[Episode.5-博多の一等星•A]


───早朝のスケートリンク『エ・スパーダ福岡』で、たったひとり氷の上を滑走する青年。ブレードが氷を削る音だけが静かに響いていたが…その音が重く、しかし高くなった一瞬───彼の体は宙へと跳び上がり、体を締めて3回転した後に再び力強く氷を踏みしめた。


3回転Sサルコウを着氷した彼の名は、イグニス・サルヴァトーレ。

オールバックに流した銀髪と色素の薄い肌に、空のような青さの瞳が凛と輝く───此処福岡では名の知れた、『氷上の辻斬りプリンス』その人だ。



-7月11日/福岡市博多区-




イグニスが一通りの練習を終え、リンク脇でその様子を録画していたタブレット端末に近寄ると…


───『ダメだダメだダメだダメだーッ、25点ッ!!』

「何ィ?」


唐突なダメ出しと共に、タブレットの録画画面のサブウィンドウにコーナーワイプが展開される。そこには、金のメッシュが入った黒髪をうなじでひとつにまとめた青年の姿が写っていた。


「25点って…どうした冷鵝レンオウ魔界のプロスケーター・・・・・・・・・・がそれほどの加点をするとは珍しいな」

───『相変わらずお前さん冗談が下手だな、100点満点中の25点だよ!』


青年…冷鵝は画面向こうから、容赦なくダメ出しを続ける。


───『まず助走も踏み切りも甘い!勢いが足りてないから毎回毎回DG回転不足取られるギリギリのジャンプになるんだよ!あと着氷の時にダァンって音立てるな!そんな着氷繰り返してたら間違いなく膝がぶっ壊れる!まだ難易度の低いSサルコウでこんな出来じゃ、Aアクセルは勿論LoルッツFフリップなんか3回転降りられねえ・・・・・・ぞ!』

「ぐ…」


フィギュアスケートのジャンプは、着氷まで完璧にこなして初めて完了となる。そのため、ジャンプは"跳ぶ"ではなく"降りる"までを技として考えなくてはならない。いくら綺麗に跳び上がれていても、着氷時に回転が足りていなかったり、もちろんバランスを崩したり転倒などすれば大減点の対象になる。ジャンプはフィギュアスケートの花形でもあり、同時に博打の塊でもあるのだ。


「小言は結構だが、俺は金メダリストになろうなんて思ってもいない。そもそも趣味・・でやってたような奴が大会に出ようなどと、冷やかしもいいところだろう」

───『まーたそういうこと言う、コーチ・・・の言うことはちゃんと聞かねえと怪我の元だぞ?それに、飛龍さん・・・・がどれだけお前さんに期待してると思ってるんだ?お前さんが大会に出られるようにって、バッジテスト受けさせて、わざわざ個人クラブの登録までしてくれてるんだぜ?お前さんが今使ってるスケートシューズだって…』

「ああ分かった説教はもういい、最後に通しできょくかけを───」


イグニスが演技の通し練習のため、タブレットで音楽を選ぼうとしていると…


───「おいきさんおまえ!今日こそ俺と勝負せれしろ!」

「………最悪だ」


突如としてイグニスに悪態をつきながら現れたのは、耳あたりまで伸びた茶髪…を染めて相当時間が経ったのか、生え際の黒髪と見事なツートンカラーになっている青年だった。青年は有無を言わさず氷の上を滑走してイグニスに接近し…その姿を見たイグニスは諦めたようにタブレットをリンク脇のボードに戻し、長いため息をついた。


「スケートリンクは共用とはいえ、俺の利用時間を食い潰す気か?貴様は早朝からわざわざ、俺の練習の邪魔をしに来たと?」

「勝負せれしろって言いよーやろう言ってるだろう!」

「断る、面倒くさい」

「!!!!」


イグニスの無感情な応答に、青年はショックを受けたように固まっていたが…そんな2人の元へリンク外から小走りに近づいてくる人影があった。鎖骨にかかるぐらい伸びた茶髪を肩のあたりで緩めに結った中年の男は、2人に追いつくと…イグニスに絡んでいた青年に拳骨を落とした。


───「こらカナワ、毎回言いよーやろ!イグニス君に絡むなや」

「いってぇ!しゃーしかうるせえよバカ親父・・・・!こいつ、あの・・飛龍さんの世話になっとるくせに本気を出さん・・・・・・…それが一番腹立つっちゃん!」

「お前ん態度に呆れられて相手にされんだけや、そげんこつ言いよーけん同世代の友達ができんっちゃろ」

「ううっ…」


まさかの父親にまで釘を刺され、青年…カナワはイグニスに噛みつくのをやめ、肩を落とす。カナワの父親はそんな息子の様子を呆れたように一瞥してから、改めてイグニスに声をかける。


