[Episode.5-博多の一等星•D]

††


───やあ、よう来たね。


此処は俺ん店、カフェ&バー『Dragon』。

せっかく来たんや、1杯サービスするばい。


…ノンアルコール?勿論構わんよ。

はい、うちの自慢、ホットストロベリーココア。

…あの子も、これが一番好きなんよ。


───あの後、あの子イグニスいっちゃんイフユの薬局に任せた。

薬剤師のいっちゃんなら、よか薬も知っとーやろう。

それに…休まないかんのに、俺んために無理ばしようとするけんね。

寂しかばってん…一度、俺とは離れて休ませた方がよか。


さて…せっかくのお客さんに、何ももてなしができんのもなぁ。

…俺の身の上話?お客さんも物好きやねぇ。

こんなおっちゃんの過去なんて、面白うもなかろうに。

ばってん…それがお客さんの望みやったら、可能な限り話そうか。


この殺伐とした修羅の国で、死んだごと生きとった俺は。

全てを優しく照らす月光のような、あの子と出会った。


───さあ、グラスが空いたなら、次の注文を聞こうか。



††


-24年前・スケートリンク『エ・スパーダ福岡』-


───絶叫、悲鳴、それと聞き間違う程の…割れんばかりの歓声。

観客全員が総立ちになり、リンクを埋める拍手の音が響き渡る。

記者達は狂ったようにシャッターを切り、ペンを紙に走らせる。

いつまでもいつまでも…リンク中央で自信に満ちた笑みを浮かべ、拳を突き上げた、たったひとりのスケーターに向けて。


3Aアクセル+1Auオイラー+4Sサルコウ


プログラム終盤に、しかもオイラーを挟んだ後の4回転を含んだコンビネーションジャンプ。恐ろしいまでの難易度を誇るこのジャンプを───16歳の筧飛龍かいぶつは、プログラムごとノーミスで成し遂げたのだ。


表彰台で金メダルを掲げ、満面の笑みを見せる飛龍を…銀メダルを首に下げた大形イフユは、少し遠慮がちに見上げていた。幼馴染みが快挙を成し遂げた喜びと───親友ライバルがもう、自分の手が届かない程に遠くなってしまった寂しさを入り混ぜて。


「(やっぱり、ひーくんは…すごかっちゃん)」


しかし、当時から人の心は醜いもので…飛龍の快挙を知るや、嫌がらせをしたり、非行少年であったなどと根も葉もない悪評を流す者まで現れた。それでも、飛龍は一切引かなかった。とあるインタビューを受けた時、インタビュアーからマイクを奪い取ると、飛龍はカメラに噛みつかんばかりの距離で宣告した。


───『なんかぁ、嫌がらせやらしとーごたーしてるみたいばってんだけどさ、効かんばい。文句があるなら、氷ん上まで俺に刃ば突き立てに来いや。負け犬・・・がいくら吠えたっちゃ、しけとーつまらんだけやぞ』───


自信家で傲慢、絶対的俺様気質の飛龍には、熱狂的ファンとアンチの両極端が存在した。そうは言っても、飛龍は2歳下の弟である飛燕を溺愛していたし、イフユをはじめライバル達には友好的に接し、一般市民達には愛想を振り撒いていた。礼節が必要な場では正装に身を包んで、毅然とした態度で応対しては周囲を大変に驚かせた。

その姿はまるで───


「いやぁ~すごいなぁ、飛龍くん!ぼくも思わず涙出てきてしもうたばい♡」


その頃から、飛龍のファンを名乗るひとりの男との友好が始まっていた。その男も大変な自信家で、自分のが通用しない者はいないと豪語する、新星の如く現れた落語家だった。

『破天荒な氷龍』などという肩書きを持つ飛龍は、様々な振り付けのために、拳法や空手などを修めた武道家、果てはベリーダンサーにまで声をかけていたと言うから、聞いた者はその芸風の広さに驚く。そんな中で、話術を芸とする落語家は振り付けには関係なかったものの、その男と語らうのは飛龍にとっても楽しい時間になっていった。


