聖女の祈りは奇跡を起こし一匹の猫を手に入れた!

杉林重工

聖女の祈りと一匹の猫

第1話 転生した人間は異界の猫の夢を見るか

 吾輩はネコである。名前はもうある。


 前世は人であったと記憶している。パソコンやゲームに囲まれて、都会の隅で細やかに、小さな部屋に籠って、勤労という、他人を搾取し自己を偽り、上に諂い下を咎むるを善しとする下品な事物からは距離を置き、只々誰々にも迷惑を掛けず過ごしてきた。


 如何にして死んだかは判じぬ。前世は人ゆえ、酒に浴して水瓶に没する間抜けでないことは確かだが、それ以外は分からなかった。気付けば見た事もない黒々とした木々や土の匂いに包まれて、乾いた土の上、お月様を見上げて、みーみーと泣いていた事を覚えている。


 そこで吾輩は、初めて魔物というものを見た。犬か、或いは虎かと思ったが、立派な鱗で覆われた鼻先を見て、これは違うぞ、と理解した。生臭い息と白眼のない真っ黒な瞳が吾輩をじつと見ている。やがて魔物は吾輩の首根っこを食み、のっしのっしと運び始めた。眼下には入れ替わり入れ替わり、魔物の脚の先についた、彫刻刀のような爪が出ては消え出ては消え。首筋が冷えたのは、何も魔物に咥えられているだけではない。


 しかし、どうやらのこの魔物に害意があるように見えなかった。吾輩のような子猫対手であれば、この獰猛な魔物の歯牙に撫でられただけでも死んでしまうだろう。


 この頃、漸く吾輩は、己が猫であることを初めて自覚した。前世にあった五本の指はなく、丸く可愛らしいグレーと黒の幼毛に覆われ、隙間から僅かに小さな爪の見え隠れする脚先しかない。そして、息を吸って吐けば、みー、と泣くことしかできない喉。吾輩はどうやら猫に転生していたのである。


 これには正直、僥倖というに他ない。やはり、他人に迷惑を掛けず、ひっそりと過ごした甲斐があったというもの。恐らく、この魔物は子猫の愛くるしさに屈し、巣に持ち帰る気に相違ないと確信した。折角ならば気立ての良い夫人や躾の良い子供に囲まれて、金持ちの邸宅で余生を過ごすのが好かったが、贅沢は言わぬ。この大きな牙と爪に守られて、異界の生活を送るのも悪くはない。


 やがて、魔物は足を止めた。ようやっと巣についたと安心したが、身の毛が弥立つとは正にこの事。藁や枝葉で作られた寝床の上に、魔物と同じ牙と爪を持つ幼獣が歯茎を剝き出しにし、涎を垂らして吠えている。吾輩は天命を識った。異界にあって、吾輩の命は彼らの為にあったのだと。ならばこの命、素直に捧げようではないか。生来、他人の迷惑にならぬよう、静かに静かに過ごしてきた。それは異界も同じである。吾輩は瞼を閉じ、彼らに肉を裂かれるのを待ったが、反してその時、野生が牙を剥いたのである。小さな爪を伸ばし、吾輩は魔物の唇を切った。思わぬ反撃に魔物は大口を開けて吾輩を宙に放った。二メートルほど放られたが、存外に苦も無く、くるくるり、と回って着地した。異界であっても猫、ということだろう。だが、すでに魔物は吾輩に向かって大口を開けている。か弱い吾輩の野生など、本物には敵わぬ。今度こそ天命を果たさんと、身を屈めたときであった。


「こら、何してるの!」


 人の声がした。はつとして振り返ると頑丈そうな革靴が見えた。


「餌にするならもっと大きな大きな魔物にしなさい。子供達で喧嘩しちゃうでしょ! お母さんなんだから!」


 女の声である。天命を邪魔されたことに腹が立った一方、妙な安心感があった。しかし、牙と鱗に覆われた、おっかない顔の魔物めに向かってお母さんとは珍妙な感性である。せめて彼奴の顔でも拝んでやろうと、痛くなるほど首を上げると、月下、吾輩の視界いっぱいに、大きな大きな乳房が映った。顔は見えない。恐らく人間であろうが、その確信がない。それ程おっぱいは大きかった。