「すまんやったなイグニス君、今日はちょっと早めに来すぎてしもうたんよ。足の具合はどうね?テーピング・・・・・は足りとーか?」

「大丈夫だ、そこまで消費しなくなったから余裕はある。それより、そいつの手綱はしっかり握っていてくれ。結局、最後の曲かけをする時間がなくなった。今日はこのまま整氷だけして帰る」

「ごめんて~」

「時間がなくなったのはあんたのせいじゃない。薬局・・にはまた寄らせてもらう」


イグニスの言葉に、カナワの父親は半泣きの表情を急に吹き飛ばし、何故か満面の笑みを見せる。


「おう、いつでも来んしゃい!歓迎するけんね!」


そんな父親の様子に、今度は息子のカナワが呆れ返る番だった。




───同時刻・博多駅付近。


7月1日から15日にかけて半月にも及ぶ期間で行われる、年に一度の祭り、博多祇園山笠。その最終日となる15日に行われる追い山笠に向けて、法被に締め込み姿の男達が大きな山笠をき、威勢のいい掛け声と共に街を練り歩いている。

その様子を、一際高い場所から見下ろす"青年"がひとり。


「やっぱ山笠のあるけん博多たい、やなぁ。この活気をなくして、初夏の博多は語れんばい」


博多駅、その屋上・・で───愉快そうに笑う"青年"の、左右に垂らした前髪と、伸ばして結わえた後ろ髪が初夏の風に揺られて靡いた。


男達の掛け声に混ざって聞こえる、交通誘導の笛の音。メガホンで繰り返される案内の声。駅からは新幹線ホームの発着ベル。在来線発着のアナウンス。少し遠くでは、救急車やパトカーのサイレン。それらをかき混ぜる風の音。そして───

風に乗って聞こえてきた、若者達が言い争う怒声。


「…っかぁ~あンの馬鹿共…朝っぱらから、ほんなこつほんとうに大概にせなぁいい加減にしないとくらすぞしばくぞ


"青年"が苦々しく呟いたと同時に…肩の無線・・・・から声が響いた。


───『阿万里アマリ!今どこにおるん?』

「なんね菱川ヒシカワ、今は博多駅の上から"朝山"を見守っとー所ばい。緊急の用件?」

───『この無線ば使うんやったら緊急の用件に決まっとーやろ、ちゅーか博多駅おるんならちょうどよか』

「はぁん?どげな意味と?」


阿万里と呼ばれた男が気だるそうに聞いた時、再び若者の怒号が聞こえてきた。


───『喧嘩の通報。そこからでも見えるぐらい近いけん、応援に来て対処に当たってくれんね』

「あぁ、そげんこつそういう事…多分その喧嘩の声、俺にも聞こえとーよ。了解、向かうわ」


そう答えると阿万里は無線を切って両手を広げ、博多駅の屋上から前のめりに落ち・・・・・・・───


そのまま背中から薄紫の翼を展開し、空を滑空して現場に向かった。


阿万里…その真名はアンスール・・・・・ベルフェ・・・・。神族のうちでも珍しい、"魔界に通じる神族"でもあった。


そんな阿万里を、見上げた子供が指差して叫んだ。


───「あ!烏天狗・・・!」

───「ほんとや!おーい!」


見てくれは人間から翼が生えた程度で、本来の烏天狗とは似ても似つかないが…薄紫の翼に加え、濃い紫の髪色と褐色肌の組み合わせが宵闇に溶け込みやすいという意味では遠くはないのかもしれない。今は時間こそ早朝で、阿万里の姿を視認するのは難くないが、この街にとってこの阿万里の姿ももう慣れたもので、一種の風物詩扱いにまでなっている。阿万里もまたそれを悪くないと思っており、自らを見上げている子供達に余裕の表情で手を振ってみせた。