「飛龍くん、もし何か困っとったらぼくに言うっちゃん。必ず助けちゃるけんね」

「なんね優しか、俺は大丈夫やけんさ。ありがとな、多禄くん・・・・


飛龍は屈託のない笑顔で答えていた。


───その栄光の日々は、一瞬にして潰えることになる。





-16年前/筧飛龍24歳-




───廊下を走るな、という忠告すら、彼らの耳には聞こえない。

結婚し関西の波来祖はらいそ市へと移住していた飛燕と、飛龍の親友ライバルあった・・・イフユが駆け込んだ病室には───


「───ひー、くん…」


事故により足を潰された、かつての"一等星"が…窓から入る風を受け、死んだ目を泳がせていた。


「兄ちゃん!」


溺愛していた実弟の飛燕の姿を見ても、飛龍は僅かに視線をそちらにやるばかり。


「…飛燕?なして此処におるったい…嫁さん臨月なんやなかとか」

「その嫁に行ってこい言われたっちゃん!だって…兄ちゃん………」

「…すまんな。中途半端に助かってしもうたけん、無駄な迷惑ばかけたっちゃ。あっさりと、死んでおきゃあよかったばい」


消え入りそうな声で呟いた、脱け殻のようになった兄を見て…飛燕は目を見張り、大粒の涙を溢した。


「なんでぇ…兄ちゃん、嫌や………そげなこつ言わんで………」

「ひーくん…」

「よかやんか、いっちゃん。これからは、いっちゃんが博多んスターになるっちゃけん」

「やめれ!!!!………頼むけん、やめれや………ひーくんがおらんごつなったリンクなんか、俺は………」


ベッド脇で泣き崩れる飛燕とイフユを見ても、飛龍の表情はそれこそ氷のように変わらない。しかし…ベッドの上で強く拳を握りながら、飛龍は震える声で溢す。


「…ばり好いとったスケートがでけんごつできなくなって、付き合う意味がのうなったけんって、婚約者にまで逃げられた。俺、もう…なんも持っとらん。こげな俺に、なんの価値があると?なして助かったと?もう…こげな産廃・・、生きとっても意味なんかなかやんか………はは、あはははは、俺は…ただ生きとーだけの生ゴミ・・・ばい!はは、はははは………」


飛燕とイフユが、狂ったように笑い始めた飛龍の言葉を否定しようと息を吸うのと同時に───病室にひとりの男…多禄が早足に入室してきた。多禄はいつもの寄席で着る和装ではなく…見慣れない白の陣羽織を纏い、無表情のまま真っ直ぐに飛龍の元へと向かう。その姿を見て、飛龍は…


「…ははっ、多禄くん…よか時に来てくれたっちゃん。俺、困っとるんよ。これ以上生きとっても意味───」


その言葉が終わる前に───多禄は上半身を飛龍に覆い被せ、軽く額をぶつけた。


「それ以上はいかん。次言うたら、今度こそその口塞ぐけんね」

「───っ」


あまりに急な動きに、飛龍も愚痴を言う暇さえなかった。互いの吐息がかかる距離で、多禄が呟くように詠唱する。


「───その穂先閃かせたるは、疾病平癒の願いなり」


多禄の首にかけていた、槍の穂を模したシルバー調のアクセサリーが光る。すると…飛龍の心を埋めていた"死にたい気持ち・・・・・・・"が、少しだけ弱まっていく気がした。


「───多禄、くん」

「…ふふっ♡」


そこで多禄は漸く上半身を起こし、何が起こったのか固まる飛燕とイフユを一瞥した。


「そげん顔しなさんな、キスはしとらんけん♡死にたか死にたか言われとったら、話が進まんけんね」


そして多禄が懐から取り出し、飛龍に見せたのは…1枚の紙。


「見て見て~権利書~♡」

「えっ、な…俺に何を…?」

ぼくの組・・・・が持っとー土地と建物の権利を、1ヶ所飛龍くんに譲るっち内容ばい♡」

「………組、って」


多禄は…飛燕とイフユ、そして再び飛龍へと視線を向けてから、少し悪辣な笑みを見せた。


「名護屋多ろく、改め───八虎ハッコ組組長、宗像ムナカタ多禄。ぼくは"悪を狩る悪"、この地を守る者として…飛龍くんを必ず助けちゃるっち約束した。そう…どげな手を使うてもな」


3人はそれぞれ別の理由で固まっていたが…最初に動きを取り戻したのは、弟の飛燕だった。


「そ、それが…その権利書が、兄ちゃんを助けるっちどう関係するとですか?」

「決まっとーやん、飛龍くんに店長になってもらう・・・・・・・・・。この建物は飲食店で、ぼくらの会合でよう使うとーけん、店長には早よ退院してドリンク作ってもらわな困るっちゃん。あ~、ほんなこつ困る~」

「…俺に何を期待しとーと」

ぼくのために生きて・・・・・・・・・。よかね?ぼくはスターの飛龍くんと、やなか。飛龍くんと・・・・・話すんが楽しかったっちゃん。そんな飛龍くんに、もう二度と…死にたか、なんて言わせん。やけになって死なんでほしか。それが…友人・・としての、ぼくのお願いやけん」


