第9話 美化


 その日の授業が終わり、後はホームルームを残すのみとなった。

 矢島やじまと仲良くなってから、いつのまにか授業もちゃんと一日通して受けるようになっていた。どこにも居場所がないと思っていたのに、今は学校の教室を居場所として認めつつあるのかもしれない。そんな自分の変化に驚きつつも、悪い気はしなかった。

 矢島もバイトで忙しいだろうから一緒に遊びに行くのは難しいだろうが、いつか一緒にカラオケにでも行ってみたい。

 そんなことを考えていた俺の耳に、一人の女子が騒ぐ声が届いた。


「ね、ねえ井口いぐちくん。私のスマホ見なかった?」


 どうもスマホを無くして騒いでいるようだったが、俺には関係ない話だし、改めてバイト探しでもするか……

 だが、気持ちを他に移していた間に、事態は予想外の方向に向かっていた。

 

「なあ矢島」

「なに?」

「お前のカバンに入ってるそれ、浜野はまののスマホじゃないよな?」

「え? いや、僕のだよ」


 なんだ? 最初から話を聞いてたわけじゃないからわからないが、もしかして矢島がスマホ泥棒だと疑われてるってことか?

 矢島に話しかけてるのは確か井口ってヤツだったか。なんでコイツが矢島を疑ってるんだ? 矢島が女子のスマホ盗むわけないだろうが。

 ムカついたが、井口はきっと矢島のことをよく知らないんだろう。そうは言っても、このまま矢島が詰められるのも見たくない。


「お前のだったらちょっと見せてくれるか? ちょっと確認したいから」

「あ、いや、それはやめてくれる? これ大事なものだから……」

「なんだよ。お前のだったら見せられるだろ」

「ダメだって。これ本当に大事なものだから。勘弁してよ」


 俺が考えているうちに、井口はヒートアップしていた。矢島からしたら、スマホは訪問ヘルパーと連絡を取るために必須のものだ。おいそれと他人に渡して壊されでもしたらそれこそ大ごとだ。だがそれを井口が知るはずもない。

 ダメだ、このままじゃ本当にまずい。俺が止めるしかない。


 信じてもらえないかもしれないが、俺はこの時まで、井口をどうにか説得して穏便に済ますつもりでいた。


「じゃあ、渡さなくてもいいから見せてくれ。お前が持ってればいいから」

「それは……」

「なんだよ、できないのか!?」


 だが井口が矢島を怒鳴りつけた瞬間、その考えは頭から消えた。

 なんで矢島がここまで責められなきゃならない? アイツは何もしちゃいない。スマホを盗んだわけでもないし、誰かに迷惑をかけたわけでもない。ただこの教室にいただけだ。いや、むしろアイツは学校にも家にも居場所がない俺に手を差し伸べて、身体の弱いじいさんのために必死に働いている善人だ。当たり前のように親に援助してもらって、文句を言いながら学校に通うテメエらに矢島の何がわかる。何でそこまで責める権利がある。

 激しい怒りが俺の身体を包み……


「ぐっ!?」


 気づけば矢島を責めるクソ野郎を殴っていた。


「ふーっ、ふーっ……」


 そうだ、俺は怒っている。親や兄貴になじられた時も、その苛立ちをケンカにぶつけていた時も、ここまでは怒っていなかった。ここまで息を荒げることはなかった。

 怒りのあまり前がよく見えない。井口が何かを言っているようだがよく聞こえない。

 だが、何かに掴まれたことはわかった。上等だ、やってやる。矢島を攻撃するヤツは俺が叩きのめしてやる。


「おい! 何をやってる!」


 だがその後、また別の手が俺を掴んだことでやっと周りが見えてきた。どうやら教師に見つかったらしい。

 そして俺と井口は生徒指導室に連れていかれることとなった。




 教師は俺と井口の向かいに座り、威圧的に質問してきた。


「事情を説明しろ!」


 この教師は前にも俺が学校でケンカした時に、こうやって高圧的に接してきたので気に食わない。いつもなら俺も相手に合わせて怒鳴っていただろうが、今回の件には矢島も関わってる。下手なことはできない。だから素直に事情を説明することにした。


「……井口が矢島をスマホ泥棒だと疑ってるのを見て、カッとなって殴りました」


 素直に話した俺に面食らったのか、教師も目を丸くしてそれ以上は追及してこなかった。隣に座っている井口も驚いている。


「井口。引田ひきたはこう言ってるが、どうなんだ?」

「……矢島のカバンに浜野のスマホっぽいのが入ってたので、疑ってしまいました」

「矢島が盗んだという確証はなかったんだな?」

「はい。今考えれば行き過ぎた行動だったと思いますし、殴られたのも僕が原因だと思います」


 井口も悪いのは自分であると証言したからか、教師は一息ついて落ち着いた口調になった。


「……わかった。井口がそういうなら私も深くは追及しない。ただ引田、今回は処分なしということにするが、お前も少しは行動に移す前に頭で考えろ。わかったな?」

「はい」

「よし、今日はもう帰っていいぞ」


 いつもより遥かに短い時間で解放され、俺と井口は教室に戻ることになった。



 教室に戻ると、既に大半の生徒は残っていなかった。俺も荷物を持ってさっさと帰ろうとしたが、井口が声をかけてきた。


「引田、ごめんな」

「あ?」

「お前と矢島が仲良かったなんて知らなかったけど、それでも矢島を簡単に疑うべきじゃなかった。だから謝ってる。ごめん」

「……俺も悪かったよ」


 自分でも驚くほど素直に謝罪の言葉が出た。以前なら言えなかっただろう。


「お前らは知らねえだろうが、矢島はいいヤツなんだ。だから簡単に疑われていいはずがねえ」

「そうだろうな。灰崎はいざきに乗せられた俺がバカだったよ」

「灰崎? なんでソイツの名前が出てくるんだ?」

「アイツが矢島のスマホを見て、浜野のじゃないかって言い出したんだよ。どうせ矢島をディスって自分の身を守りたいだけだとは思ったけど、表向きは仲良くしてたから成り行きで矢島を疑っちまったんだよ」


 灰崎……! チンケな野郎だとは思ってたが、まさかそんな姑息な手段に出てやがったのか?


「まあでも、今回のことで俺もわかったよ。灰崎はクソだ。前々からなんでもかんでも『理解できない』とか言って見下してるのが気に入らなかったけど、決定的だな。アイツの『理解できない』は何もしない自分を正当化するだけの言い訳だ。お前に殴られたのも授業料を払ったと思っとくよ」

「そうか。なら後は矢島にも謝っておけよ。アイツはスマホを盗むような人間じゃねえからな」

「そういや、お前ってなんで矢島と仲良くなったんだ?」

「それはな……」


 こうして俺は、矢島との間にあった出来事や、矢島が置かれている状況を井口に話した。

 一通り話し終えた後、井口は真剣な表情で俺に言った。


「……ちゃんと謝らないとな」


 ああそうだ。ちゃんと矢島の事情を知れば、アイツへの嫌悪感なんてなくなる。

 だが一方で、灰崎にはそれを期待できなかった。アイツはダメだ。いくら矢島の事情を話そうと、灰崎が矢島を理解することはない。


 矢島が許すなら、すぐにアイツをボコボコにしてやりたい。それほどまでに俺はキレていた。



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