「ふふん、人気者は辛かねぇ」


そして報告のあった現場に降り立つと…予想通り、数人の若者達が殴りあっており───先に現場に来て状況を鎮圧しようとしていた菱川の姿もあった。

…何故か、若者に殴られて悦んでいるが。


「うわっ…何しよーと菱川…」

「もっと!ん"も"っ"と"ぉ"!…あっ阿万里」


初見の絵面に思わず引いていた阿万里だが、我に返ると改めて若者達を睨んだ。


「お前らぁ!大概にせれやぁ!こん山笠ん期間中に、喧嘩なんて何ば考えとーったい!」

しゃあしかうるせえよお巡りが!」


青筋を浮かべて反発する若者達を見て、阿万里の勘が告げた。


「(…興奮しすぎとーな、普通じゃなか・・・・・・)」


その時───顔面を殴られ鼻血を垂らしていた菱川が、若者達に次々と手錠をかけた。


「…は?何ばするったいお巡り!」

「何って…公務執行妨害で現行犯逮捕ばってん?僕の事ばくらしたっちゃろ殴っただろう?」


菱川はニヤリと笑いながら、片手で鼻血を拭った。


「お巡りィ!きさん謀ったなァ!」

「よかパンチやった。ばってん、お巡りくらしたらいけんぞ殴ったらダメだぞ

「いやお巡りじゃなくてもくらしたらいかんやろ…このドM」


阿万里は呆れつつも、菱川が手錠をかけた若者達を応援のパトカーへと連れて行った。そして…既に朝焼けを過ぎ日の昇った空を見上げ、力ないため息をついた。


「(───こいつらの背後に何かがおるとしたら厄介や、多禄タロクの奴に相談せんといかんか)」




───数十分後・博多区内カフェ&バー『Dragon』。


出入口の洋風なドアを開けると、人の出入りを知らせるベルが乾いた音を立てて鳴り響く。その音に…カウンターにいた中年の男が、イグニスの帰り・・を察した。男はレンガ造りの壁とタイル張りの床というレトロな店内を、片足を庇うような・・・・・・・・ゆっくりとした足取りで、イグニスの方へと柔和に笑みながら歩み寄る。


「お帰り、イグニス。今日はどげんやった?」

「…大形オオガタ親子に絡まれて最後の曲かけ練習ができなかった」

「あちゃー…カナワ君だけやなくイフユ・・・の奴まで…大丈夫やったか?なんもされとらんか?あいつ昔から若い男の子・・・・・見たら節操ないんやけん…」

「問題ない、適当にあしらった」


男はやれやれと肩を落とし、入口横の洗面台で帰宅後の手洗いをするイグニスの元へフェイスタオルを持ってきてやった。


「いい、飛龍ヒリュウ。いつも言っているだろう、そのぐらい自分で取りに行ける」

「俺もできるだけ、歩くような癖をつけとかないかん。歩行訓練の代わりやけん気にせんでよか」

「…無理はするな、重いものの運搬は俺がやるから」

「今日はなかけん大丈夫ばい。落ち着いたらお風呂できとるけん入っといで、汗かいたやろ」

「…分かった、朝早くから苦労をかける」

「なんね改まって。そげんこと気にせんでよか、風邪ば引いたら大変やけんさ。上がったら、いつもの・・・・用意しとくけんね」


イグニスに優しく接する男…カケイ飛龍ヒリュウ。波来祖で中華料理店を営む筧飛燕ヒエンの2歳上の兄で、その娘である美鈴ミスズから見て叔父に当たる。

彼はこの店の店長であり…フィギュアスケート選手・・・・・・・・・・・でもある。若い頃、飛龍はこの博多の"一等星"だった。破天荒かつ迫力に満ちた演技で人気を博した彼は───大事故で足を潰され、その輝かしい未来を閉ざされた。時間をかけて治療し、今は奇跡的に歩行程度はできるものの…当然、二度と氷に乗ることはできなくなってしまった悲運の男だ。


風呂場へ向かったイグニスを見送ると…レジカウンターに置いていた飛龍のスマホが鳴り響いた。着信主は、先程イグニスに絡んでいたカナワの父親・大形イフユ。ただし…着信画面に表示されているのは『大形薬局・・・・』の文字だった。


「なんね朝から珍しか…もしもし?」

───『おお、朝からすまん。さっきイグニス君に聞き損ねたっちゃけど、お前の薬・・・・は足りとーか?少のうなっとーなら言えや?』

「俺の方は大丈夫や、あの子ん方が心配ばい…夜警・・のせいで、生傷の絶えんごと…」

───『まあ、それはイグニス君自身が仕事・・や言っとーけん…俺らが口出しできんよな。お前が辞めさせたい思う気持ちも、親心としては分からのうはなかばってん分からなくはないんだけどお前のため・・・・・でもあるけんね』

「気にせんでよかって言いよーっちゃけど言っているんだけど…全部分かって、俺は魔族の・・・あの子を居候させとるんやけん」


そう、イグニスは魔族・・である。しかも、少々厄介な事情・・・・・・・も抱えている。

それでも───大雨の降っていたあの日、びしょ濡れで『Dragon』を訪れたイグニスは…かつての事故で全てを失った自分と同じ、この世に絶望したような暗い目をしていたから。イグニスが自らを魔族だと告白しても、共にいると危険だ・・・と警告しても、飛龍はイグニスを放ってはおけなかった。