それだけ言い終えると、多禄は来た時とは逆に、ゆっくりと病室を後にした。


「…つまり、兄ちゃんはスジモンさんに目ぇつけられたと…?」

「ばってん…絶望しとったひーくんの命を、一瞬で繋ぎ止めてくれた…俺達でもできんかったとに」


その背を呆然と見送る2人に…飛龍が声をかける。


「…このことは、俺達だけの秘密にするばい。多禄くんの気持ちを、気遣いを…無駄にはできんけん」


ここまでお膳立てされて、それを無下にはできない…当然、それだけで絶望から抜け出したわけではなかったが、飛龍は歩行のリハビリに精を出した。膝の靭帯も半月板も損傷したせいで、数m歩くだけでも膝が痛み、リハビリには長い期間を要した。

そして、なんとか杖や装具の助けを借りて歩けるようになった時…改めて飛龍は思い知った。もう二度と、氷の上には乗れないと。もう二度と、人々を熱狂させる演技を舞うことはできないのだと。


…いや、それでもう、諦めがついた。まだ氷に乗れるイフユ達に嫉妬したりはしなかったし、テレビでフィギュアスケートの中継が流れても心が痛むこともなくなった。ただ…次の試合で使う予定だった衣装とスケート靴は、どうしても押し入れの奥にしまうことができなかった。分かっている、もう二度と使われないことは分かっているのに。飛龍は未練がましく、スケート靴の手入れだけはずっと欠かさなかった。…まさかそれが後に活きるなんて、当時の飛龍は思いもしなかった。


そうして多禄に店長に仕立て上げられた飛龍は、多禄が寄越した人員と共に、小規模ながら店を切り盛りしていた。高い酒や食べ物を発注するのも、客として注文するのも多禄の配下。まるで八百長のような経営だったが、形だけでも飛龍は社会復帰できていた。事故の後遺症で膝は変形してしまい、歩行もゆっくりとしかできなかったが、身体障害者としての補助も多少ではあるが受けることができていた。

そんな中で、飛龍は調理師免許も取得した。多禄が寄越していた人員の中に、免許の受験条件を満たす営業店となるような資格を持っている者がいたためだ。これで名実共に、飛龍はこの店の店長を名乗る資格を漸く得た、という気持ちになっていた。


自分はもう、表舞台に出る事はない。

天才フィギュアスケーター・筧飛龍は"終わった・・・・"人間なのだと、自覚はできていた。


───そんな日々を送っていた時、飛龍は運命の出会いを果たす。





-3年前・11月/筧飛龍37歳-




───その日は時期外れの台風の影響で、ひどく雨が降っていた。


いつものように、多禄達が一頻り騒いで帰った深夜。飛龍はひとり片付けを終え、明日の仕込みをしようと思っていた時。


出入口の扉の方から、何かがぶつかったような鈍い音が何度か聞こえた。ノックをした感じでも、ドアノブを回した感じでもない。


「(なんね、多禄くん達はもう帰ったとやろ…?)」


不審に思い、警戒心を強めながら出入口のドアを開けると…店の軒下に、誰かが倒れているのが目に入った。気を失っているのか、至近距離で飛龍がドアを開けても身動きひとつしていない。


「えっ?ちょ…」


浮浪者か?と一瞬思ったものの、浮浪者にしては身なりが小綺麗だし、皺のない顔や手の甲を見る限り相当に若いことが分かる。それに…


「(…綺麗か銀髪、肌も真っ白ばい)」


救急車、とも考えたが、銀髪ということは外国の人間かもしれない。そうなれば、保険証だとか滞在許可だとかで一悶着起こり、本人が不当な扱いを受けるのでは───などと、自分に都合よく・・・・・・・言い訳をし、ひとまず店の中に運び入れることにした。どのみち此処に放置していてはいずれ人目につくし、軒下とはいえ荒れ狂う風雨を防ぐことはできない。冷えた体はこの夜の寒さで、低体温を起こして死んでしまうかもしれない。それを見過ごせるほど、飛龍は冷酷にはなれなかった。


「くっ…やっぱり、人ひとり持ち上げるとは無理か…」


水に濡れてさらに重さを増した"行き倒れ"を、飛龍は膝の痛みを堪えながら、引きずるようにしてどうにか店内に運び入れることに成功した。


「ふぅ…これで雨風に晒される事はなか…」


飛龍は一息つく間も無く、店内のウォーマーに残っていたおしぼりを数本持ち出し、とりあえず泥で汚れていた顔と手を軽く拭いてやった。そこで、"行き倒れ"が若い…どころではなく、まだ幼いとも言える青年であることに気がついた。


