第7話「女傑、知と血に舞うのこと」

 闇夜を走る。

 と」く疾く、せる。

 その一報を聞いた瞬間に、シャンホアは後宮こうきゅうを飛び出していた。

 田舎育いなかそだちなので毎日が肉体労働、体力にも自信はあるし健脚だ。

 だが、走っても走っても、月と星だけの暗い道は閑散としている。エンみやこともなれば、眠らない街とさえ言われた歓楽街がそこかしこに広がっているが……今はどこも、墓所ぼしょのように静まり返っていた。


「どうして……太后様たいこうさま、メイラン様! いったいなにがあったんですか!」


 突然、ごくごく少数の側近を連れて、メイランが都を出た。

 その報告が届いたのは、先程の酒宴しゅえんの場で、すで数刻程すうこくほど時間が経過している。

 もうすぐ日付が変わるが、山一つへだてたすぐ向こうへ、西方諸国の条約軍は迫っていた。そしてどうやら、そちらの方角へとメイランの牛車は消えたという。

 先程から胸騒ぎが収まらない。

 肺腑はいふを出入りする呼気が熱いのに、悪寒おかんが止まらないのだ。


「ド田舎娘っ! こっちだ、俺につかまれ!」


 不意に背後で声がして、言葉を夜風が持ち去る。

 その時にはもう、シャンホアは馬上の腕に抱え上げられていた。

 まるで荷物のように小脇に抱えてくれたのは、フェイルである。

 彼はそのまま愛馬を駆って、あっという間に都の外へと飛び出した。

 もはや門を守る衛兵もなく、振り返ればあっという間に都は闇に消えた。


「ちょ、ちょっと! どこ掴んでるのさ!」

「ん? どこなんだ? 暗くてよく見えないんだ、それより喋ってると舌を噛むぞ!」

「手! 手が胸に!」

「そんなもの、どこにあるんだ。ああ、このささやかな膨らみか」


 シャンホアにとって、自分の幼児体型は大きな劣等感だった。

 だが、あまりにもあっけらかんと語るフェイルに言葉も出ない。怒りを通り越して、あきれてしまった。

 フェイルはやはり、少し妙な男だった。

 幼い頃より後宮で、女として育てられたからかもしれない。

 そんなフェイルだが、どこか憎めぬ愛嬌があって、颯爽さっそうとしてて小気味こぎみよい。


「お前、凄いな。さっきは俺たち、一瞬思考が凍っちまったぜ」

「な、なにが! だって、考えるまでもないでしょ!」

「そこだよ、そこ。止まった頭を無理矢理むりやり回して、俺たちは瞬時に考えをめぐらせた。……その時にはもう、お前はいなかった。駆け出していたんだよ」

「そ、そりゃ……考えもなく飛び出してきたけど」


 フェイルが「ハッ!」と気迫を叫んで、駿馬しゅんめはさらに加速してゆく。

 どうにか這い上がって、シャンホアはフェイルの後ろにまたがった。瞬間、猛烈な風で引き剥がされそうになる。思わず抱きついた背中は、とても広くて温かかった。


「俺たちが考えて足を止めてた時には、お前はもう走ってた……なにを感じた?」

「助けなきゃ、って」

「どうやって?」

「それ、今考えてるの! でも、考えながらでも走れる。ボクにいい知恵は浮かばないけど、駆けつけるだけならできるもの」

「そういうとこだぜ? おもしれえ女だ」


 それから、二人の間に会話は途絶えた。

 ただ、言葉がいらなくなっただけだとシャンホアは感じた。そして、自分で言ったように頭を働かせてみる。だが、なにもかもがわからない。

 何故なぜ、太后ともあろうものが少数で?