 魔物はおっぱいを見て恐れをなしたのか、巣の前で低く唸っているが、それ以上何もしなかった。呆気に取られていると、おっぱいが吾輩を覗き込んだ。


「大丈夫? 怪我はない?」


 魔物は吾輩を活餌にしようと企んでいたのだろう。幸い、おっぱいの心配に反し、噛まれていた首筋にすら怪我はなかった。しかし、問題はこのおっぱいである。女の声で喋るが、顔が見えないため、本当は首なしの化け物やもしれぬ。そう思ったのも、なんといってもその片乳房だけでも人間の頭ほどある。それが二つ。まるで双頭の怪物と相対しているかのようだった。しかし、爪牙の魔物の餌になろうとおっぱいの魔物の餌になろうと、天命ならば仕方ない。吾輩はくるんとひっくり返り腹を向け、降参の意を示した。


 そして、煮るなり焼くなり好きにするといい、と言ってやる。


 みー。


 ところが、吾輩の小さな口から顔を出したのは鈴の音のような泣き声だった。静まり返った夜の森に、おっぱいが息を呑む声がし、遠くで魔物が大いに唸った。


「か、可愛い……なにこの生き物……見たことない」

 

 おっぱいに取って食われる覚悟だった故、面食らった。どうも風向きが違う。


 しかしよく考えれば理解できた。対手に腹を向けてみー、と泣く子猫など、人間に媚び諂う奴らの常套手段である。吾輩も前世、幾度となくその姿を動画サイトで目にし、密かに心を癒したものだ。それを期せずしてやってしまったのである。


「そっかあ。あなた、もしかしてうちの子になりたいのかな?」


 気付けば左右から手が伸びてきていて、あっという間に、人と同じ柔らかな五指に包まれる。まるで絹の手袋でも嵌めているかのような滑らかな心地に、思わず脚を絡めて頬ずりをしてしまう。と、ただ捕まえるだけでなく、このおっぱいは、吾輩をぐんぐん持ち上げているではないか。魔物の頭高を優に越す勢いで地上を離れる恐怖もあったが、愈々このおっぱいにに首の有無を確かめられると期待し、吾輩は首を伸ばした。が、そのままおっぱいに抱き寄せられ、溺れるように豊かで柔らかい谷間に埋められてしまった。一瞬、おっぱいを包む麻の布の素朴な触りが来たかと思うと、湯でも詰めた水枕のような感触が全身を包んだ。これは、存外に落ち着く。しばし踏みつけてみると、肉とも綿とも違う、強く優しい弾みがあった。それに顔を埋め、しばし子猫の心地でいたがしかし、徐々に具合が変わってきた。熱い。苦しい。そもそも、人間の頃であれば嬉しかったものだが、吾輩は猫である。弾力のあるこの二つの球は、確かに子猫を安心させる不思議な力があったが、締め付けられては、どんどん空気が薄くなるだけ。


 吾輩は己の小さな脚先の合間から、耳かきの先ほどもない小さな爪を出し、えいや、とおっぱいを引っ掻いた。だが、おっぱいはより強く、ぐりぐりとその谷間に吾輩を埋める。もしや、これはおっぱいではなく左右に開いた魔物の大顎ではないかと疑ったとき、急に呼吸がしやすくなった。おっぱいが吾輩を急に天へ掲げたのである。


 吾輩の眼前に満天の星空が広がっていた。夜空にではない。齢にして十六、七の少女の双眸が、吾輩をキラキラと見つめている。髪は短く整えられた艶やかな黒色で、肌は恐ろしく白く透き通っている。吾輩はその美しさに見とれ、みー、という言葉すら失った。


「可愛い! あなた、お父さんもお母さんもいないよね? じゃあ、わたしのところにおいで! 今日からわたしがあなたの家族!」


 自分勝手なもので、彼女はそう宣言し、さらに高く、踵を上げて吾輩を夜空に捧ぐ。こうして吾輩は、彼女を主人とし、家宅へ厄介となる運びになった。

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