「…家出少年か?…ようなかね、熱がある」


本来ならすぐにでも濡れた服を脱がせて、体を拭いた方がいいのだが…さすがに初対面の、しかも意識のない相手にそれをするのは憚られた。仕方なく飛龍は、店の奥の居住スペースからバスタオルを数枚持ち出し、ついでに風呂の用意も仕掛けて、服越しに青年の体にタオルをかけてやった。

そして、スマホで『大形薬局』…イフユに電話をかける。


「───もしもし、いっちゃん?遅くにすまんね」

───『ひーくん?どげんしたと、抗うつ薬と眠剤・・・・・・・足らんやった?』

「いや、ちょっと…解熱剤とか風邪薬とか必要になってな」

───『…オーバードーズはさせんよ』

「違うばい!ちょっと店の前に行き倒れの子がおって、熱が高かみたいなんや」

───『ほーん…子っち事は子供ね?何歳ぐらい?』


"仕事モード"になったイフユに答えようとした時…


「───う、ぅ…?」

「あっ、目が覚めたと?大丈夫?」


青年が目を開け、ゆっくりと上体を起こしてきた。しかし…


「───ぅ"」

「おっと」


体が冷えて胃腸機能が弱っていたのか、飛龍が咄嗟に掃除用のバケツを掴んで押し付けたことで、店内への被害は辛うじて防ぐことができた。


「大丈夫ね?無理せんと、出せるなら出してしまいんしゃい」

───『ふんふん、熱があって吐き気が強い…本人への聞き取りは難しそうやね、冷えはどげん?』

「熱はあるっちゃけど、体全体はばり冷えとーよ…」

───『了解、合いそうな薬いくらか持っていくばい。聞き損ねたっちゃけど、年齢はどのくらいね』

「うーん…高校生ぐらいやなかか?結構身長あるけん」

───『はいはい、そのぐらいやね。ちょっと待っとってや、ビール開ける前でよかったばい』

「すまんね、いっちゃん。じゃ、後で」


青年の吐き気が治まるまでその背を擦っていた飛龍は、落ち着いてきた青年に暖かいおしぼりと白湯の入ったマグカップを手渡した。


「大丈夫?それで顔ば拭いて、ゆっくり飲みんしゃい。お風呂も沸かしとるけん、体ば温めんしゃいね。熱もあるけん、無理はしなしゃんな」

「───あんた、どうして」


青年は…弱々しい声で飛龍に尋ねる。しかし飛龍は、バケツを引き取りながら眉を潜めた。


「なんでって…倒れとったとを放っとけんちゃろう?君、何歳ね」

「…今年で13になった」

「は!?じゅうさんさい!?まだ子供やなかか!」


飛龍は思わずバケツを落としそうになるのを堪え、疲労と発熱で呆然と座り込んでいる青年…いや、少年を凝視した。しかし少年は、飛龍の反応が不服だったらしく、やや目つきを鋭くした。


「…子供扱いするな、魔界・・では12歳で成人と同じ扱いを受けるようになる」

「…はぁ、魔界…」


唐突に聞き慣れない単語が聞こえてきて面食らうが、此処福岡ですら『修羅の国』などという若干不名誉な二つ名がついているのだ。出身地を揶揄って言っているのかとも思ったが…それでは年齢に関する情報のおかしさが正されない。

飛龍が悩んでいると…少年はため息をつき、自らが引きずられた水溜まりに指をつけ───瞬時に凍らせた・・・・・・・


「う、お………」

「…分かったろう、俺は魔族だ。俺に関わったって、ろくな目に遭わない。…店先を邪魔して悪かった。すぐに出ていく」

「ま、待ちんしゃい!行くあてはあると?それとも、ご両親の電話番号は…」

「…ない。故郷は滅んだし、両親も俺が物心つく前に死んでいる。…雨風を防げる場所があれば教えてくれ、公園でも倉庫でも構わない。これ以上…あんたに迷惑はかけない。出されたものを残したくはないから、この白湯だけはもらうが…この恩は、いつか必ず返すと誓おう」


少年の顔を見て…飛龍は心が引き裂かれる思いだった。まだ13歳の少年が他人に迷惑をどうこう気にして、体調も悪いのにこの嵐の中を再び出ていこうとしている。そして…


「(この子の目も、綺麗か空んごと青かのに…この暗さはどげんしたとや?)」


その目を、飛龍は知っている。この世全てに絶望しきった、暗い瞳の影を。

この子は、あの時の自分と同じだ───


「───いかん」

「え…」

「まだ寒かっちゃろう、震えとるやなかか。こげな嵐ん中、また倒れられでもしたら寝覚めの悪か。せめて風呂だけでも入りんしゃい、こんままやと風邪どころやなくなるばい」

「ダメだ、俺に関わるt」

「修羅の国の人間ナメたらいかんばい!アンノウンだか悪魔だか知らんばってん、既にウヨウヨしとーっちゃん!君は魔族やと言うたっちゃけど、俺ば殺すつもりでもあるとか?」


