第14話 つりのひ

「いいよ、あげる。はいどうぞ」


 主人は人にいい顔をして、聖堂を訪れた親子連れに、笛を手渡した。いつぞやのくじ騒動で買った、無意味な出費の一つである。娘は大喜びで、下手なびーっ、という音を立てて大層喜んだ。それを見て母親も笑う。主人の飽き性には呆れる他無いが、こうして誰かを喜ばせる事もある、というのは勉強になった。


 吾輩は前世、特にこれといって人に自慢できる趣味はなかった。作りたいとも思わなかった。球遊びは疲れるし、道具に多大な金が掛かることも知っている。父母に迷惑をかけてはならないと、吾輩は努めてそれには関わらなかった。級友は音楽に親しむものもいたが、それもしなかった。下手の音楽は騒音と変わらず、家の内外を問わず害にしかならぬことを知っていたからだ。


 こういう時、人は読書や映画鑑賞を趣味に並べるものもいる。吾輩はどちらかといえばそれに近いが、所謂本の虫には到底至らぬ。そも、どこまで読めば趣味と言えるのか。書にしろ映画にしろ、専門家というのは常にいる。彼らを差し置いて専門家面など、到底出来はしないだろう。気ままに書に親しみ、時にゲームを遊び、SNS等を眺め、決して交わらぬ。これが前世の吾輩であった。それが最も気楽であり、吾輩の好しとする慎まやかな在り方であった。


 主人は真逆だと思っていた。釣りは諦め、楽器は子供にくれてやる。吾輩のように先を見、思慮深く、本質を見極める目などなく、ただ面白そうだと感じたものに食いつき、飽きては捨てる。真性の飽き性なのだと。


 しかし、ある日聖堂に様子が見えない主人を心配し、吾輩が家宅の様子を見てやると、なんと主人が釣り道具を触っていた。


 まだ諦めていなかったのか、と感心する。どうやら竿の先に糸をくくっているようだが、苦戦しているようだった。元々器用そうな少女には見えぬ。前世の吾輩は器用さに自信はあったが、今はちんまりとした指先に、えいと力を籠めれば爪の伸びる、この前脚では如何ともしがたい。ここは笑わずに見てやるのが精一杯であった。


 ふと視線を落とすと、床に一枚の手紙が落ちている。主人は釣り竿に執心であるし、こっそりと手紙を手繰り寄せてみる。やはり、異界の文字は吾輩にも読める。


『釣りとは、まず第一に餌である。餌が新鮮でなくてはならない。釣りをする場所を考え、そこにいる小魚や虫を捕まえ、釣り針に刺して浮かべるといい。君は釣りが不得手だから、疑似餌などに頼るのは好くない』


 どうやら、よい釣りの師を見つけたらしい。


『活き餌を使うのには理由がある。活き餌は勝手に水に溺れ、それが魚を呼び寄せる。君は水に、活き餌を垂らすだけで、簡単に魚が釣れるだろう』


 随分調子のいいことが書いてある。それでなんでも済むなら誰も苦労はしない。気になって机に跳び乗り、主人の手元を見てやると、釣り糸に括り付けようとしているのは、魚の形を模した木の棒、即ち疑似餌である。針はなく、あくまでも練習ということが知れた。

 

 実のところ、主人がここで青虫や蚯蚓、飛蝗を針に突き刺し餌にしようとしていたならば、少なくとも今日、撫でられるのは避けようと思っていた。しかし、どうやら主人も、昆虫を針にさす趣味は無いようで安心した。


 ところで、小さく唸りながら、必死で糸を括る主人を見ていると、思うところがある。ぷらぷらと揺れる餌、これは吾輩の深淵にある野性の欲求を刺激する。脚を揃え身を伏せる。周期的に揺れるそれに視線を同期させ、えい、と気づけば木の棒に向けて跳躍していた。吾輩はきっと見事な弧を描き主人の手元に飛んでいく。しかし、それを無情に主人は弾いた。振り向きざま、その爆乳を振るって吾輩を叩き落としたのである。


 吾輩は無言で床に落ち、たんと跳ねて着地した。


「なになに、どうしたの?」


 主人はきっと困惑の表情を浮かべているに違いない。そういえば、主人のもとに来て、吾輩がこうも野性を剝き出しにしたのは例の鍛冶屋の甥の一件以来であろう。


 しかし、主人は今吾輩を注視し、釣り竿から意識が離れている。故に、右手にあってぷらぷらと揺れる疑似餌代わりの木の枝を見て、吾輩の野性は放ってはおかない。一度火がつけば燃え尽きるまで。再び跳躍するが、主人は捩って守りに入る。乳を襲われたと感じ入ったのか、釣り竿の先の疑似餌は自由である。当然、吾輩には、竿の先の糸に下がる木の棒が、魅力的に見えて仕方がない。


 吾輩は何度も跳び掛かり、その度に身を捩る主人の乳に前脚を埋めた。主人は意外に動ける様子。だが、ふと竿が主人の頭の上を一周した時、ちょうど吾輩の目の前に疑似餌が来た。その瞬間、吾輩は見事、その前脚ではっしと疑似餌を捕らえたのである。


