第5話 吾輩の名は

 主人は善く出来た人では無い。都合を考えず吾輩を撫でまわしたり、猫の厠を覗き込み、勝手に蛙を食わすような女である。しかし、生来、人属とはそう言う生き物である。その点、主人の美徳は、人里から離れた土地で、誰にも迷惑をかけずに過ごしている事である。大した勤労もせず、毎日掃除と惰眠を貪り、吾輩を撫でて過ごす。そんな人間に、凡そ降りかかって好い災難に、この男は到底思えぬ。端的に言って、吾輩は義憤に駆られた。故に、吾輩はその跳躍力で、男の腕に跳びついた。


「うお、なんだこれは!」


 大男は吾輩の思わぬ攻撃にたじろいだ。吾輩は爪を男の服に突き立て、指を噛んだ。泥の痺れる味と、男の臭さは我慢する。


「待って!」


 主人が悲鳴を上げた。吾輩の首根っこに、男の図太い指が掛かったからであろう。しかし、握り潰されるぐらい覚悟の上。


「あの、なんだ、この、なんだ!」


 どうやら吾輩の爪や牙が通用する様子。この鍛冶屋の甥、随分と戸惑っている。ははん、見てくれだけだと確信した。嗚咽が出そうになるのをこらえ、さらに歯牙を立てた。


「なんだ、この動物は? 手足の付いたふわふわの……」


「……わたしの家族です。可愛いでしょう」


 その言葉に吾輩は何故か落胆した。呑気にも程がある。今、吾輩はこの小さな命を懸けて主人のために戦っているというのに。もしかしたら、吾輩は何か、特別なものを主人に期待していたのやも知れぬ。同じ勤労という物の怪から身を置いた、慎ましき同志であると。しかし、見込み違いであったようだ。


 急に冷め、吾輩は鍛冶屋の甥の指から顎を外した。そして、きっと苦痛に歪むその顔を拝んでやった。すると、眼前に悍ましい表情が迫っていた。思ったよりも男は吾輩に顔を近付けていた。朝から歯も磨いていないのだろう、臭い息が鼻にかかり、つい、悲鳴を上げた。


 みー。


 そして、引っ掻いてやろうと前脚を伸ばすが、服に爪がかかって取れない。漸く引き抜けたとき、すでに引っ掻ける距離に顔はなく、吾輩の爪は虚空を泳いだ。その脚先を、何を思ったか鍛冶屋の甥はぎゅっと握った。潰される、そう思ったが、何故か加減されていた。ぞっとしたが、残りの脚の爪が服に引っ掛かって逃げる事は出来なかった。


「この動物は、なんだ」


 男はまるで、握手でもするように吾輩の脚先を揺らして訊ねる。どこか、男の視線から慈悲めいたものを感ずる。さっきまでの下卑た意志はどこへ行ったのか。まるで、電車の中で猫動画でも見るような間の抜けた表情だ。


「さあ? わかりません。森で拾いました。魔物ではないと思います」


「撫でても好いのか」


「はい。どうぞ。でも、きっと暴れますから、気を付けて……」


 主人は吾輩の事情などお構い無しに言った。見損なった。急に大人しくなり始めた二人に、怒りの爪牙を突き立てたい。だが、いくら藻掻いても残りの脚の爪が抜けず、暴れるのは無理だった。男は吾輩の前脚から手を放し、頭を撫でる。引っ掻きたかったが、素早く頭を押さえられては何も出来ぬ。


「随分と大人しいな。暴れないぞ」


「あれ? そうですね。静かですね」


 そんな事はない。まるで泥汚れを拭うような男の重い撫でに、本当は抗議したくてたまらない。


 みー。


 仕方ないので、怒りの声だけ上げてやる。


「泣いたぞ。可愛い」


 何と言ったか。猫の気も知らないで、大男は勝手な解釈を言った。


「喜んでいるみたいですね」主人は目を丸くしている。主人の撫でについて、気の好い時は許しているが、そうでないときはいつも逃げる。爆乳が邪魔で吾輩を見ず、変なところばかり触るからだ。


 どうやら二人には、猫の普段と異なる怒りの声が伝わらないようだった。そも、初めて見る猫という動物の、心の機微や泣き声の違いの何たるかなど、分かりはしないのだろう。前世では猫の尻尾の位置や耳の角度で感情がわかるというが、そう言う物がない彼らにとって、猫の鳴き声は全て一緒に聞こえるに違いない。吾輩はついに、全てを諦めた。


「今日は、帰る」


 一頻り吾輩を撫でた後、男はそう言った。


「はい。ムートロさんだって、話せばわかると思います」


「そうする」


 急にしおらしくなった大男は、吾輩を腕から剥がし、壊れ物でも扱うかのように丁寧に、床に置いた。


「またな、ちび」


 そして、彼は聖堂を後にした。


「……二度と来るな」


 主人は小さく呟いた。よくはわからないが、吾輩は大活躍したと見える。


 みー。


 と泣いて、成果を誇った。すると、主人は扉を開けて家宅の方へ消えた。おやつでもくれるのかもしれぬ。期待して尾を振って待っていると、戻ってきた主人の手には、大きなバケツがあった。そんなには食えない。そう思ったら、ばっしゃりと水を掛けられた。


 叫び、大きく飛び退る。毛を伝わって、皮膚が濡れる。ぞっとして、水気を飛ばすため、全身を大いに揺すった。しびびびび、と飛沫が上がる。なんという仕打ち。これならば、男の方がましであった。


「ごめんね。でも、ばっちいから、まずは綺麗にしよう」


 どうやら鍛冶屋の甥は相当嫌われた様子。水を掛けただけでは足りないようで、主人は雑巾を持って、吾輩の肉球すら拭こうとする。悩んだが、応じてやることにする。悪意はないと見えたからだ。主人の心を察してやるのも好い猫であろう。人は猫より劣った生き物だからだ。


「ところで、あなた、わたしよりあいつに懐いてなかった?」


 吾輩の脚を拭いながら、不満げに主人は言った。やはり、人間はしようのない生き物である。


 後日、二人の男が聖堂に来た。片方は顎に包帯を巻いていて、もう片方は当然、あの大男である。二人は謝罪の言葉を主人に述べる。主人はわかればよい、とだけ言った。帰り際、聖堂の隅で様子を伺っていた吾輩に、大男が気付いた。


「一つだけいいですか」畏まって大男は言った。


「なんでしょう」主人も応じる。


「あの、可愛い生き物は何ですか」男は吾輩を指している。


「知りません。でも、この子は……」


 主人は、急に当然と言った仕草で吾輩を捕まえた。あまりにも自然な動きに逃げ遅れた吾輩は、爆乳と腕の間に挟まった。


「よく寝る子なので、ネコ、と言います」


 それは自己紹介かと、吾輩は内心毒づいた。

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