飛龍の言葉に少年は急に青ざめ、マグカップを握りしめたまま慌てて首を横に振る。


「ない!しない、やりたくない!絶対に…!」

「やったらなんも問題なかやんか?」

「俺じゃない、あいつ・・・が───が、俺に関わった相手を憎んで狙うから…!」


───ああ、ほんとうに。


「…やってみればよか」

「ダメだ、あんたいい奴だ・・・・!殺させたくない…!」

「…それは今、君が此処を出て行って、倒れた挙げ句に死なれでもしたら。俺は今の君と同じ気持ちになるっちゃん」


飛龍は少年の前にゆっくり屈むと、まだ少し湿ったままの少年の頭を撫でてやる。


やけになって死なんでほしか・・・・・・・・・・・・・。君は今、自分の安全より俺の命の心配をした、いい子・・・やなかか」

「───いい子なんかじゃ、ない…」


泣きそうになる少年の頭をもう一度強めに撫で、飛龍は───かつての現役時代と同じように、歯を見せて満面の笑みを見せた。


「さ、風呂入ってきんしゃい。恩がどうとか、子供が考えんでよかけん」

「だが、でも…っ」

「体を温めて、話はそれからばい。これはおっちゃんのお節介や、な?」

「───お節介、か」


少年は小さく呟くと、残っていた白湯を飲み干し、肩にかかっていたタオルで口元を拭うと───飛龍の左手を掴んで引き寄せ、その甲に軽く口付けた。


「へぁ"!?きゅ、きゅ、急になんね…」


思わず頓狂な声を出した飛龍を他所に…口付けの落ちた手の甲に、一瞬だけ青く光る紋章が浮き出て、すぐに消えてしまった。


「お、お…今のは…?」

「…あんたが一歩も退かないから、俺もお節介・・・を返しただけ。今のは"所有印・・・"…魔族がつける、これは自分のものだという誇示の印。隷属の証としてつけることが多いが…俺の場合は違う。あんたに手を出した奴は殺す、という威嚇の証。俺があんたを守るという、契約印・・・とでも思ってくれ。俺があんたの近くにいる限り、あんたに残る俺の気配もある程度は誤魔化せるから…あの愚弟も、簡単にはあんたを狙えない」

「契約…ばってん、もう見えんごとなっとーっちゃけど…」

それ・・が見えるのは魔族だけだから、普通に生活する上で困ることはないはず。これ以上あんたの世話になるなら、俺もあんたに何か返さなくてはならない。すぐにできることは、これぐらいしか思いつかなかったが…この俺、イグニス・・・・サルヴァトーレ・・・・・・・が、全霊をかけてあんたを守り抜くことを誓おう」


一通りの説明をする少年…イグニスに、飛龍は思わず笑みを溢す。


「…何」

「ふふ、顔真っ赤やん」

「う…うるさいな、あんただっていつまで呆けてる!俺は…熱のせいだから関係ない」

「はいはい、そういうことにしといちゃるばーい」

「ううっ…」


イグニスが口ごもった時、風呂場から電子音が聞こえてきた。


「お、風呂沸いたみたいやね、入ってきんしゃい」

「…今更後悔したって遅いからな」

「そうやね~。あっ、着替え、新しか服やのうてじゃなくてごめんな」

「…別に、それはいい」


少し休んだからか、彼が僅かばかり元気になってきたことで、飛龍の応対も段々と余裕を含めたものになる。そんな飛龍の態度に、イグニスも反抗を諦め───契約印を結んだから安心したのもあるだろうが───飛龍の促しのままに風呂場へと向かった。


「…アッハッハ、ハァ…契約印、か。こげなおっちゃんに、あの子は…あの子は、真っ直ぐに向き合ってくれたんやなぁ」


飛龍の心に、僅かな影がさす。


あの子は俺を捨てたりしない・・・・・・・・・・・・・───


その思考に気がつくと、飛龍は自身のどす黒い感情に寒気を覚え、慌てて首を振る。何を考えてる、相手は13歳の子供だぞ。その純粋さを利用するな。自分に価値がある・・・・・・・・、なんて錯覚するな───


