第6話 猫の櫛

 いつの時代、どんな世界でも、猫撫で声というのは危険である。得てして誰々の機嫌を取るために使うものであり、すなわち他者へ媚び諂うのについて回る。吾輩が好かぬものの一つである。


「ねーこーちゃーん」


 普段、吾輩は分別がある猫なので、機嫌さえ好ければ主人の呼び掛けや、捕まえてくる手は逃げないでやっている。しかし、この声がしたとき、本能的に体が跳ねた。


「おかしいな」


 見事なジャンプとターンで聖堂の床を舞う吾輩へ、主人は首を傾げ不審そうな視線を送る。こっちの台詞である。しかも、後ろ手に何かを隠しているではないか。怪しすぎる。取って食う気こそないと信じたいが、この主人のことである。何か善からぬ事を企んでいるに違いない。こういうときはさっさと外に出て、家宅の周りでも散歩したり、屋根の上で昼寝に限る。


 しかし、振り見ると聖堂の扉も窓も閉まっている。しまった、と思ったときには主人が吾輩の傍で両膝を折って身を屈め、さっと腹の下に手を入れていた。鈍臭そうな顔と乳房の娘だが、こういうときだけ見事に気配を消す。そうして吾輩はあれよあれよと捕まり、その膝と乳の間に収められた。こうなっては逃げようもないので、大人しく主人の沙汰を待った。主人は言った。


「見えん」


 今更なことを口にする。吾輩は呆れて、みー、とも言えぬ。主人は、吾輩を再び抱き上げると、今度は爆乳の上に吾輩を乗せた。腹が存外心地よいため動きが鈍った。その隙に主人は片手でやんわりと吾輩を抑えつつ、手に持つブラシで吾輩の首元を梳いた。ブラシの毛が吾輩の皮膚を掠め、思わずぞっとして悲鳴を上げた。


 みー。


「やっぱ気持ちいいよねー。好し好し」


 そう言いながら何度もブラシをかける。正直好い感じはしない。普段ふさふさの毛で守られている皮膚に直接触れられるのは慣れなかった。何度も身震いし、手足を突っ張ってくすぐったいを超えた気味の悪さに耐えた。何故か、全身が電気に当てられでもしたかのように、びりびりして動かなかったからだ。だが、しばらくして、だんだんと、それらも心地好く感じて来た。突っ張って耐えていた手足から徐々に力が抜け落ち、体を走るブラシの感触がとても好い。だんだんうとうとしてきたのは、弾みのある爆乳の上だから、というわけではなさそうだ。


 気付くと、夕暮れになっていた。どうやら寝てしまっていたようで、どれ程経ったのか見当もつかぬ。そんな中、聖堂の椅子に腰かけて、一心不乱に乳の上にのせた何かに執着する主人がいた。気になって近寄っても、主人は吾輩を一瞥もしない。


 みー。


 声をかけると、漸く主人は吾輩を見た。そして、不思議そうに首を傾げ、隣に並ぶ吾輩の頭を撫ぜた。今回は爆乳越しではないため、正確に頭を撫で、首、背、と続く。しかし、いつもよりもしつこい気がした。


「減ってないね。不思議」


 何のことだろうか。


「あなたの毛で、わたしのブラシがもさもさなんだけど。どうなってるの」


 そういって、吾輩にブラシを突き出す。確かに、ブラシの毛の間に吾輩の可愛らしい灰色の短い毛が詰まっている。


「最悪。折角綺麗にしてあげたのに。恩知らず」


 理不尽なため息をつき、主人は再び、ブラシの合間に挟まった吾輩の毛を除去する作業に戻った。最初から最後まで、人間は誠に自分勝手である。恐らく、猫という動物が如何に毛を撒くかを知らない為であろう、と推察はするものの、だからと言って許されるものなのか。


 後日、主人の買い物袋の中に、新しいブラシが紛れていた。古い方のブラシは、どうやら吾輩専用になった模様。こうして、吾輩の私物が増えていくのは小気味良いので、好しとする。思い出すだけで体がくすぐったいが、主人がどうしても使いたくなったときは使わせてやろうと思う。

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