜の8時に店を上がらせると…イグニスはすぐにジャージに着替え、外出する・・・・身支度をしてしまう。その理由は…


「…また、夜警・・に出ると?」

「…すまない、これが本来…俺が魔界から受けた仕事・・なんだ」


心配そうな飛龍を置いて、イグニスは街へと繰り出す。それは決して、遊びに出ているわけではない。店の前には…


「おう、お疲れさん。偉かね~、カフェのお仕事終わって、ハシゴして夜警やなんて」


魔界にいた頃にも共に仕事をした経験がある、阿万里ベルフェが迎えに来ていた。


「…ルーディスに顔向けできないからな。あいつは…自身の事務仕事が増えるのを分かってて、俺を人間界に向かわせた。その役割はしっかりこなす、いつも言っている通りだ」

「ルーディスなぁ、よか奴っちゃけど貧乏クジ引きがちやけんね…今頃机に伏せって奇声上げとーっちゃない?」

「…目に浮かぶ。せめて、その気苦労には報いないとな」


"悪魔を狩る魔族"───それが今のイグニスに課せられた、魔界監査官としての仕事・・。魔界の王直属の遵法組織でありながら、指揮官ルーディスは…魔界の王の意思に反し、人間界で悪事を働くアンノウンや悪魔を粛清するよう指示を出している。それだけでもいつ魔界の王に目をつけられるか分からないのに、心を壊しかけた・・・・・・・イグニスを独断で人間界へと送り出した。故に、イグニスに伝えた名目上は仕事・・ではあるが…ルーディス個人としては、イグニスの心を守るための長期休暇・・・・として、魔界から距離を置かせるために人間界に送り出していた。



───「少ないが、人間界で使える通貨をかき集めておいた。いいか?あっちに降りられた・・・・・ら、博多という街に行くんだ。前に共同で仕事をした、ベルフェという神族を覚えているか?彼が博多で活動しているから、話を通してある。…十数年近く前の"地獄門解放・・・・・"以来、人間界のアンノウンは減る兆しが見えん。お前にはその掃討を頼みたい…いいか、これは仕事・・ではあるが、決して無理はするな。拠点も変わるし、気分転換のつもりでいても構わん。だから…まずは何かひとつでいいから、楽しめる事を見つけるんだ。お前の心は、こんな所で壊れていいものではない。お前を…守れなくて・・・・・、すまなかった」───



魔界監査官の先輩にも当たるルーディスは、イグニスを諭すように言い聞かせると、自らの所持金を特殊なルートで人間界の通貨へと替えて持たせてくれた。そして、本来イグニスが魔界でやるべき書類仕事の一切を引き受けてまで…イグニスを魔界から引き離した・・・・・。その意味を…イグニスも分かっていた。


「(きっと仕事・・だなんて、建前だって分かってる。それでも…頼まれたなら、やらないと。遊んでいる暇なんてない…俺に、そんな資格はないんだから)」


飛龍の契約印に関しては多禄とベルフェにも共有され、イグニスの哨戒範囲は飛龍のカフェを含んだエリアにしてやっていた。ルーディスはああ言っていたが、波来祖と比べるとアンノウンの出現数はそう多くはない。これは念のための哨戒であり、それでも出現してしまったアンノウンや敵性悪魔は迅速に始末されていた。