その時、びしょ濡れのままのイグニスの荷物が目に入った。引きずった影響かカバンの留め金が外れ、触らなくとも中身が見える開き方になっている。


その中身を見て───今度こそ、飛龍は息を飲んだ。


「───スケート靴・・・・・…?」


そこに見えたのは、使い古しているのか、既にボロボロのスケート靴。飛龍は…悪いと思いつつ、こっそりとそのスケート靴を引っ張り出した。


「(こんまま放っといたらカビるけん、乾かすだけやけん…)」


そのスケート靴は特に古いわけではなさそうなのに、何故かやはり相当ボロボロで、あちこちが破れかけている。しかし、靴はフィギュアスケート用のものではなく、アイスダンスに使われるブレードがやや短いものだという事にも気がついた。そしてそのサイズは…奇しくも、かつて飛龍が使っていたものと同じだった。


「あの子、アイスダンスの…?」

───『いんや、一応フィギュアスケートだよ。それ買った奴が、ブレードの違いに気付かなかったんだ』

「いっ!?わぁ"ーーーーっ!?」


唐突な第三者の声に、飛龍は心臓を吐き出す程に驚きの声をあげた。その声は…イグニスのスマホから聞こえてきているらしい。恐る恐るイグニスのカバンからスマホを引っ張り出すと、そこには黒と金の髪を後頭部で結わえた若者が映っていた。


「な、だ、誰………」

───『俺っちは魔界のプロスケーター、冷鵝レンオウ。呼びづらいだろうしレオでいいぜ、一応イグニスのコーチの真似事やってる。さっきあんたがスケート靴出した時に、画面に当たってロックが外れたんだろうさ。そんな大声出さなくたっていいじゃんよ』

「す、すまん…コソ泥んごた…」

───『分かってるって、あんたもスケーターだから気になったんだろ?アイスダンスとフィギュアのブレードの長さなんて、素人じゃすぐには気付かない』

「…そうやね、もう…俺は舞えんっちゃけど」


若者…冷鵝は飛龍の表情で大体の事情を察し、それ以上の追求はしない方が良さそうだと話題を切り替えた。


───『あれ?そういえば本人は何処行ったんだ?』

「さっきまで倒れて気を失っとったんよ、今は体を温めさせるために風呂に行かせとーばい」

───『うわあっぶな、この時期に外で転がってたら凍死すんだろ…ありがとな、あんた命の恩人だ』

「大したことしとらんばい、むしろ…あの子に気を遣わせてしもうた」


飛龍がわざと左手の甲を画面に向けると、冷鵝は目を丸くした。


───『え、その印…あいつ何かやった?なんか、こう…変なことされてないか?』

「それはなか、ただ…王子様んごと手の甲にキスされるとは思わんやったばい、こげなおっちゃんにな」

───『へぇ…あいつがそこまで心を開くなんて、珍しいこともあるもんだな。あんたがどこまでのことをやったかは分からんけどさ、あいつは一生その恩義を忘れないと思うぜ』

「恩義…一生って、大袈裟やなぁ」

───『大袈裟でもねえさ。イグニスは半鬼魔族って種族で、魔界の中でも、情に厚く義理堅いことで有名だったからな。その契約に込めた思いも、あんたに対する義理立ても、嘘のない心からのものだ。それだけは、俺っちからも保証する』

「…そうか。やったら、俺もあの子を信じんとな」


飛龍の言葉が終わるかどうかのタイミングで、カフェの出入口のドアが開いた。それは先程飛龍が電話していた相手、イフユだった。


「ひゃ~、車ば前付けしたとにびしょ濡ればい!」

「いっちゃん、わざわざごめんな」

「いやぁ構わんよ、で、その子は何処ね?」

「今は風呂に行かせとるっちゃん。まずは体を温めんといかん思うてな」

「なんとか動けたんやね、それは安心したばい。で…どげな子?」


イフユが途端に鼻の下を伸ばしたのを見て…飛龍は肺活量いっぱいの深いため息をつき、画面向こうの冷鵝は乾いた笑いを漏らした。その時、タイミングよくというべきか風呂場からイグニスが現れ、早足に飛龍達の元へと歩み寄ってきた。着替えとして飛龍の厚手の寝巻きを貸していたが、サイズは丁度いいようだった。