「釣れた」


 失礼な。吾輩はただ単に、野性に従っただけである。顎で疑似餌を噛み、本能はさらに後脚も使おうと、必死で宙を掻く。何故か、快感が脳を満たしていく。


「ほれ、危ないよ」


 主人がびよんびよんと竿を振り、ついには吾輩の首根っこを掴む。無理やり引っ張るものだから、仕方なく諦めてやった。床にそっと戻されるが、それでも吾輩の心は冷めなかった。まだ、心臓の鼓動は収まることを知らず、何より脳内を不明の興奮が駆けている。一方、主人は不思議そうな顔をしながら身を屈め、例の手紙を拾って再び読んだ。


「もしかして、あなたにはこれが、本物のお魚に見えた、とか?」


 そんなわけはない。それはどう見てもただの木っ端である。人間らしく、首でも振ってやろうかと思ったぐらいだ。吾輩を子猫と舐めてもらっては困る。


 しかし、実際のところはどうだろう。こうして、目の前でゆーらゆーらと、似てもいない疑似餌を振られると、視線も体も動いてしまう。


「ほーう、どうやらわたしは名人らしいな」


 主人はどんどん勘違いを独り言つ。しかし、今の吾輩に、それを否定する余裕はなかった。


「えい」


 ぽい、と吾輩の背中側へ疑似餌を投げられると、体が勝手に追いかけて、前脚から爪が延びる。そうして、疑似餌に爪をひっかける。しかし、その瞬間、疑似餌はひょい、と鉛直方向に浮き上がった。諦めるものか、今度は後ろ足で上半身をしっかり支え、全身でもって跳び上がった。だが、今度は餌が水平に移動する。前脚も爪も伸ばすが届かない。だが、視線は片時も『獲物』から離さぬ。獲物は床で吾輩を待っている。無音で着地し、間髪入れずに襲い掛かるが、対手は蛇行して吾輩の手から逃れる。なかなかやる。再び宙を舞うそれに、吾輩もつられて跳躍する。机の上に乗り、餌を見定める。と、嫌なものが目に入った。


 にやにやとこちらを見る、主人の顔である。


 一瞬、しまった、と思った。これでは完全に猫である。否、確かに吾輩はそうなのだが、同時に前世は人間であり、その矜持もある。それが、釣竿を振り回し、子猫の純情をも掌握したと勘違いする、主人の醜く歪んだ下卑た笑顔に、恥辱を感じた。


 しかし、こればっかりはどうにもならない。机の上を這う疑似餌を追うのが止められない。机を跳び下り、床を跳ねる獲物を探してしまう。


 悔しい。きっと主人は満面の笑みで、愚かにも偽物の獲物を追いかける吾輩を見ているに違いない。これが腹立たしくてしょうがなかった。それでも、猫の野性を抑えることは叶わず、何より、人である吾輩の心持すら、この一時の興奮を愉しんでいた。


 そも、これはこれで、好いのではないか。主人の新しい趣味として、吾輩に向かって釣竿を振るうのだ。もとより、その大乳房で釣りなど、川の様子も見れないのでは話にならない。このままでは、釣り竿というのが無駄な出費になってしまう。ところが、吾輩の野性を愉しませる道具として生き返るなら、これほど善いこともあるまい。吾輩のお陰で、主人は無駄な出費を抑え、尚且つ新たなる趣味を見つけたのである。これは真に喜ぶべき事態である。吾輩とて、ずっと無駄飯ぐらいというのは人の矜持が許さぬ。こうして主人の役に立てるなら、人間冥利に尽きるというものだ。吾輩の方が遊んでやっているのである。楽しい、楽しい。こうして、吾輩は疑似餌を必死で追いかけた。


 そして、ついに吾輩は再び、その爪牙に獲物を捕らえ、しかと噛みついた。見たか、これが子猫の生き様よ、と振り返ると、主人はそこにいなかった。釣竿は床に放られていた。


 どこだ、と見回すと、主人はすでに立ち上がっている。ついに動かなくなった疑似餌に、吾輩の不満が積もる。


 みー。


 吠え、そして主人の足に跳び付き、がりがりとひっかいてやる。


「痛い痛い、今日はおしまい。飽きた。ちょっとお昼寝するね」


 衝撃の一言であった。あれだけ楽しそうに釣竿と疑似餌で吾輩を弄んでおいて、それはないだろう。がりがり、とさらに追加で引っ掻く。それで足りぬのなら、と釣竿を咥えて追いかける。


「そんなに気に入ったの? じゃあ、また今度ね」


 気のない返事を主人はする。それが吾輩の毛を逆撫でした。気に入ってなどいない。ただ、お前と遊んでやったというのに酷い奴だ。やはり、主人の飽き性にはついていけぬ。しかも、ひとしきり猫の気も知らないで、適当に弄びもする。やはり、人間とは碌でもない生き物だ。それは異界でも変わらぬと身に染みた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る