───そうして一頻りの巡回が終わるのは、いつも日付が変わる頃。この日もイグニスがカフェに戻ると、珍しく奥の部屋の電気がついたままで…


「…飛龍?まだ起きて───」


薄暗い店内を見渡していたイグニスの目の前で、急にクラッカーが打ち鳴らされた。驚いて目を丸くするイグニスの前には、満面の笑みを浮かべた飛龍が立っていた。


「え、なん…」

14・・歳の誕生日おめでとう・・・・・・・・・・、イグニス。直接は聞いとらんかったけど、薬局の問診で誕生日書く欄あったっちゃろ?」

「あ、ああ…だがどうして…」

「なして、も何もなかろ?はい、プレゼント。大したもんやなかっちゃけどね」


飛龍から手渡された小さな箱は、宝石店で見るような豪華なもの。それを恐る恐るイグニスが開けると…中には、雪の結晶を象ったクリスタルのペンダントトップが入っていた。


「…これ、いくらしt」

「こらこら、プレゼントの値段を聞くもんやなか。いや、そう高かものでもなかばってん…似合うと思うてな」


飛龍の笑顔が、箱の中で光を反射するペンダントトップが…少し揺れて、歪む。


「…一生、大切にする」

「ははっ、大袈裟やねぇ。これから毎年増えるとよ?一生が足らんくなってしまうばい」

「…そこまでしてもらえる存在に、俺はなれているのか?」

「当たり前っちゃん、君はもううちの子・・・・同然なんやけんさ」


その言葉を聞いて…イグニスは目元を拭うと、早速ペンダントトップを身につける。


「寝る時は外しんしゃいね、首に絡まったら危ないけん」

「…スケート靴、あったろ。最初に俺が持っていた方の」

「…うん」


このタイミングで切り出すなら、きっと大事な話だ…そう察した飛龍は、イグニスの話を聞きながらカウンターに移動し、飲み物の用意を始める。誕生日の今日ぐらい、少し夜更かししてもいいだろう。


「飲み物出すけん、カウンター座りんしゃい。それで?」

「…すまない。あのスケート靴は、ジェン・・・という俺の師…育ての親が、去年の誕生日に買ってくれたものだ。冷鵝も言っていたが、ジェンはスケートやらないから、ブレードの長さの違いが分からなかったみたいで。でも、元々はスケーティングだけやっていたから、それでもよかった。ジャンプの練習を始めた時は、足りないブレードの長さは俺の氷魔術で延長していたから、何も問題はなかった」

「ブレードだけやったら付け替えできんかったかな?もしできそうやったら、ブレードだけ替えてまた使うたらよかやん。ボロボロやけん、落浜オチハマさんとこの靴屋さんで修理せな危なかばってん…勝手に修理したらはらかかるーと怒られるのか?」

「怒れない。…もう・・いないから・・・・・


───余計なことを言った。

苦笑しながらのイグニスの言葉に、飛龍は自らの浅慮を後悔するが…


「───俺が・・殺した・・・


…飛龍は言葉を失い、暫くの間沈黙が流れる。店の少し遠くでパトカーのサイレンが鳴ったのを聞いて、飛龍は我に返る。


「…最初に会った時、暗い目ばしとったんなしていたのはそげなそういうことか」

「だから、誰かに大切にされる資格は、俺にはもう」

「理由があるとやろ?結論だけで判断はせんばい。ここまで言うたんや、全部話してしまいんしゃい」


飛龍は恐れず、優しくイグニスに続きを促す。その反応が、イグニスには意外だったようだが…小さく頷き、ポツポツと話し出す。


「…12歳の時、俺は魔界監査官になった。こっちで言う警察と検察と…執行人の役割を担う法的組織だと思ってくれたらいい」

随分ちかっぱ範囲が広いんやね、法の番人か…うん、すまんな。それで?」

「───師が、殺人を犯した・・・・・・。罪人の裁判は、当然魔界監査官の仕事だ。…魔界の裁判は即日結審、即日執行・・・・。ジェンに下された判決は、死罪・・───焼死刑だった」