「…3年前と比べて、あの子の表情もちかっぱずいぶん明るうなった。これでよか、子供・・は幸せに育ってほしかけんね」

───『ハハッ、この3年はお前と電話したらすぐ親トーク・・・・になっとーな。あの子の影響で、お前も…昔んごとみたいによう笑うようになってくれて、俺も嬉しかよ』


もし飛龍に息子がいたら、ちょうど今のイグニスと同じぐらいの年齢になるだろう。イフユの息子であるカナワは18歳…イグニスより2歳年上だが、こうして親バカトークができるようになるとは夢にも思っていなかった。

イフユは───飛龍のライバルだった・・・・・・・・・・からこそ、怪我でスケーターの道を断たれ荒んでいた飛龍を長年見てきたし、イグニスと出会って明るさを取り戻してきた飛龍の様子を誰より喜んでいた。息子のカナワが自身の背を追うようにフィギュアスケートを始めても、それを飛龍に言うことすら躊躇われていたのに…今はお互いの"息子"の成長を自慢し合えるようにまでなった。好きなことを好きなだけ、昔の仲間と語り合える。こんなに幸せなことがあるだろうか、とイフユは感極まりそうだった。


───そうしてイフユと親バカトークに花を咲かせていたが、暫くして風呂場の方から音がしたのを聞いた飛龍は、会話の区切りを見計らってイフユに告げる。


「すまん、そろそろ昼の仕込みに入るけん…また電話してくれや」

───『おお、俺こそ忙しかとに忙しいのに朝からすまん。また話そうや、お疲れさん』


そして電話を切った飛龍は、手早くカウンターで"用意"を始める。

マグカップにココアパウダーと粉糖を入れ、少しだけストロベリーパウダーを足して混ぜる。1杯分の牛乳を小鍋で沸かし、マグカップに注ぐと…いつもの・・・・1杯、ホットストロベリーココアの完成だ。体が芯から冷えては事故の元になるからと、早朝のリンク帰りのイグニスに、夏であっても飛龍が毎朝用意してやっているルーティンのようなものだった。そこにちょうど、ジャージに着替えたイグニスがバスタオルで髪を拭きながら姿を見せた。


「お疲れ。いつものできとーけん、飲みんしゃい」

「ああ、感謝する」


飛龍に促されるままカウンター席に座り、用意されていたココアを一口飲むと…背が高く普段から険しい顔ばかりのイグニスも、ホッとしたようにやっと16歳…年相応の表情を覗かせる。その表情を毎朝見るのが、飛龍の癒し…などと本人に言うと怒られるので、密やかに楽しみにしている。そして…終始穏やかに微笑んでいた飛龍が、悪戯っぽい笑みへと表情を変える。


「…で、いつものやつ・・・・・・やね」

「………分かっている」


イグニスが再び表情を曇らせ、諦めたようにカウンターに置いたのは…今朝のイグニスのスケーティングを録画したタブレット端末。イグニスがスケートをやっていると知るや、飛龍は喜んで全面的にそのバックアップを(半ば一方的に)する事を決め、その代わりにスケートの様子を見せてほしいとイグニスに"契約"を持ちかけていた。


タブレットの録画を黙って一頻り見た飛龍は…小さくふむ、と唸る。


レオさん・・・・は、なんて?」

「…助走と踏み切りが甘い、勢いがないからダウングレードすれすれ。あとは…着氷に勢いをつけすぎ、膝を壊しそう…だと」

「ふーん、俺とほぼ同意見ばい。魔界からの中継・・・・・・・でもよう見とーね、さすが現役のプロや」


イグニスの演技について、やはりスケーターとして通じ合うところがあったのか、飛龍と冷鵝はタブレット越しに話し合うことも増えてきた。当然、魔界にいる冷鵝も魔族ではあるのだが…飛龍は構わず、冷鵝を「レオさん」と呼んで親しくしている。ちなみにこの呼び方は、冷鵝(レンオウ)が呼びづらいからと本人が魔界で愛称として推奨している「レオ」から来ている。すると…