 皇帝の仇討あだうちという訳でもなさそうだ。

 昼に少し言葉を交わしたが、メイランには聡明そうめいさと慎重さが感じられた。

 皇帝のきさきをやってる人間なのだ。

 だからこそ、わからない。

 同じように考え込んでても、フェイルは真っ直ぐ前だけを見て闇を切り裂いていた。

 そして、東の彼方に光が走る。


「フェイル、夜明けだよっ!」

「クソッ、山を超えちまう! あのおばさん、どこまで行きやがったんだ!」


 稜線りょうせんを切り取る小さな光は、すぐに線を結んで星空を塗り替えてゆく。

 払暁ふつぎょうの光が茜色あかねいろに染まる中、二人を乗せた馬は街道を下り坂へと折り返そうとしていた。そして、目の前には広大な平原が広がる。

 朝靄あさもやに煙る中、徐々にその白い闇が払われていった。

 そして、絶句。

 シャンホアは言葉も呼吸も忘れてしまった。


「な、なにあれ」

「ん? ああ、敵だな」

「大軍勢じゃない!」

「条約軍の前衛部隊、ほんの一部だぜ?」

「嘘でしょ」

「だったらどれほどいいかってね」


 無数の青がひしめいていた。

 それは、軍服の色で、旗の色だった。

 西方諸国連合の旗がひるがえる中に、無数の兵士たちが動いている。ここから見るとまるで、ありの巣を俯瞰ふかんしているような光景だった。

 だが、実際にはその一人一人が銃を持つ屈強な戦士なのである。

 ラッパの鳴る音がかすかに聴こえて、そこかしこでかまを焚く煙が上がっていた。

 そして、さらに驚きの光景がシャンホアの眠気を蒸発させる。


「あっ、太后様!」

「チィ! なにやってんだおばさん!」


 手綱たずなを引き絞って、フェイルが馬を止める。

 大軍が敷き詰められた荒野の片隅に、みやびなる色彩が小さく点を穿うがっていた。

 シャンホアは野で育った目を凝らす。

 焦点が的確に、戦場に咲いた花一輪を伝えてきた。


「あ……太后様、踊ってる」

「ああ? 見えるのか、お前――」

「あそこ見て! 敷物の上! 兵隊たちのド真ん中!」


 フェイルも目を細めて身を乗り出し、そして息をんだ。

 その気配を伝えてくる背中から、シャンホアははじかれるように飛び降りる。

 そう、殺気立つ兵士たちの中に、小さく空白地があった。

 その空間にだけ、音楽が満ちて一人の貴人きじんが舞っていた。

 風雅に、優雅に、そして威風堂々いふうどうどうと。

 女官たちの楽器が歌う中で、メイランが踊る。

 ならぬの力が、数万もの軍勢を押し留めていた。


「……どういうクソ度胸だよ、あれは。って、そういうことかよ」

「え? えっ!? なに、あれはどうして」

兵法ひょうほうの邪道、外法のたぐいだぜありゃ。頭がいい奴にしか通用しねえ。……でも、あの男なら」


 フェイルが言うには、この強烈な違和感、異空間とさえ言える瞬間の連続が策略だという。武装した焔の兵士が立ちはだかるなら、たちどころに暴力に飲み込まれるだろう。

 しかし、意図いとせぬ存在……例えば歓迎の舞踊が目に入ればどうだろうか?

 結果は同じかもしれない。

 だが、妙だと思うのが人間である。

 優れたしょうならば、なんらかの罠の可能性を案じる訳だ。

 その実、メイランにそうした裏はないように見える。つまり、はったりだ。ただ、我が身一つで敵将の警戒心をあおっているのだ。敵が知恵者であることを、まるで知っているような蛮勇ばんゆうだった。

 そして、その瞬間が訪れる。


「なに? なんだか……あの人だけ、服が綺麗。なんか、豪華で、凄く似合ってない」


 妙な男がメイランたちの前に歩み出た。

 そう、とても奇妙な軍人だった。周囲の兵士たちとは少し違って、随分と身なりのよい軍服だ。そして、その華やかさが全く似合っていない。遠目に見ても、表情すら見えない距離から違和感が感じられるくらいだ。

 その男が、軍帽ぐんぼうを脱いで慇懃いんぎんこうべを垂れる。

 軍勢がざわめき、赤髪の兵士が飛び出してきた、その時だった。

 音楽が途切れて舞が終わり、静かにメイランが男に歩み寄る。

 手には、ふところから取り出した小刀こがたながあった。


「ッ! それで頭を潰す……聖騎士せいきしアルトを殺そうってのかよ!」


 突然、シャンホアは「見るな!」と抱き寄せられた。

 そしてフェイルの腕の中で銃声を聴く。

 見えなかったが、はっきりと脳裏に光景が焼き付いた。赤い髪の女が、アルトと呼ばれた男をかばって発砲したのだ。

 条約軍にも女の兵士がいるのか、などとシャンホアは思った。

 視界が再び開かれた時にはもう、異質なまでの典雅てんがな空気は霧散していた。女官たちも次々とを刃を抜くが、バタバタと撃たれて死んでゆく。


「……太后様、が……」

「おい、さっさと乗れ。都に戻るぞ」

「だって、メイラン様が……せめて、連れて帰らなきゃ……とむらえない」

「それはアルトがやってくれるぜ。そういう男だ……貴重な時間が稼げたって訳さ」

「っ! なんでそんなに平気でいられ――、――!?」


 フェイルは平静をよそおい落ち着いていた。

 そう見えたが、握る手綱に赤がにじんでいる。血の滴るこぶしは震えていた。

 フェイルとて、悔しいのだ。

 悲しいまでの高潔さで、我が身を犠牲にときを稼いだ人……国母と呼ばれた女性は今、我が子と思える全てのためにその身を投げ出したのだ。


「……戻るぞ、田舎娘。連中、半日は進めないだろうさ。アルトは用心深くて……優しい男だからな」

「アルトっていうのが、あの」

「聖騎士アルト・ベリューン。西方諸国連合で数少ない、教会の加護を得た聖騎士だ。……焔にとって、五十万の軍勢を一つに束ねる最強の敵さ」


 呆然ぼうぜんとするシャンホアを、そっと抱えあげてフェイルは自分の前に座らせる。

 しかし、その時見た……まばたきすら忘れたシャンホアの瞳にそれは映った。

 涙で歪む空へと、小さな光が昇ってゆく。

 それは、大勢の兵をざわめかせながら……九つの尾を引き東の空へと飛び去ってゆくのだった。

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