引田
第7話 奇声
「ただいま」
そう言っても、俺に「おかえり」と挨拶を返す人間はいない。一人暮らしではなく、家族と同居しているのにも関わらずだ。
時刻は午後11時。高校生の帰宅にしては遅いかもしれないが、バイトや塾に通っているヤツでもこの時間に帰ることはあるだろう。
だが、
「おいお前、またこんな時間まで遊び歩いてたのか?」
そう言って心底見下した目を向けてきたのは、三歳上の兄貴だった。
「悪いかよ」
「遊び歩くことは悪くねえ。だがそうしたいなら、この家を出て行って俺の弟であることもやめろ。お前だってこの家嫌いなんだろ? だったらなんで出て行かないんだよ?」
「……」
「ほら黙った。俺の言ってることが間違ってないってお前もわかってるから黙ったんだろ? 本当になんでお前みたいなクズが俺の弟なんだよ。父さんも母さんもお前のことは早く捨てたいのに、なんで早く出て行かないんだよ? 悪いと思わないのか?」
「うっせえ! 俺が気に入らないなら兄貴が出て行きゃあいいだろうが!」
「なんで俺がお前なんかのために動かなきゃならないんだよ。お前が動け。この家における異物はお前なんだからな」
今の会話ひとつとっても、兄貴が俺を心配しているわけじゃないのは明らかだ。むしろ俺のことを心の底から嫌っている。引田家に生まれていながら普通の公立高校にしか進学できず、しかもその中でも問題児として扱われている不出来な弟。兄貴からしたら、それだけで俺を許せない理由になってしまうんだろう。
その一方で、兄貴はいわゆる「将来を約束された人間」だった。誰もが名前を知っているような大学にトップで合格し、体育会系の部活で次期キャプテンと言われている。屈強な体格に優秀な頭脳を兼ね備えた、まさに文武両道を体現したような男だ。この先、何の問題も起こさなければ一流企業に就職して十数年働いた後、親父の会社に迎え入れられ後継者となるという将来を誰もが疑っていない。
そしてその将来を脅かす問題を起こしそうな人間は、兄貴本人ではなく俺だった。だからこそ、俺はこの家に居場所がなかった。
俺にも自分の部屋はあるが、四畳半のスペースに必要最低限の家具しかない。クローゼットなんてものもなく、制服も私服も乱暴にかけるしかなかった。
子供の頃から、兄貴と俺の扱いの差は歴然だった。そりゃそうだろう。親父からしたら、自分の能力を引き継いでない息子なんて不要だ。高校に入る頃にはもう、親父は俺をいないものとして扱っていたし、俺もあんなヤツを親として見れなかった。
この家に俺の居場所なんてない。じゃあどこにあるのか?
学校でも俺は浮いていた。身体のデカさだけは親父の血を引き継いだ俺は、学校内や路上で暴力を振るうという形で家での鬱憤を晴らしていたからだ。そんなことをしてもどうにもならないことはわかっている。だけど他に解決策も思い当たらない。他のヤツだったらこのどうにもならなさを親や教師、もしくは友達に相談するもんなんだろうが、俺にとってそいつらこそが『どうにもならなさ』を生み出す原因だ。解決策なんて出てくるわけもない。
家でも学校でも路上でも、他人が俺に向けてくるのは『ああはなりたくないな』という軽蔑の視線だった。俺からしたらこうなるまでの経緯はハッキリしているのに、誰にもそれを理解されることはない。
俺はロクな死に方しないだろうな。そんなことを他人事のように考えていた。
そんなある日、俺はいつものように夜の繁華街の路上に座り込み、スマートフォンでゲームをしながら殴っても怒られなさそうなヤツを探していた。
「おう、引田じゃねえか。今日も獲物探しか?」
声をかけてきたのは、同年代の不良グループだった。俺が毎日のように路上でケンカしているのを見て、たまに用心棒代わりのことを頼んでくる奴らだ。ケンカの相手はチンピラだったり他グループの不良だったりそこらのオッサンだったりだが、報酬としてある程度の金はくれるので付き合ってやった。
