異世界Ⅱ 【菖】
「ねえアイリスほらっ! 次はあっちのクレープ屋さんに行こう!」
なんで。
「アイリスの服、わたしが見繕ってあげる! こう見えてわたし、日本じゃお洒落さんだったんだよ?」
……なんで。
「わあっ! 見て見て! 滝みたいなのが流れてるっ!」
…………なんで。
「――なんで私、観光なんてしてるんだっけ……」
「なんでって。観光もせずにエルゼアを発っちゃうのはもったいないって、昨日わたし言ったじゃん」
そう不思議な顔をしながらも、依然として私の手を引っ張って歩きながら彼女は言う。
「いや覚えているけれど、そうじゃなくて。本当だったらすぐにでも魔王の頸を取りに行きたいって話」
この街に来たのだって、魔王幹部の目撃情報があったからだ。その幹部を倒した今、この街に留まる意味も、まして観光する意味もないのだ。
「そんなに急がなくても魔王は逃げたりしないって」
いや、魔王だって時と場合によっては逃げるだろう。
「それにさ、アイリス」
彼女はおもむろに歩みを止める。
「……なに」
そして振り返り、私の両肩を掴んだ。
「少しは肩の力を抜いたらどう?」
「……」
瞬間、チリ、と心臓がなにかと擦れた気がした。
「アイリス、わたしと出会ってから……。ううん。きっとアイリスのことだから、どうせわたしと出会うもっと前から、ずっとずぅーっとそんな感じなんでしょ」
「それがなに」
「だから、少しは肩の力を抜いたらどうって言ってるの」
肩の力を、抜く……? なんだそれは。
抜いてどうするのだ。肩の力を抜いたら魔王を倒せるのだろうか? 否、そんなことはない。ただの気休めだ。そのただの気休めは、私が魔王に復讐するのに必要なものなのだろうか?
否、必要なわけがない。あの吸血鬼を殺すには、力と時間だけが必要なのだ。ただひたすらに、ほかのすべては、なにもいらない。
「……ぃらない」
「……え?」
「いらないって、そう言ってる。私にはそんなものはいらない。私はただ、あの憎い魔王さえ倒せればあとは全部――」
「――あっ、あそこの湖にボートがあるっ! ほらアイリス、次はあそこだよ!」
「は? え、あ、ちょ――」
話を振ったのは彼女のはずなのに、理不尽に会話を遮られ、私はなすすべもなく連行されていく。
「ボート大人一人と子供一人で!」
そんな快活な声が聞こえた時には、私はすでに湖の前にいた。って、子供一人って一体誰のことを言っている。まさか私のことじゃないだろうな。おい、受付のおじさんも、まいどありなんて言っている場合じゃないからな。
「……」
結局、子供料金でボートに乗せられた。
「ボートなんて久しぶりだなあ」
そう呟きながら、彼女はオールを忙しなく漕いでいる。私は目の前の諸悪の根源をジト目で睨みつけていた。
「それで、私にはそんなものはいらない、だっけ?」
意外だった。正直、彼女から話を戻してくるとは思っていなかった。
「……」
「まあわたしはアイリスの過去をほとんど知らないからね。だからといって聞かせて、なんてことは言わない」
彼女は、「べつにアイリスの過去に興味ないってわけじゃないよ?」と断りを入れる。
「けどね? 過去に何があったとしても今のアイリスの生き方は間違ってる」
彼女は私の瞳を見据えてそう言った。チリ、チリ、と再び心臓が擦れだす。
「……なんで――」
なんでお前に生き方までも口出しされなくてはならないのか、そう言い返そうと思っていた。しかし、それは言葉にするには憚られる。
なぜなら彼女は、いつものおちゃらけた瞳とは違う。その瞳はたしかに、明確な強い意思を宿していたからだ。
彼女の太陽のように眩しい瞳は、私をとらえて離さない。
「アイリスのその生き方は、きっとすごく息苦しいと思うんだ。たしかに魔王を倒すためだけに、今まで一人で頑張ってきたアイリスはすごい。誰にもまねできないくらいに凄くて強くて、カッコいい」