───『どうも~飛龍さん、そっち・・・も夜明けた?今朝のイグニスのスケーティングどうよ』


その冷鵝が元気よく飛龍に呼びかけながら、再び画面端のコーナーワイプに映った。


「そうやな…指摘点はレオさんとほぼほぼ同じやね。そのポイントは修正せないかんやろうし、まだまだ荒削りっちゃけど…ひとまず3回転は降りられとるし、上出来ばい」

───『もぉ~飛龍さんってば甘いなぁ、俺っち・・・がますます鬼コーチみたいじゃん』

「レオさんが厳しゅうするなら俺まで厳しゅう言わんでよかやんか、飴と鞭ばい。それに…」


飛龍は言いながらタブレットをカウンターに置き、イグニスの方へと軽く押しやる。


「イグニスには、スケートをただの移動手段の延長と思わんで、まずは楽しんでほしか。"好き"ば貫きゃあ、技術は後から必ずついてくるけん」

───『うわぁ、天才型の思考だな~…何年練習しても芽が出ないスケーターなんて、この世にごまんといるんだぜ?』

「イグニスにはセンスがあったんやろう。それをレオくんが育てて、ここまで来とんやなかとか来てるんじゃない?。そげん才能を…怪我やら、俺んごとみたく事故で潰されたくはなか。時間はかかっても、ゆっくり仕上げていけばよかよ」

───『…あーあ、飛龍さんにはお見通しかぁ。イグニス、飛龍さんの優しさに感謝しろよな~』


それだけ言うと、冷鵝はワイプから消え…それを見届けてからイグニスもタブレットの画面を落とした。


「…相変わらず騒がしいコーチだ」

「そげんこと言わんの、よかひとやんか」

「人なぁ…」

「───そうや、明日は店も休みやし…俺も一緒にリンク行こか」

「えっ…」


思わず、イグニスは素の声で面食らった。前述の通り、飛龍は天才的スケーターでありながら、事故でそのスケーター人生を断たれた身だ。嫌なことを思い出すだろうに、辛い気持ちになるだろうに、それでもリンクに行こうなんて、どういう風の吹き回しなのか…


「ん?やっぱ保護者同伴んごたって嫌か?」

「そうじゃな…そうではない、飛龍は…」

「俺の事やったら気にせんでよか、一度イグニスの走りを生で見たいと思うただけばい」

「………それ、は」

「大丈夫、もう振り切っとる。やけん、君に俺のシューズ・・・・・・を託したっちゃん」


イグニスが今使っているのは、まさに飛龍が現役時代に使っていたスケートシューズ。飛龍は…事故に遭い、夢破れて、絶望して、何もかも忘れたくなっても…このシューズだけは捨てられなかった。二度と氷の上に乗れないと分かっていても、何かに取り憑かれたように、シューズの手入れだけは何年も欠かさなかった。そのためか、型は古いがしっかり手入れを続けられていたシューズは、イグニスの足のサイズにも偶然ぴったりと合い、飛龍から夢ごとシューズを受け取った形になっていた。だからこそ…イグニスはスケートを"趣味"とは言いつつも、その枠に収まらない程には技を磨き、同年代のスケーターと肩を並べられるレベルにまで実力を高めていた───もっとも、湖に氷の張るような寒冷地で幼少期を過ごしており、その際に冷鵝のスケート英才教育を受けていたからこその実力だが。


「…分かった、あんたが構わないのなら、俺にそれを否定する資格はない」

「いやいや、イグニスが嫌ならやめるっちゃけど…」

「そういう意味ではない、あんたがリンクに行くと言うなら、俺もその覚悟・・を尊重するべきだ。このシューズを受け取った以上、俺も可能な限り期待に沿わなくてはな」

「そんな難しゅう考えんでよかよ…それより、昼間にリンクの時間取れるやろうか」

「取るのは取れるだろうが…」


イグニスは言葉を濁す。イグニスが飛龍の発言で懸念したのは、飛龍自身の心持ちだけではない。そもそも、イグニスが早朝にリンクを使っているのは───


「昼間はきっと、少なからず報道陣がいる・・・・・・…あんたがおもちゃにされないか、少し不安だ」


飛龍は…暫く呆けた後、思わず笑みを溢した。


「アッハッハッハ!優しかねぇイグニスは、そげんこと考えとったと?この~!」

「う、わっゲホゲホッ、おい撫でるな、ココアが溢れる!髪もまだ乾ききってないのに…」

「ありがとうな」


飛龍の言葉に…イグニスもそれ以上の反論を諦め、長いため息をついた。


「…別に。そろそろ今日の仕込み始めないと、開店に間に合わないんじゃないのか」

「まだココア残っとーとやろ、ゆっくり飲めばよかよ、時間に余裕はあるんやけん」


穏やかな時間の中、カフェの外では日が昇りきり、夏を告げる蝉の鳴き声が聞こえ始めていた。

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