膝の上で握られているイグニスの拳が、小刻みに震える。


「俺もその現場を見た・・・・・・・。だから、罪状も判決も間違いじゃない。俺が、師を………ジェンを、裁いたんだ」

「…そうか。仕事とはいえ、辛かったんやな」

「…きっと、ルーディス…同僚は、俺の様子がおかしいのを見かねて、魔界から距離を置かせたんだ。働き始めたそばから迷惑をかけて…本当に、情けない」

「経緯はどうあれ、育ての親が亡くなったとやろ。ショック受けて当然ばい」


飛龍はカウンター越しに、イグニスの頭を撫で…


「ばってん、それは君が雑に扱われてよか理由にも、大切にされたらいけん理由にもならんよ。俺は…君の育ての親を知らんし、君がどれだけ辛かったか分かるなんて言えん。やけん、俺は俺に分かる事しか言えんけれどな…ジェンさんは君が不幸になることなんか絶対望んどらん。それだけは分かるったい」

怖いんだ・・・・!大切にされて、贈り物までもらって…恩義に報いようとしても、もう本人はいない!あんたもそうなるんじゃないかって思ったら、受け取るのも怖くて…嬉しいのに、喜ぶべきなのに…なんでこんなに、怖いんだよ………」


イグニスは声を詰まらせ、首に下げたペンダントトップを握りしめて俯いた。

そんなイグニスの前に…いつもの・・・・1杯が差し出された。マグカップに注がれていたのは、ホットストロベリーココア。2月の寒さを溶かすような、温かく甘い魔法のようだ。


「…飛龍」

「大丈夫、俺はおらんごつなったりせん。君の弟やらアンノウンやらがウロウロしとっても、簡単に死んでやるつもりもなか。やけん、もう心配せんでよか」

「頼む、飛龍…死なんでよ・・・・・、お願い、お願い………」

「アッハハ、縁起でもなか事ば言わんの。大丈夫、大丈夫やけん…もう泣きなしゃんな」


飛龍はゆっくりと歩き、椅子に座っているイグニスの横まで行くと、その頭を自らの肩へと抱え寄せた。


「…泣いてなんかない!泣いて…なんか…」


強がりつつも嗚咽を漏らすイグニスを、飛龍は何も言わず支えていた。





───そんなある日の早朝…イグニスがリンクに帰ってくる直前にテレビを見ていた飛龍は、思わず持っていた湯呑みを取り落とした。


───『えっ、も、もう一度言ってもらっていいですか…?』

───『やけん話題のスケーター、イグニスは魔族や・・・ち言うたとよ♡』


朝のローカル番組生放送で、ゲスト出演者の多禄があっさりとイグニスの素性を暴露したのだ。


「そ、そげな…」


確かにこれだけイグニスが有名になってしまえば、いずれはバレることだったのかもしれない。飛龍自身もその一端を担ってしまった以上、多禄を非難する資格はないのだが…


「(俺の時代とはネットのレベルが違いすぎる、何ば言わるーか…)」


恐る恐る、飛龍がスマホで「イグニス 魔族」と検索すると…やはり動揺や恐怖、誹謗中傷や根も葉もない悪評などが早くも流れており、自分の事ではないにしろ吐きそうになる。


しかし───それ以上に。



"はえーイグニス君って魔族だったんだ、人間と大差ないし気づかんかったわ"


"草 イグニスより魔族みたいな人間いっぱいおるやん"


"人間より魔族の方がまとも説ワンチャン?俺イグニスと話したことあるけど普通に話通じるし近所の美味いラーメン屋紹介して終わったぞ"


"そうなんです。イグニス君は魔族なんです。私は最初に彼に会った時、一目惚れと言いますか、初見でただものではない、と思ったんです。あの衝撃は一言では言い表せないものであり、この世の全てに感謝を捧げたくなるほどでした。月光のような笑みは美しいなどという陳腐な言葉では言い表せないほ文字数"



…最後のコメントは、やはりと言うべきかアカウントを確認したところイフユのものであり、しかも大形薬局の公式アカウントからコメントしていた。言い表せない連呼しとるし、言い表せないと言いつつ言及しとるやないかというツッコミを飲み込みつつも…イフユ以外にも誹謗中傷を越える数の"擁護"や"納得"のコメントが流れてきており、カナワの公式アカウントには放送後間もないタイミングでこんなコメントが載せられていた。



