第3話「太后来たりて、覚悟極まるのこと」
その声はか細く、ともすれば消えそうな程に小さかった。
それでもしっかりと、周囲の暗い空気を震わせる。
「……降伏すれば、もしかしたら……あ、あのっ、わたし……わたしを、差し出せば」
誰もがその少女を振り返った。
部屋の
「わたしが、男だったら……でも、降伏すれば、民は、助かるんじゃ」
シャンホアは
幼いミーリンに、それを言わせているのはこの場の全員である。
国難、滅亡の危機ではある。
国と民とを守るは、
だが、そのための犠牲をよしとするなら、シャンホアは納得できない。
そしてそれは、この場にいる全員がそのようだった。
シャンホアはゆっくりとミーリンに歩み寄り、屈んで目線を合わせる。
「
「シャンホア、わたし……大丈夫、だよ? 戦えないけど、戦いを止められる」
「そうだね、でも……ボクは反対。っていうか、駄目!」
「えっ? ……で、でも。わたし、女に生まれちゃったから」
そのまなざしに妙な感情が彩られていたが、シャンホアは気付けない。今のシャンホアにとって大事なのは、ミーリンとこれからの
最初は、姉のシャンリンのことしか考えてなかった。
誘拐上等、お尋ね者になってでも姉を救うつもりだった。
しかし、それは今……この国を救うことと同義になりつつある。
「ミーリン、よく聞いてね? 今は、男だ女だの話はしてないんだよ?」
「……いつも、みんな言ってた。わたしが、男に産まれてればって」
「みんなって、誰? ね、周りを見て……そんなこと言う人なんて、もういないんじゃない? きっと逃げちゃったよ」
「あ――」
不安げなミーリンに、皆が静かに頷き
フェイルは
皇帝がもうけた正妻との子、ミーリン……彼女が男であれば、まだ焔の希望はかすかに輝いただろう。幼くとも、
多勢に無勢でも、なんとか戦争の形にだけはなると思われた。
だが、現実はそうはならなかった。
だから、兵士たちや将軍は逃げ去り、
そのことをミーリンは、自分のせいだと思っているのだ。
そして、不意に
「ならぬ。ならぬぞよ、ミーリン! そなたは皇帝陛下の血を引く子、愚かな選択は許されぬ!」
一人の女声が、しずしずと室内にやってきた。
その装いはきらびやかで、まるで宮廷での祝宴を思わせるような豪華さだ。そして、この場の
「
「かあさま? わ、わたし」
「チッ、ここにきて厄介ババァの登場かよ」
舌打ちと悪態はフェイルだ。
だが、
目に見えぬ圧倒的な存在感に、無意識にシャンホアは道を譲った。
太后、それは皇帝の
つまり、彼女がミーリンの実母ということになる。
姉シャンリンが、静かに皆を代表するように挨拶を口にした。
「ご無沙汰しております、メイラン様。このような姿でのお出迎え、どうかお許しを」
「あら、まだ生きてたのかや? シャンリン」
「この度は皇帝陛下が」
「
張り詰めた空気は、尽く尖っていた。
まるで、見えない鎧を着込んで威圧しているようである。
そんな雰囲気で、メイランはふとシャンホアへと視線を落とした。
周囲の寵姫たちと違って、長旅で薄汚れたシャンホアが奇っ怪に見えたのだろう。超然と澄ました表情こそ変えないが、
「何者かや? 名乗れ、そこな小娘」
「シャ、シャンホアですっ! えと、シャンリン姉さんの妹で」
「口のきき方も知らぬ小娘が……我が子ミーリンになにを吹き込んだ?」
「ま、まだ……でも、これからです! 知恵と、勇気とを!」
一瞬、メイランは目を丸くして固まった。
次の瞬間には、天を仰ぐようにして高笑いを響かせる。
そんな母親を見て、ミーリンはシャンホアにしがみついてきた。
この国の頂点に君臨した皇帝の、その正式な妻……
「笑わせるわ! よもや我が子を女帝にでも据えようというのかや?」
「ミーリンが望むなら、それをボクは手伝います! でも、その前に」
「その前に?」
「国と民とを守る方が先だし、それをこそミーリンは望んでいると感じました! だったらボクは、そんなミーリンを支えたい。もう、姉さんを守るだけじゃ済まされないから!」
メイランは、今度は笑わなかった。
それが無言の圧力で彼女を大きく見せる。
まるで見上げるかのような迫力に、思わずシャンホアは息を飲んだ。
一介の
その無礼に対する言葉は、厳しいものだった。
「控えよ、小娘! ……覚悟もなくさえずるなら、誰にでもできよう!」
「誰にでもできるから、ボクだって言ってみせてる! 覚悟? そういうのは――」
シャンホアには、作法やしきたりというものがわからない。
山奥の小さな村で、自給自足に近い生活で育った小娘だからだ。
だが、覚悟を問われて引き下がれないだけの意地もあった。
大切な姉を取り戻すためにも、言葉ではなく態度で示す必要がある。そう思った時には自然と、その手が
ちょっとした作業に使ったりする粗末なものだが、
「覚悟なんて、知らない! わからないよ。でも、やるって決めた。今、決めたんだ!」
ざわつく周囲をよそに、小さく叫ぶ。
小さな刃を手に、
後ろに結った
姉に憧れ、伸ばしていた黒髪だった。
それを切って握り、その
「これでどう? ボクには守りたい人がいて、同じ気持ちの人がいる。おばさんは、どう?」
「お、おば……ッ、フ――
意外にも、メイランは笑った。
それは
その時の笑顔だけが、彼女を周囲の寵姫たちと同じに見せる。
ここにもまた一人、皇帝を愛した女がいた。
誰よりも深く、熱く尽くして、子をもうけた人だ。
メイランはひとしきり笑うと、フェイルに向かって鋭い
「フェイル、うぬが
「俺がか? おいおい、冗談はよせっての」
「怖いかや? 逃げておるのか」
「いや? 玉座にふんぞり返ってるより、俺は俺でやれることがあるんでな」
「ほう? この戦力差、そして守れば弱いこの都を背負って戦うか」
「
シャンホアには、今の会話の意味がよくわからなかった。
フェイルはこの国の軍人、
だが、この場に説明してくれる者もなく、なによりフェイル自身が語ろうとしない。
彼は先程、確かに言った。
国と民を守る、そう決意を固めた己にのみ従うと。
メイランはどこか満足したように、小さく溜息を零す。
「フン、あいも変わらず嫌な男ぞ。……ミーリン」
「は、はいっ! かあさま。あ、あの」
「降伏はこれすなわち、死あるのみぞ? 奴隷と成り果て、あらゆる財を奪われる。男は殺され女は犯される、これが戦というものじゃ」
「――ッ! で、では」
「母のみを責めよ。そなたを女に産んだのは妾じゃ。そして、忘れないでおくれ……皇帝陛下と妾の想いを。そして見よ、見届けよ。女にとて女の戦いがあろうことを」
そっとミーリンの頭を撫でて、それ以上は触れてはならぬかのようにメイランが身を引く。退出してゆく彼女は、一度だけ肩越しに振り返った。
皇帝を長らく一番近くで支えた女の意地が、
「シャンホアとやら、そしてフェイル。都を守り、焔の民を守れ。亡き皇帝陛下に代わって、あらゆる権限を許す。そして、寵姫共よ……我が愛を奪い合った
――決して死ぬことは許さぬ。
それだけ言うと、メイランは去っていった。
それが、シャンホアたちとの間にもたれた最初で最後の対話だった。
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