第3話 ねこちゃん

 猫というのは元来自由気ままで勝手な生き物であるが、吾輩は主人の聖堂や家宅の周辺から出ることは殆ど無い。生後間もなく、魔物に襲われたからである。基本的には聖堂の中か、家宅の隅にいる。しかし、厠だけは外でする事に決めている。主人が滅多に通らぬ家宅の陰に、猫の野生が『ここ』と囁く砂地がある。そこが吾輩の厠である。日がよく当たるものの、建物の位置や隣の森が丁度、用を足す吾輩を隠す。これほど好い場所はなかった。しかし、吾輩は人間というものの、悪徳を忘れていたようだ。


「こんな所でうんちしてたんだ」


 森の奥から現れた主人が、吾輩を指して言った。そもそも、やや遠くから、草を分けてくる主人の足音は聞こえていたが、用を足す最中であった。逃げられない吾輩を、主人は興味深そうに観察している。なんとデリカシーのない。さっさと逃げようと思っていたが、ふと、主人の恰好が珍しいことに気付き二度見してしまった。


 白いゆとりのある服の上に、浅黄色のケープのようなものを羽織った、ともすれば新選組のような色合いの、修道服擬きが異界の聖女の制服であるらしかったが、今日の主人は地味な土色の、ぴったりとした服を着ていた。さらに、何を恰好つけたのか、つばの短い帽子まで被っている。しかも肩に細長い棒まで担いでいる。


「二度見ってするんだ」


 やはり人間はつくづく、太々しい生き物である。厠を覗き込んだことを謝りもしない。吾輩はそっぽを向いた。


「ごはん作るからね」


 しかして、ごはんという言葉には耳を立ててしまう。よく見れば、主人の片手には見覚えのない布袋が握られている。そこで吾輩にも事情が分かった。主人はきっと、川釣りに出かけていたに違いない。


 思えば、毎日掃除か惰眠しかしない主人が、こうして出かけるのは精々が買い出しであった。しかし、今日は、濡れたブーツに、おそらく枝木に引っかかることを避けた、ぴったりとした爆乳の目立つ服装、そして担いだ長い棒は釣り竿であろう。どうやら、何を思ったのか新しい趣味でも始めたらしい。


「お入り」


 家宅のドアを開けて吾輩を招く。そういえば、異界に来てまだ魚の類を食べていない。異界の鶏も前世とほとんど変わらぬ味だったが、魚はどうであろう。あくまで興味に釣られ、吾輩は家宅に入った。


 主人は鼻歌なんぞ歌って調理場に立つ。その間暇なので釣り竿を遠巻きに眺めた。無知な猫畜生ならいざ知らず、前世が人間の吾輩は釣り竿に戯れて、針に足を噛まれるなどのリスクを簡単に計上できる。しかし、あのどんくさそうな娘が釣りなどとは思わなかった。なによりも、あの大乳房が邪魔で、川の中の魚など見えないのではないか。そも、なぜ急に釣りなんぞ始めたのか。疑問は尽きない。


「はい、召し上がれ」


 魚一尾捌くのに、主人は正体不明の怪曲を四周もした。しかし、凝った調理をした気配はない。それもそのはず、床に置かれた皿に、いつもと同じ鶏肉を湯がいたものがあった。


 みー。


 吾輩は疑義を呈した。魚ではなかったのか。しかし、一泣きした後、これぞ猫の思い上がりだとも思った。全てが己の思うまま、と振舞うのは、前世で吾輩が猫に感じていた所である。彼奴等は人間にお構いなしに、眠りを妨害し食事を邪魔し、ここぞというときこそ我が物顔で参上する。吾輩は自身の行いを恥じた。黙って与えられた餌を食う、それが厄介になるものの仕草であろう。とはいえ、やはり溜飲は下がらない。吾輩にはいつもの鶏肉を出し、自身は取れたての魚を食べるのが許せぬ。せめて、釣果を見てやろうと思い、食卓に跳び乗った。ところが、主人はパンに目玉焼きを乗せたものを食っていた。


「なに? どうしたの?」


 前世は人ゆえ、吾輩は理由もなく食卓に上るようなことはしない。そこは前世によくいた猫と明確に異なる点である。よって、主人は鈍感だが、珍しく食卓に吾輩が一跳びしたのには驚いたよう。


「まさか、お魚に期待してた、とか? そんなわけないよね?」一瞬主人は釣り道具をふり見た。


「あれはね、得意な人がやればいいの。賢いからわかるよね」


 なるほど、主人はどうも、釣りに失敗したらしい。恐らくその爆乳で川の様子もわからず、適当に針を垂らして帰ってきたに違いない。吾輩は哀な爆乳を睨んだ。これさえなければ、吾輩は新しい食事にありつけたはずなのに。


「卵は食べれるのかな? そんなに欲しいの?」


 どうやら、目玉焼きを見ていると勘違いしたらしい。


「そうだよね。やっぱり毎日、同じじゃ飽きちゃうよね。本当はわたしだって、お魚釣ってあげたかったけどさ」


 思わず耳が立つ。どうやら、主人が釣りに行ったのは吾輩のためらしい。これには驚いた。そういう甲斐性があったとは。


「あれはねえ、難しいんだよ。得意な人は得意なんだけど。ほんとだよ」急に言い訳をする。


 フムン。努力は認めてやろうと考えた。主人は今、身にきつそうな服の胸元を緩め、その乳房を自由にしている。ブーツも膝まで濡れているし、苦労はしただろう。給仕にしては頑張った。そう思うことにした。


「やっぱり、毎日蛙は嫌だよね。わたしだって嫌だもん。なんでこの村の人はあんなに持ってくるのかな。やっぱりわたし、嫌われてるよね」


 吾輩は愕然とした。毎日食していた、あの鶏肉だと思っていたもの、あれは蛙だったのか。顎が開いて戻らない。やはりこの給仕は最悪である。今すぐその目玉焼きをよこせと跳びついた。


「ちょ、急にどうしたの!」


 こういうときだけ反射が良い。さっと皿を除ける主人に苛立った。腹いせに、その大きく開いた胸元に潜り込み、大いに揉み踏んでやった。乳房の下部はいまだ、窮屈な服に支えられている故か、いつもよりも強く弾力する。生意気な、とさらに踏んでやる。


「やめてよ! くすぐったい! おっぱいは出ないんですけど!」


 主人は見苦しく、喚き叫んだ。食い意地の這った俗物め。主人が、自らの皿をひっくり返し、さらに悲鳴を上げる。いいきみである。

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