「……」
「けどね、そんな生き方をしていたら、いつかアイリスは壊れちゃう。なにかのために他のすべてをかなぐり捨ててしまったら、その人はいつか壊れちゃうんだよ。それがわたしにはわかるんだ。……痛いくらいにわかる。わたしも昔、そうだったから」
「……」
「魔王を倒すことは、この世界には必要なことなのかもしれない。現状アイリスがそれを成すのに最も近い人物だということも、アイリス自身がそれを強く望んでいるのも知ってる。でもね、アイリスには、世界中にあふれてる、世界の〝楽しい〟をもっと知ってほしい。魔王を倒せれば他のすべては何もいらないだなんて思わないでほしいの。わたしはさ――アイリスに、楽しく生きてもらいたいだけなんだよ」
そう言って、彼女は薄く微笑んだ。
「……」
「あわわ、なんか湿っぽくなっちゃった。いやいやっ! わたしにシリアスは似合わないからっ! そうだっ、『防御魔法』!」
……シリアスってなに? そんな私の疑問をよそに、彼女は何故か『防御魔法』にて半透明の薄い壁を複数枚作り出し、折ったり繋げたりしている。
「できた!」
見ると、『防御魔法』の壁で作られたプロペラのようなものがそこにはあった。なんて器用だ。『防御魔法』でこんなものを作れるのも、こんなことを思いつけるのも世界を探してもきっと彼女だけだろう。実に魔法の才の無駄遣いである。
「……で、それはなに?」
「これ? これは、モーターっていうかなんていうか……。まあちょっと見てなって」
そういうや否や、彼女はその謎物体を船尾に取り付けた。
「……?」
その瞬間。
「は? いや待っ――」
「ひゃっっほーーい!!」
ボートが物凄い勢いで走り始めたのだ。
な、な、何この速度!? こいつ、一体何をした!?
「ちょっ!? は、速すぎ……! 止めて……!!」
「うおおおお! 思ったより速い! いけいけーー!!」
「ばっ、ばかなの!?」
な、なにを考えているんだこいつ!? そ、それにしてもこの速度、吹っ飛ばされる……!
魔力で身体強化を行えば済む話なのだけど、パニックになっていた私は思わず彼女の腕に抱き着いてしまう。
「ええ~? なになに~アイリスたん、怖いのでござるか~? 魔王を倒すと息巻いていたアイリスたんがこの程度の速度で怖気づいちゃうのですかな~~??」
彼女の浮かべる下卑た笑みと、人を煽るのに特化したような言葉遣いが妙にイラつく。
「なっ!? べ、べつにこわくないし!?」
「だったらこの腕は何なんですかね~?」
「も、もごうとしてるの!」
「サイコパス!?」
なんだそれ……って今はそれどころじゃ……!
「まあ冗談はさておくとして、アイリス。風、気持ちよくない?」
「そ、そんなの感じられるよゆうはない!」
「あはは、そっかー。慣れれば風も気持ちいいし、楽しいんだけど。でもね、わたしが言っているのはこういうことっ! こういうわたしが感じてる、わたしの世界の楽しいを、アイリスにはもっと知ってほしいな!」
高速で走るボートに乗って彼女の腕にしがみ付きながら、私は彼女の横顔を見る。
「……」
たしかにこの瞬間の私は、魔王のことなど考えてはいなかった。心臓はずっとバクバクだし、変な汗は止まらない。けれど、なぜだかそれが不快ではない。存外、悪い気分ではなかった。
彼女の満面の笑顔を眺めながら、私は漠然とそんなことを思っていた。
「……で、これ止める術はあるんだよね」
「い、いけいけー! やっぱビールとボートしか勝たん!」
「め、目を逸らすな!! わけわからないことを口走ってないで――ってうわぁぁぁ!」
その後私たちがどうなったかは、火を見るよりも明らかだろう。
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