ただ、こいつらも別に友達というわけじゃない。ヤバイ時の捨て駒として俺を利用するつもりなのは見え見えだったし、それを隠そうともしていない。こいつら一人一人の名前もよく知らない。
だけどそれでよかった。どうせまともな人生は送れないんだから、生き延びてたって仕方ない。
「悪いんだけどよ、また頼まれてくれねえか?」
「いいけど、今日の相手はどんなヤツらなんだ?」
「いや、今日はケンカじゃねえよ。先輩から頼まれたバイト手伝ってほしいんだ」
そう言ってリーダー格の金髪は俺にスマートフォンを差し出してきた。
「これに入ってる連絡先に電話かけて、指定された時間に指定された場所に行け。そしたら紙袋渡されるからそれを相手が言った通りの場所に持っていけ。そしたら5万やるよ」
金髪はニヤニヤと笑いながら仲間の一人が持つ茶封筒を指し示す。封筒から万札の端を見せて、「ウソじゃねえよ」と言ってきた。
いくら俺でも何かの犯罪の片棒を担がされるんだろうと気づいたが、どうでもいい。むしろ俺が大きな犯罪に加担することで、兄貴の名誉に傷をつけられるならむしろスカッとするかもしれない。
俺が幸せになれないなら、兄貴を不幸に陥れてやる。
そんなことを思いながら、スマートフォンを受け取ろうとした時だった。
「引田くん?」
横から声をかけられて目を向けると、そこには同じクラスの小太りの男子がいた。確か名前は……
「
「今バイトの帰りなんだよ。引田くんこそ何してるの?」
「あ、いや、これは……」
「なんだ、引田の友達か? 悪いんだけど、俺ら大事な話してんだよね。出直してくんない?」
金髪は矢島に凄んで帰らせようとしている。向こうからしたら俺を捨て駒にして安全に金を得ようって算段のはずだから、矢島にこの現場を見られるのは不都合でしかない。
矢島も他のクラスメイトと同じで、俺と話したことはほとんどない。面倒事に関わってしまったと思えばすぐ帰るだろう。
「出直さなかったら、どうします?」
「あ?」
しかし俺の予想に反して、矢島は金髪に食い下がった。
「僕もさっき来たばかりですけども、そっちが引田くんをなにかいけないことに誘おうとしてるのはわかりますよ。なのでちょっとここは引き下がってくれます?」
「なんで君にそんなこと言われなきゃならんの? あれ? もしかして俺らに勝てるとか思ってる? デブの陰キャが夢見ちゃだめだよー?」
「勝てるとは思ってませんよ」
そう言うと、矢島は突然上を向き。
「あひああああああああああ!!」
口を大きく開けて、大きな奇声を発し始めた。
「ああああああひいいいいあああああああ!!」
あまりに大きな声なので俺も金髪たちも耳を塞いでしまう。その上周りの通行人たちも何事かと矢島を見ていた。
「お、おい、なんだよコイツ面倒くせえな!」
「行くぞ! いくらなんでも目立ち過ぎだ!」
矢島の奇行にドン引きして、金髪たちは離れていった。それを確認した矢島は口を閉じる。
「や、矢島? 大丈夫か?」
「うん大丈夫。引田くんこそ大丈夫だった? あの人たち、あんまりいい友達じゃないんでしょ?」
「そ、そりゃそうだけどよ……もしかしてお前、俺を助けてくれたのか?」
「助けたってほどじゃないでしょ。ただほら、引田くんもあんまり乗り気じゃなさそうだったし、声かけた方がいいかなって思っただけ」
矢島からしたら、別に大きな意味があって言った言葉じゃなかったのかもしれない。
『声かけた方がいいかなって思っただけ』
それでも俺は、その言葉に救われた。俺という人間を認識して、声をかけてくれるヤツがいたことに。
「なあ矢島」
「なに?」
「また明日、学校でな」
「……うん!」
だからこの日から俺は……矢島と話すようになったんだ。
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