"人間でも魔族でも、氷の上では関係ない。

俺とイグニスはライバルなんで。

人間だから、魔族だから、勝った負けた、跳べた跳べない、みたいな言い訳はカッコ悪い。

そういうコメントする奴は、俺にもイグニスにも失礼だってこと理解してな。


実力で勝つけん👊😁"



「反応早か…いや、カナワ君、ありがとな」


その時…ちょうどイグニスがリンクから帰ってきた。


「お、お帰り…どげんやった?帰り道、何もされんやったか?」

「え、何?特に何ともないが…」

「テレビで多禄くんが、イグニスが魔族やって暴露したっちゃん…やけん心配で…」

「あー、あいつ余計なことを…大丈夫だ」

「本当に…?」

「だって、俺は恥じるようなことは何一つしていないだろ。何処の国出身だから悪だなんて、それこそ差別じゃないか。聞かれなかったから俺もわざわざ言わなかっただけだし、多禄もそれを分かってて敢えて暴露したんだろう。これで俺を見る目を変えるような奴は、そもそも俺の本質なんか見ていないんだから」


───イグニスの真っ直ぐな青の瞳に、飛龍は…


「…それもそうやね。いかんなぁ、おっちゃんやけんいたらんよけいな心配してしもうたばい」

「あ、まさかエゴサしたのか?ネットなんか、顔の見えない連中が好き勝手言うばかりの掃き溜めだぞ。素直に真に受けるような正直者が一番馬鹿を見る、って…そういえばさっき、何故かカナワの奴が俺にメールで言ってきたな。あいつ、嫌味のつもりか?」


カナワの行動力の早さに苦笑しつつ、飛龍はテレビを消してカウンターの方へと向かう。


「すまんね、今飲み物用意するけん」

「いや、自分で用意する…」

「俺が用意したかばい。おっちゃんのお節介や」

「ぬ…」


どうもイグニスは、おっちゃんのお節介、という言葉を出されると弱い。こうなると大人しくカウンター席について、飛龍が"いつもの"1杯を用意してくれるのを待つしかない。


「はい、ホットストロベリーココアな…改めて、お帰り」

「…挨拶は一度でいいだろうに」


イグニスは苦笑しながら…今日も少し熱く、甘酸っぱいココアをゆっくりと飲み干すのだった。





───イグニスの髪も随分と伸びてきたので、飛龍が散髪して整えてやっていた。フィギュアスケートをやるなら、あまり長すぎると絡まったりして不便だろうと思ったからだ。

しかし、前髪を整えている時…飛龍は思わずハサミを止める。


「(───こんままだと、若か頃ん俺とシルエットがそっくりや。俺は無意識に、この子ば自分の代わり・・・・・・にしようとしとーとか…?)」


飛龍の様子に、イグニスはどうかしたのかと目を開ける。


「…飛龍?」

「あ、ああ…すまん。すぐに終わらすばい」

「いい、これで。どうせ前髪は上げるんだし、多少長くても問題ない」

「そ…そう、か」

「助かった。…練習に行ってくる」


イグニスは出かける用意をしながら…


「飛龍、俺は今でもあんたをすごい選手だと思ってる。だけど俺は…あんたを・・・・目指す・・・わけじゃない・・・・・・。だから髪型が似た・・・・・からって、あんたの過去の栄光が塗り潰されることはない。俺は俺の実力で、あんたの思いを継いでるんだって見せつけるから。…行ってくる」


イグニスが出ていき、乾いた音を立てるドアのベルの音を聞きながら…飛龍はひとり、苦笑混じりに呟く。


「…見透かされとったな。うちに来てちょっとしか経っとらんのに…あの子、いつん間にか大人になっとったんやなぁ。ほんなこつ…男の子ん成長はあっちゅう間ばい」


その日はイグニスが『Dragon』を訪れてから2度目の夏を迎えた早朝で、早いものでイグニスは身長180cmを越し、年齢は15歳になっていた。



††


-現在・7月12日深夜/カフェ&バー『Dragon』-


───イグニスをイフユの薬局に預けたことで、久し振りに飛龍はひとりの夜を過ごしていた。夜警に出て、いつも日付が変わるギリギリに帰宅してくるイグニスに「お帰り」を言わないと1日が終わった気がしなくなっていた飛龍は…今日は誰も帰ってこないと分かっていても、つい玄関先を気にしてしまう。


