第11話 夜襲
ブローワ領から戻ると、私たちは元の生活に戻った。
私の部屋は相変わらずこじんまりした部屋だし、ユリウスと顔を合わせるのは、食事時くらいという生活。
「足りないものとか、俺にしてほしいこととか、何かないのか」
戻ってきて以来、ユリウスの言葉が何度も胸の中で蘇る。
本当に幸せな毎日を送っている……心の底からそう思っていた。
でも今は――。
足りないものも、ユリウスにしてほしいことも――ある気がする。
ああ、バカ。バカ。バカ。もう、本当にバカ。私のバカ!
今日も起きて早々に、馬鹿げた妄想をしているわ。
きっとお腹が空いているせいよ。
ダイニングルームには、頬杖をついて小首をかしげるユリウスと、上から目線を絵に描いたように立っているリュカがいた。
「今日も二通、招待状が届いております。一向に絶えませんが、いかがなさいますか?」
「うーん」
「まあ招待という名の依頼ですけどね。仮にも侯爵夫人を寄越せなどと、気軽に頼むにもほどがあるでしょう」
「お前……」
不意にリュカがこちらを向いた。
「おや、そんなところに立ったまま、よだれを垂らされて。ユリウス様のお顔はパンではありませんよ」
もおーっ! やめてよね。そりゃあ、じっと見ていたのは確かなんだけど。
よだれだなんて。まさかとは思ったけど、気になって思わず口元を触ってしまった。
慌てて席に着くと、ユリウスの方から「おはよう」と声をかけてくれた。
「お、おはようございます」
目を見ずに挨拶するなんて、マナー違反よね……。
「ぷっ」とリュカが笑った。でも次の瞬間には何事もなかったようにすました顔。
むうっ!
それにしても、最近、リュカとユリウスは、同じような会話をよくしている。
あれからあっという間に噂が広がったと聞いて、ここ何日かは湖でしか歌っていない。
人前で歌うのは、やっぱり止めるべきなんだろうな。
一瞬、ユリウスが手を伸ばして、私の手を握った気がした。
「え?」
ユリウスの両手はテーブルの上にあった。
……そ、そうだよね。
「別に気にすることはない。我が領地で遠慮など不要だ。それに聞いたところでは、他の領地では、例年並みの収穫量を確保できているらしい。癒しの力で助けるほどのことではないんだ」
リュカがわざとらしく、これがパンですよ、と私に見せるようにバスケットを目の前に掲げてから、ゆっくりとテーブルに置いた。
「つまり、楽して稼げるのなら、ちょっとだけ若造に頭を下げて、奥方に働いてもらおうという魂胆なのです」
「わ、若造だと!」
うふふふ。やっぱり、このままでも十分に幸せだわ。
夜、ベッドに入ると、あのとき背中に感じたぬくもりや、ユリウスの唇の感触を思い出してしまう。
あの夜以来、一人で眠りにつくのが難しくなったって言ったら、ユリウスはどんな顔をするかしら。
ため息をついて瞳を閉じる。
……あれ? 城の周囲の空気が揺らいでいる。
……なんなのこれ。
ねっとりとした悪意が、黒い実態を伴って周辺を覆い尽くそうとしている。
……気持ちが悪い。
どす黒いモヤモヤしたものが、城壁を登ってくる。
……あ、来る!
ガッチャーン!
何者かが、部屋の窓を割って侵入してきた。
モヤモヤが男の姿になったのかと思った。
冷えた夜気まで一緒に入ってきて、体を震わせる。
「奥方様!」
部屋のドアが乱暴に開いたかと思うと、剣を構えた護衛役の兵士が駆け込み、侵入者の前に立ち塞がった。
兵士がすかさず剣を抜くと、侵入者も腰からナイフを取り出した。
二人は互いの間合いを測るかのように睨み合っている。
「敵襲! 敵襲!」
城内から叫び声と共に、あちこちからドヤドヤと人が集結する足音が聞こえた。
……逃げなきゃ。
そう思うのに、ベッドから出られない。体がいうことを聞かない。
「アデリーン!」
ユリウスを先頭に、五、六人の兵士が部屋になだれ込んできた。
「ちっ」
侵入者は睨み合っていた兵士からユリウスへ視線を移すと、構えていたナイフをいきなり投げつけた。
ヒュン! ダン!
ナイフはユリウスの横をかすめて、壁に刺さった。
誰もがホッとして、それから慌てて窓辺を見たが、既に侵入者の姿はなかった。
「うっ」
ユリウスが左腕を押さえて、膝をついた。
「ユリウス様!」
近くにいた兵士が駆け寄ったが、ユリウスは手で制した。
「俺はいい! やつを追え! 逃すな!」
「はっ」
「はっ」
兵士たちが一斉に駆け出していく。
「ああ、そんな。ユリウス様!」
霧が晴れて呪縛が解けたかのように、やっと動けた。
ユリウスの夜着に、じわじわと黒い染みが広がっていく。
「ユリウス様!」
リュカは部屋に入るなり、一目で全てを察知したらしい。
すぐに冷静さを取り戻すと、エメが置いてくれていた水差しのトレイにあったおしぼりで、ユリウスの腕を縛った。
「俺はいい。それより使用人たちは無事か?」
「はい。他に侵入者はいないようです」
「それよりも早く傷の手当を」
「別にいらん。かすり傷だ」
「なりません。どんな小さな傷でも悪化すれば命の危険が伴います。それに、毒が塗ってないとは言い切れませんから」
毒ですって!? いったい何が起こったの? どうしてこんな目に?
「……アデリーン。大丈夫か?」
私ったら。こんなときこそしっかりしなくっちゃ。
「はい。ごめんなさい。私、なんの役にも立てなくて」
「何を言う! 謝るのは俺の方だ。お前が無事でよかった」
ユリウスの瞳には、激しい怒りの炎が見える。
「とりあえず、ユリウス様の寝室へ参りましょう。医者もそちらに呼びますので」
いつもは憎たらしいリュカも、今夜ばかりは本当にいてくれてよかった。
リュカの毅然としながらも、ユリウスに向ける暖かい眼差しを見て、心底そう思った。
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