第2話 人との遭遇

 主人の名は、アジトロ・ナナリンというらしい。何とも旨そうな名前だが、今の所この異界で、鯵も鮪も聞いたことは無い。故に、主人の名を笑う者も、旨そうだと涎を垂らすものもいない。


 主人は、初対面の吾輩に両親の有無を聞くデリカシーのない少女であったが、連れてこられて数日、吾輩は考えを改めることにした。


 主人はどうも、一人で小さな聖堂を守る、聖女なる職業らしい。そこに、両親はおろか大人の影はなく、家一軒と少しほど広いそこを毎日掃除し、まるで魚の骨か八木式アンテナのような奇怪なオブジェに対し、極稀に祈りを捧げ、残りの時間を転寝して過ごしている。こうしてみると、なるほど、吾輩の前世の職も聖女に違いないとすら思ってしまう。違うところといえば、時折、聖堂を訪れる人々へ挨拶し、差し入れを貰い、世間話などもする所。


「聖女様のおかげで村に出てくる魔物の数がまた減りました。ありがとうございます」


「いえいえ。当然の事ですよ」


 しかし、この世間話、この異界の信仰の話や説法などではない様子。吾輩としてはあの枯れ枝のようなオブジェにいかなる願いを込めるのか気になるのだが。


「この土地の人はね、あんまり信心深くないんだ。わたし程じゃないけどね」


 寝飽きると、主人は吾輩を膝に乗せて世間話をし始める。何もしない時間を過ごすのは、吾輩の方が得意な自信があった。主人の膝の上で、伸びをしたり、ぐるんと返って仰向けになったりする。しかし、いくら姿勢を変えても主人の顔は見えなかった。その爆乳が邪魔であった。


「暇だからいいけど。あなたもいるし」


 そういって吾輩の顎下を撫でる。急にぞっとして、吾輩は主人の手を引っ搔いた。主人は吾輩の頭を撫でているつもりに違いない。果たして吾輩の頭がどちらを向いているか確かめもせず自分勝手で失敬な奴だからだ。だが、そんな吾輩の脚先を、見えもしないくせに器用に掴んだ主人は、そのまま肉球をきゅうきゅうと押した。


「ぷにぷにー。好いもん食べてんな」


 それはどうだろうか。吾輩はついぞ、主人が毎晩食卓に乗せているような食事は食べていない。いつも解した鶏肉を食わされている。当然、主人の残飯に相違ない。そう思うと、吾輩へ知った口を利く主人が憎い。故に、後ろ脚をきゅっと腹に寄せ、えい、と毬のような主人の乳房を蹴り上げた。乳房に脚が沈み、水に似た弾力と重力をもって押し返した。ずっしりとした重量があった。主人の乳房は、吾輩が子猫サイズに相成ったことを差し引いても巨大であった。前世でも当然お目に掛かった事が無い。漫画雑誌の表紙でも、ここまで豊かな乳房はなかったと思う。只の子猫の脚力では、それを崩すことなど敵わなかった。


「なーに? 甘えんぼさん?」


 主人は間抜けなことを言う。否である。断固として否である。これは吾輩の抗議である。彼奴はやはり、吾輩の心情など知ったことではないのだ。怒りを込めて、もう二、三、蹴りを入れるが、まるでトランポリン遊びをしているようだった。


「もー、くすぐったいんだけど」


 前世ならば、これほどの大乳房、蹴って揉んでが出来たら愉しみで仕方なかっただろう。しかし、吾輩のメンタリティは、当世にあっては猫である。飼い主を猫と思い、発情する阿呆猫もいると前世で聞くが、今の吾輩には人と猫の分別があった。故に、主人の乳房に興奮する事など無く、これは吾輩にとって、玩具でしかなかった。柔らかくて、しかし拡散することなく脚先にきゅう、と収束する不思議な踏み心地。気付けば抗議の志は消え、この弾みを楽しむ猫心が支配していた。


「もー、怒るからね!」


 そういって、主人は勢いよく立ち上がった。吾輩は主人の膝から転げ落ち、聖堂の床に降り立った。


 みー。


 吾輩は怒声を上げた。


「怒ったからね。ごはん抜き!」


 それは困る。そもそも、吾輩を苛めたのは主人が先である。横暴ではないか。大口を開け何度も泣いて抗議するが、主人は背を向けて聖堂の奥、自宅へ歩き出してしまった。理不尽である。主人は食事を自宅で摂る。扉を閉じられた吾輩は昼食にありつけず、抗議は失敗となる。結局の所、力の差は歴然としていた。もう少し大きくなれば話は違うかもしれないが、まだ吾輩の爪も牙も魚の小骨と好い勝負である。敗北を認めざるを得ない。


 みー。


 哀愁が籠った泣き声が聖堂に響いた。無論、己の非力さへの嘆きである。対手は冷酷非道の主人である。前世も人間であったに相違ない。吾輩は考え込んだ。食事抜きは身に堪える。現世において吾輩は成長期の子猫である。


 しかし、暫くも置かぬ間に、主人は聖堂に戻ってきた。しまった、と思った。逃げ損ね、どんな表情でいたらよいか。このまま扉の前で座っていては、まるで食い意地が張ったように見えてしまう。逃げる隙を探そうと、耳を数度跳ねさせた後伏せ、音を聞き、主人を伺う。すると、俯いている吾輩を注視していた主人が急に動いて、吾輩の脇を掴む。


「もう、しょげちゃって。お耳が可愛いね。ごはん食べよ」


 そうして、吾輩は家宅の食堂に運ばれた。しょげてなどいないが、食い物にありつけるのだから好しとする。なるほど、猫に敗北はない。対手が人である限りは、向こうが吾輩に給仕するのである。

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