「(…意外と寂しかね。たった1日、元に戻っただけなんに)」


いつの間にか自身がイグニスの存在に甘えていたのだと気付き、苦笑を漏らす。もう寝ようかと思った時…ポケットからスマホの着信音が響く。着信相手は…まさにその『イグニス』だった。


「もしもし?よかった、目ば覚めたんやね…どげんしたと?」

───『…飛龍?生きてる?無事か?何もないか?よかった………』


電話に出るなり、イグニスは矢継ぎ早に飛龍の無事を確認すると、最後は涙声になり嗚咽を漏らした。


「なんね急に、俺は大丈夫やけん…それより具合はどげん?いきなり倒れたけん、生きた心地がせんやったばい…今日はゆっくり休みんしゃい、よかね?」

───『嫌だ、ダメだ!今すぐ帰る!此処はあんたから離れすぎている、普段みたいにサッと寄ってすぐ帰るのとはわけが違う!あんたの無事が確認されないと、安心なんか───』


真面目なイグニスが珍しく駄々をこねているな、と飛龍が驚いていると


───『…逃げて・・・

「えっ?」

───『今すぐ逃げてくれ・・・・・ッ!!!!』

「な、なんね、どげんしたと?何が…」

───『嗅ぎ付けられた・・・・・・・!弟の…フレア・・・の気配が店に迫ってるんだ!早く───』


ドン


───誰も帰らないはずの出入口のドアを、乱暴に叩く音がした。


ドン ドン

ドンドン ドンドン ダン!


───スマホ向こうで半ば泣き叫ぶイグニスの声を遠く聞きながら、

飛龍は…思わず苦笑し、諦めたように呟く。


「───ああ、ついに来た。今日が、その日・・・なんやなぁ」


ダン!!!!

ダンダンダン!!!!


ドアを叩く音が変わっていく。…もう、数十秒も持たないか。

飛龍は覚悟を決め───息をついてから、再びスマホ向こうのイグニスへと伝える。


「…ごめんなぁ、イグニス。もう店の前まで来てしもうとるごた来ちゃってるみたい

───『そん…すぐ戻る!だから、それまで…』

「愛しとった、いや…愛しとーばい、イグニス───未来に向かって跳びんしゃい、おやすみ・・・・

───『やめ…っ、イヤだ!飛龍───』


飛龍はスマホを放り投げ───カウンター下から、隠していた拳銃・・を取り出した。万一の護身用にと、多禄が密かに渡していたものだ。

此処まで到達してしまったということは…道中を警備していた多禄の配下も無事では済んでいないのだろう。多禄本人や阿万里ベルフェも、この周囲ばかりを常に警邏しているわけでもない。そうなれば、自分の身は自分で守るしかない。


とはいえ…守りきれる確証も、逃げ切れる自信もなかった。事故の後遺症で膝は変形し、走るどころか杖なしでは歩行も覚束ない。かといって、銃の心得などあるわけもなく、付け焼き刃の射撃で魔族を倒せるだなんて思っていない。

だから───イグニスに別れを告げた・・・・・・。此処で死んでも、君を恨んでなどいないと。擬似的ではあったが、父親としての愛情に嘘偽りはなかったのだと。最期まで…抗うだけ抗って、死に逝くのだと。


「───さあ、来い。俺に未練はなかぞ」


自分に言い聞かせるように低く唸りながら…飛龍は壊されていくドアを睨んでいた。


───その先には、二度と目覚めない眠りしか待っていないと知りながら。

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