第66話 魔女

 1枚の大きな絵を描こう。


 細部まで自分で手を加える必要はない。


 寧ろむしろそのほとんどは、より優れた者の手に委ねられるべきで、それでも主導権は私が握ることにした。


 全ては私……いや、という個人がわたくし自身の意思で生きる、その目的のために。

 生きた証を築き上げるために。

 全てを滅ぼし、後には静かな、静かという認識すらない静寂を手にするために。


◆◆◆◆


 椅子に腰掛け眠っていた自分という存在を彼女は目覚めと共に意識する。


 あくびは無く、ただ目覚めたという状態へ移行したとも言えそうな間断の無い覚醒は、どこか機械に似ていた。


 そして、この部屋は彼女から見て左手の壁が一面窓ガラスの、高層ビルの上層。

 高さという意味で俗世から隔離され、片付いた廃墟のような一室は、コルバンと対談したその時と同じく生活感や飾り気というものに欠けていた。


 強いて言うなら彼女——ジェーン・ドゥと近頃名乗るその女こそ、この部屋唯一の飾り気と言っても良い。

 それほど目覚めたばかりで他人を気にせず、表情を繕わぬ彼女という存在は人形を思わすアートに似ている。


 そして真っ白な寝巻きのまま、腰掛けたまま前方へ目をやると、すぐ目の前で朝餉あさげを盛った皿が目に付く。


 未だに湯気が立っていた。

 たった今用意されたので。


 彼女は無言のままナイフへ手を伸ばし、献立は軽めに、バターを塗られたトースト1枚、エッグスタンドに乗ったゆで卵一つ。

 本当はこれだけで十分でも、今日はこれにスープが加えられていた。


 料理人に文句を言うわけではないが、要らぬと言っても献立を追加してくる気まぐれはどうしたものかと思わなくもない。

 そうした感情が、彼女のかんばせへ表情を誘発。


 そして、まずはナイフを手に取りゆで卵の上部を蓋のように切り開こうとして——


——視界の端へスマートフォンが出現する


 バイブ音に目を向けた。

 こうした機器のこだわりは薄いため、とりあえず一番新しいのを、ということで先日手配した機種。


 食事を妨げられたことへ憤慨は無く姿勢を直しナイフを置いて、側から見ればしばらく浮いているようだったそれを手に取り、横目で通話相手を確認。


 受話器を上げるマークを押して


「……もしもし」


 身内へ向ける穏やかな声。

 対し、スピーカーからは「お邪魔ではなかったですか?」という丁寧な少年の声。


「邪魔なんて……あなたには危険な役を任せていますもの」


 そう言って朗らかに笑い、そのままに


「……して、要件は?」


 速やかに本題を切り出す。

 これは彼女の拙速せっそくではなく、相手の性格に合わせた対応。

 対し、少年は端的に次のことを述べてゆく。


 一つ、無事『外道者アウトサイダー』の根城たるマンションへ潜伏できていること。


 二つ、そろそろ直接連絡を取るのも難しくなりそうで、電話をした次第であること。


 三つ、今のところジェーン・ドゥの未来は無く、観測した未来より乖離かいりした事象は起こっていないこと。


 この三つを。


「つまり、首尾は上々と?」


 「そうです」という返事。


「それは素晴らしい」


 嘘偽りなく褒め称えた。

 そして彼女はやや考えるように口の中で話す内容を溜め込み、


「さて、これよりの動きは以前お伝えした通り、表向きは指示通り動いているように見せてください……ふふっ」


 少しだけ笑みをこぼす。

 それを通話相手の少年は「やけに楽しそうですね」と指摘。


「楽しそう?それは……確かにそうかもしれませんわ。あのコルバンという男。中々可愛らしい殿方でして……彼が全て失う所を想像したら……いえ、これは聞かなかったことにしてくださいまし」


 少し恥ずかしげに言って、それからこれよりやってもらうことの変更点をいくつか伝えた上で二言三言、言葉を交わし通話を切る。


 しばらくその切った直後の画面を眺め、顔を上げるとそのスマホを無造作に背後へ放り、それは空間へ吸い込まれたがごとく消え失せる。


 そして、指先を楽しげに食器の上で踊らせナイフを手に取り、ゆで卵の上部を切り取ると、スプーンに持ち替え、半熟の黄身を掬い口へと運び、小さな唇の隙間へ滑り込ませた。


「……おいしい」


 思わずそう言って口元へ手を当てる。

 その内側で舌先がチロリと唇を舐めて……赤く。


 彼女のその声は素の感情が少し出ていた。

 そのことに気づき、気を取り直すように軽く咳き込み、再び、長く味わうため少しずつ食事を進め、


「では——」


 他には誰もいないこの部屋で、話しかけた。


「あなたに1つおつかいを……」


 誰が聞いているのか。

 誰もいない。

 そう見えた部屋にほんのりと人影が浮かび上がる。


◆◆◆◆


——寒い風吹き荒ぶマンションの屋上にて


 自身が真に慕う彼女と通話を終えた少年は少し緊張をほぐしつつため息をつく。


 気を張る必要は無いと何度も言われているものの、やはり彼女の存在が自身の心の支えとして割りを占めている事実を実感する。


 そう考えればこの緊張は崇高なる存在へ向ける敬慕と同義ではないか。

 そういう解釈をして、少し気を落ち着けた。


 それはそれとして、手の内にあった安いスマートフォンを眺める。


 あの人は、「せっかくなら良いのを買って良い」と言ってくれたものの、それでもちょっと悪く感じ、安いものを選んでしまったのを覚えていた。


 その時の表情は普段通り微笑んでいたものの、やや不貞腐れた感じの含みを持っていたのは明らかで、それもさほど悪い気分ではなかった。


「ふふっ」


 笑う。


 とはいえ彼女は本質的に気まぐれな性格のようで、その興味を向け続けてもらうためにも仕事は完璧に遂げるべき。


 そうして、小さく奮起しつつスマートフォンからそれまで使っていたSIMカードを抜き取り指先ですり潰し、そして床に放り、その際、床の汚れが目に付く。

 誰かがタバコの灰でもぶちまけたのか、黒々としたシミがコンクリートに描かれていた。


「誰だ、これやったの……」


 行儀がなっていない。

 そう言いいつつ、口元をポリポリと掻く。

 ちょうど黒いホクロのある位置を。


 そして、そんなことはどうでも良いと、あらかじめ用意した別のSIMカードをポケットから取り出してスマートフォンへ挿し込んだ。


 そうして電話アプリをタップ。

 連絡先には1件たりとも登録した番号は無いものの、頭の中へ刻んだ各種電話番号のうち1つをキーパッドの画面で叩いて発信。

 ワンコール……


「俺だ」


 という、これまた聞き慣れつつある声。


 個人的に彼の性格には好感を持てる。

 その好感ゆえ目的を妨げるほどではないものの。

 そういう冷酷さ、ある意味割り切りの良さが少年の本質と言って良かった。

 だからこんな役に向いていると判断されたのだが、


「どうもコルバンさん。です。そろそろ直で連絡するのもキツそうなので念のため電話させていただきました」


 そう言って彼は狐のように細い目をさらに細めた。

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