第72話 のぶ子

 のぶの席は空いたままでした。荷物も何一つ残っていません。

 甲助こうすけ圭助けいすけが騒いでいても、のぶ子は教室に入ってきませんでした。

 いつもみんなより先にこの教室に来ていたのに、です。

 がらっと勢いよく扉を開けて教室に入ってきた先生とごあいさつしたあと、さっそく学級委員の菊子きくこがききました。

 「先生、三枝さいぐささんは? 病気で休みですか?」

 甲助と圭助がおどろいたようにのぶ子の席のほうを見ます。平太へいたもゆっくりと振り向きました。

 振り向いて、かなえと目が合います。でも、平太は今日はあわてて顔をそむけたりせず、かなえの顔を見ていました。

 「いいえ」

 先生が落ちついた声で答えました。

 「三枝さんはもういません」

 うん、と、かなえはうなずきます。

 はじめてきいたのですが、そうだろうとすぐに思ったのでした。

 「どうして……いやっ、どうしたんですか?」

 甲助が先生にききます。先生はうなずきました。

 「昨日、お父さんといっしょに出発したはずです。昨日が休みだったでしょう? それで、ごあいさつができないまま」

 「いや、そんな……」

 圭助がため息をつくように言いました。

 かなえは、何を考えていいかわかりませんでした。

 いや、考えなければいけないことの道筋が二つありました。その片方を追うことにします。

 そうだ、急な出発だったのだと思います。

 お母さんが、昨日、朝ご飯抜きで、しかも三時のおやつの時間に追われるように昼ご飯を食べるかなえに話をしてくれました。

 昨日の朝、まだかなえが寝ている時間に、のぶ子のお父さんがのぶ子を迎えに来たのだそうです。のぶ子のお父さんは急いでいるようだったということでした。

 それで、お母さんはかなえを起こそうとしてくれたみたいですが、のぶ子が

「かなえちゃん、ほんとに夜明けまで起きてるんだ、ってがんばってましたから」

と止めたというのです。

 「あの子、ほんとに優しい子よね。なんていうのかな、落ちついて、笑って、かなえのこと、そんなふうに」

 それで、のぶ子は自分の荷物をまとめてお父さんの車で帰って行ったということでした。

 そのときには何とも思わなかったのですが、つまり、急ぎの旅立ちだったのでしょう。

 昨日の午後、かなえが目覚めたころには、あののぶ子はたぶんもうこの街にはいなかったのです。

 先生は説明しました。

 「三枝さんのお父さんが会社から呼ばれたそうです。この地方でそのレアアースという資源を採掘さいくつする目処めどは立たないから、また別の仕事を頼まれたということですよ」

 「じゃあ」

と甲助が大きい声でききました。

 「またどこかの山で資源……調査っていうこと、ですか?」

 最近になって、先生が、先生にものを言うときには「です、ます」をきちんとつけなさいと厳しく言うようになったので、甲助もそうするようにしているのですが、まだ慣れていません。

 ふだんなら、笑ってやるのですが。

 先生はうなずきました。

 「そういうことです。三枝さんのお父さんは、深い専門的知識をお持ちで、ほかになかなかかわりがつとまる人がいないから、いろんな仕事を頼まれるのだそうですよ」

 「じゃあ」

 甲助は、すがるようにじっと先生の顔を見て、けんめいに、とでもいうようにたずねました。

 「あいつ……いや、のぶ子……いや、三枝さんは、また、ちょっとだけどこかの学校に行って、またお父さんの仕事について……」

 最後まで言えなかったようです。また転校を繰り返すのか、とききたかったのでしょう。

 先生は落ちついて首を横に振りました。

 「三枝さんももう五年生だし、そうやって転校を繰り返しているのもよくないということで、三枝さんのお父さんとお母さんとで相談なさって、東京のほうに家を決められたようですよ。お父さんはあちこち出張なさいますが、三枝さんはそこで学校に通うのです」

 「東京かぁ……」

 甲助が大きなため息をつきながら言いました。

 ああ、わたし知ってる。

 それは、東京の大田おおた区というところで、空港に行く電車が走っている街だって……。

 そう言おうとして、やめました。

 同じことです。

 知っていても、知っていなくても。

 東京まで、新幹線に乗ったとして、いったい何時間かかるでしょう?

 少なくとも、一時間では行けなさそうです。

 子どもでは行けない遠いところに、のぶ子は行ってしまったのです。

 それが、いまかなえが考えた一つの道筋です。

 でも、もう一つの考えは、その道筋をたどるまでもなく、答えは決まっていました。

 のぶ子は、そんなところに行ったのではない。

 そして、それを知っているのはかなえとのぶ子だけなのです。

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