「おい、さっきの悲鳴は大丈夫だったのか?敵性反応ではなかったから保留したが…」


そのイグニスの姿を見て、イフユは雷に撃たれたかのような衝撃を受け、目を開けるだけ開いて両手で口元を覆っていた。


「…?誰だあんた」

「やだ、無理好き…宝石んごと美形…」

「えっ、は…はぁ?」

「存在が天才…この世の光…おお、出会えたことに感謝………」

「何、何…なんだあんた、おい拝むな!」


イグニスがドン引きする間に、飛龍の目からはハイライトが消え、冷鵝は声が出なくなる程に笑い転げていた。


「すまんなー、そいつはポンコツ薬剤師たい。若い男の子が大好きやけん、テンション狂っとーみたいやね」

───『ヒィーwwww宝石wwwwそりゃ半鬼魔族は、女は3m超の鬼女になるが、男は見目麗しい超絶美形・・・・・・・・・になるって種族だけどさぁwwww』

「それどういう遺伝子しとん?いや、まあそれはよかばってん…そろそろこれ片付けてくるばい。いっちゃん、その子に変なことするんやなかぞ!」

「当たり前ばい!Yesボーイ、Noタッチ、が信条たい!」


飛龍はここでやっと、バケツを抱えて店の奥に消えた。その処理を終えた後で───

薄暗い部屋の隅に置いていた、自身のスケート靴が入った箱を手にした。


「…長い間、すまんやった。もう一度…お前も氷上を舞いたかよな」


そうして再び表に戻ってきた飛龍の両手には、綺麗になったバケツと…少し古ぼけたスケート靴の箱。イグニスから改めて症状の聞き取りをしていたらしいイフユは…その箱の意味を即座に理解した。


「…ひーくん、それは…」

「俺にはもう使えんけん…イグニス君、よかったらこれ、使ってくれんね」


事情を知らないイグニスは言われるがまま箱を受け取り、蓋を開けると…驚きに目を見張った。


「…これ、スケート靴…」

「型は古かばってん、ブレードは最近取り替えとーし、まだ十分使えるはずばい。君のシューズ、ボロボロやったけんさ。怪我するよりよかて思うたんや」

「そうじゃない、これはあんたの…!」

「…俺は"終わった・・・・"選手や。事故で足ば潰されて、もう氷には乗れん。サイズ同じやろ?やったら…そのシューズに、君が新しい世界を見せてやってほしかばい」


飛龍の選手時代を知るイフユは、さすがに複雑な表情を浮かべていたが…冷鵝から助け船が出される。


───『イグニス、お前さんはスケーターの魂を託すって言われてるんだぜ?その人の夢を引き継ぐ覚悟はあるのかよ?それとも、そんなの無理ですって突っ返すのか?』

「…それは、不義理だ・・・・。俺に夢を託そうとしてくれているのなら…その思いは他の誰かじゃない、俺自身が継がなきゃいけないだろ。…あんたの魂、大切にする」

「そこまで重く考えんでよかよ、ただ…録画でよかけん、君が走る姿を見せてほしか。それが、俺との"契約・・"…なんてな」


飛龍が笑いながら言うと…イグニスは受け取ったスケート靴の箱を抱きしめ、改めて飛龍を真っ直ぐ見据えた。


「…そういえば、あんたの名前。聞いてなかった」

「ああ、そうやったね、色々バタついてすまんやったな。俺は筧飛龍…地に墜ちた『破天荒な氷龍』ばい」

「飛龍…分かった。…ありがとう」

「ええんよ…それよりイグニス君、行くあてがなかとなら、暫くうちにおりんしゃい。野宿なんて危なかことはせんで、うちからスケートリンク通ったらよか。『エ・スパーダ福岡』やったら、此処から歩いてもそげん距離なかやろう」

「え…いや、そこまで面倒をかけるわけには…」


さすがに…と迷うイグニスの背を、またも冷鵝が押す。


───『お言葉に甘えとけ、飛龍さんだっけ?には契約印までつけたんだろ?だったら近くにいた方が好都合だろうよ、契約印は対象との距離が近い程、警戒とカムフラージュの効力が増すんだから』

「それは、そうだが…」

───『よし、決まりだな!飛龍さん、イグニスのことよろしく頼むぜ』

「おう、任された。もう無茶はさせんけん、レオさん・・・・も安心してほしか」


飛龍が笑顔で答える横で…若干話についていけていないイフユが拗ねていた。


「えー、契約印って何~?おじさんもイグニス君の契約印欲しか~」

「…欲しがる程いいものじゃない。本当はない方がいいんだ」

「いっちゃん、大人げなかよ。薬はどげんなっとーと?」

「俺だけ蚊帳の外~…仕事はちゃんとやるったい、男の子のためやし…まだ熱のあるけん、風邪の初期症状に効く漢方と、胃腸薬出しとくばい。効きすぎるようやったら、ひーくんに言いんしゃいね。量の調整するけん…ヴァッ寒っ!」


