第16話 愛する妻(ユリウス視点)
冬の朝七時の森は、氷が張らないギリギリの冷たさだ。
鳥たちは寒さなどものともしないらしく、多くのさえずりが、そこら中から聞こえてくる。
湖の表面は、よく磨いた鏡のように、周囲の木々の姿をそのまま映している。
手元にあった石を投げ込むと、石はポチャンと音をたてて、その映像をぼやかした。
あの悪夢のような襲撃の夜から、早くも十日が過ぎた。
北方の国境警備は、同じく国境を接しているブローワから増援の兵士が来てくれた。
もちろん城の警備も増強した。
だが、襲われること自体が、アデリーンを怖がらせることになる。
向こうは一度失敗しているので、そうそう続けての襲撃はないと思うが――心配だ。
ブローワから戻った日に、アデリーンの部屋を移しておけばよかった。
「俺が意地を張っていたから――」
恥ずかしさのあまり、「同じ寝室で寝よう」と言いだせなかった。
そのせいで襲撃の夜、アデリーンの側にいてやれなかった。
警護の兵士が最初に駆けつけただなんて――。
俺は今でも俺自身を許せない。
あの日から寝室を同じにしているが、俺の腕の中で眠る彼女を見ているだけで幸せな気持ちになる。
アデリーンに初めて会ったときは、女というのは本当に見かけによらないものだと、つくづく思い知らされた気がした。
清楚で賢そうな美しい娘なのに、その中身が悪女とは。
それでも俺は。悪女だと分かっているのに俺は……。
あの白い肌に触れてみたい――などと思ったのだ。
一瞬でもそんなことを考えた己を恥じたが。
……いかん、いかん。
これではまたリュカに、いいようにからかわれてしまう。
今では、俺たちは名実ともに本物の夫婦だ。
エメは、アデリーンの体調の変化を注意深く見守ってくれている。
リュカに言わせれば、食いしん坊のアデリーンに、味覚の変化がおきれば、それがおめでたの兆候だと言っていたが。
……今のところはまだないな。
べ、別に、今すぐ子どもがほしいとか、そういう訳じゃない。
アデリーンと二人で過ごす時間は、何物にも代え難い。
だいたい子どもができたら、アデリーンは俺のことなど構わなくなって――。
「ユリウスー!」
森の入り口の方で、アデリーンが大きく手を振っている。
エメも一緒だ。
あんなに走って大丈夫なのか? もし転びでもしたら――。
まあ、この湖までの道は、もう目をつぶってでも歩けるだろうが。
「はあっ。はあっ。朝食も食べずにどうしたの?」
「今朝はなんとなく早く目が覚めたから、ちょっと歩きたかったんだ」
「だから私が目を覚ましたとき、ベッドにいなかったのね」
「……ああ、悪い」
「もう――」
アデリーンが少し拗ねたような顔をして、俺の隣に座った。
エメはどうやら二人分の朝食を持たされているようだ。
「ふう。奥方様。そんな風に走るのは、やめていただけませんか。見ているこっちがハラハラします」
「うふふふ。ごめんなさい。でも、朝の森の空気も気持ちいいんですもの」
エメがやれやれと肩をすくめて、アデリーンに膝掛けをかけてトレイを乗せた。
領主の俺にはトレイだけか?
エメは本当にアデリーンにだけは甘いな。
エメがトレイに、バゲットサンドやコーヒーカップを置いていると、リュカがやってくるのが見えた。
今度はリュカか。まったく騒がしい朝だな。
「ユリウス様。国王陛下から密書が届いております」
「陛下から密書だと?」
「ええ。夜通し走らせて来たそうなので、すぐに目を通していただけますか」
……国王からの密書。
お祖父様宛に届いた、シュヴェルニ男爵家の令嬢と結婚せよ、という命令以来だ。
嫌な予感しかしない。
「……これは」
とうとう王宮にまで、アデリーンの噂が届いてしまった。
思っていたよりも早かった。
……それよりも。
その力を魔物討伐に使えと言ってきている!
「……ユリウス様?」
リュカの顔には、早く私にも読ませてほしいと書いてある。
思わずグシャリと握りしめてしまった手紙を、そのまま渡すと、リュカは丁寧にシワを伸ばして目を走らせた。
「随分なご命令ですね」
「ああ」
……だが行かねばならない。
「トリアノン領で騎士団に合流とありますが、隊長は、あのテオ様なのですね」
「ああ」
あのテオだ。
……俺の、剣の師だ。
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