雨で濡れたままだったイフユが身震いすると、飛龍は店のカウンターの方へと壁づたいに向かい…お湯を沸かし始めた。


「いっちゃんまで風邪ば引いたら笑えんばい。温かい飲み物出すけん、そこ座って待っとって」


飛龍の提案に、イグニスとイフユは店のテーブルに向かい合って座った。残念ながら画面上の冷鵝は飲み物を共にすることはできないが、イグニスがテーブルの上にスマホを立て掛けることで擬似的に同席させてやっていた。


「───お待たせ。はい、ホットストロベリーココア。もう遅いけん、温かい乳製品がよかやろう」

「よかね~、今日はビールやのうて、こいつで一杯やるとするばい!ワッハハ!」

「おい、おっさん!よかと?スマートにしとらな、イグニス君に幻滅さるーばい?」

「ハッ、嫌だ…『いいかい、私はこの街の超~できちゃうスーパーメディスンIFUYUなんだ。どうだい?この後目眩めくるめく夜の』」

「作り声きっしょ、カナワ君・・・・に告げ口しといちゃろ」

「なんでぇひどか~!またがられようもん叱られるじゃん~!」

───『ハハハ、仕事ができる奴はちょっと狂ってるぐらいが嫌味なくていいんだよ』


イフユ達と騒がしくしながら、飛龍もゆっくりと席に着くと、イグニスはココアを一口飲んだ。熱くはあったが…甘く、優しく、少しだけ酸っぱい味わいに、体の芯の冷えが溶けていくようだった。


「…あち」

「ありゃ、猫舌やった?いや、氷使いやったら熱すぎるとは苦手やったか…すまんな」

「いや、いい。それに…俺はこの味、好きだ」


イグニスは、やっと───安堵したような笑みを見せた。


「(───月明かりんごとみたいに、優しか笑み…やっぱり、綺麗か子やな)」


思わず飛龍が見惚れてしまっていると…唐突にイフユがイグニスを凝視したままボロボロと泣き出した。


「うわ、わ!?なんだあんた、いきなりどうしたんだ!」

「あぁ…俺…今日のために生きとってよかったって………」

「お、大袈裟か!なんなんだ、もう…」

───『ダハハハ、早速お前さんのファンになっちまったみたいだな!いいじゃねえか、好かれとけ!暫くこの街で過ごすなら、味方は多いに越したこたぁねえんだからよ』

「そうそう、変なことしようしたら俺がくらしとくけん殴っておくから

「ヘェン…ひーくんがえずか怖いよ~」


大雨の中、奇しくも集まったスケーター達によって始まった、小規模ではあるが賑やかなイグニスの"歓迎会"。ただし、イグニス本人の体調を悪化させては意味がないと、この後イグニスは薬を飲み、日付が変わる頃には布団に寝かしつけられた。それを見届けたイフユも、雨足が弱まった頃合いを見て、そろそろ帰ろうかと腰を上げる。


「───あの子、もう寝とー?」

「うん、安心して寝られとーごたって寝られてるみたいで、よかったばい」

「何日かしたら、きっと体調もよくなるやろう。それでも治らんやったら、また俺に電話しんしゃい。まあ…長引くなら、病院に連れて行くとが一番っちゃけど…銀髪に青目て、外国の子?」

「…多分、病院は難しか思う。あの子は…魔族らしいけんさ」


イフユは…少しだけ目を見開いたが、何かに納得したように何度か小さく頷く。


「ふむふむ…他の魔族の子もあげん美しかとかな?」

「おい…」

「冗談や、ひーくんば信じるし、あの子ば恐れたりもせん。職業柄、嘘をつくヤツは目ば見たら分かるっちゃん。さっき問診して分かった、あの子ん目は…深か悲しみに曇っとーばってん、真っ直ぐな目ばしとった。何か心に傷ば抱えとーとやろうけど、嘘をついとるヤツの目やなか。その傷も…ゆっくり治せたらよかね」

「…そうやね、何があったんか今すぐ聞き出すとは負担やろうけん、俺もあの子の事ば少しずつ知っていかなね。それに…あの子が魔族やと知れ渡ってしもうたら、酷かことば言うヤツも出てくるかもしれん。そげな悪意から、あの子ば守るとが…俺達大人の役割や」

「分かっとーよ。ひとまず、あの子が魔族やちゅうとは、俺達だけん秘密にしよう…お休み」


イフユが帰った後、ドアに取りつけてある鈴が乾いた音を立てた余韻を聞きながら…飛龍はひとり、表情を険しくした。


「(あの子は俺を守るて言いよったけど…俺も、あの子を守らないかん。せめて、あの子が成人するまでは…俺が此処で面倒を見る。それまで、何が来ようと…俺は負けんばい)」


その頃には雨はすっかり上がり、外で吹き荒んでいた風の音も聞こえなくなっていた。

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