純粋なもの

oniwa-pan

短編①

 その日の夜、恵子は冷蔵庫の前で立ったまま、ウィスキーのロックを飲んでいた。彼女は昼にアンケート調査の仕事をし、夜にバーのウェイトレスをしている。バーの方は夫の達也と二人でやっていた。店は古い民家を改装したもので、裏手を電車が通るたびに棚の中のグラスや皿が揺れた。今日はもう客が来ないだろう、と恵子は思い、冷蔵庫に寄りかかりながら夫の背中をぼんやりと見つめた。夫の達也は腰をかがめ、アイスピックで氷を砕いていた。彼女は、昼の職場で同僚から聞いた話をした。

「その人は犬を飼っているんだけど、この前仔犬が生まれたらしいの。七、八匹生まれたんだって。今、職場で引き取り手を募集してるわ」と彼女は言った。

「犬ってやつは、一度にたくさん生むんだな」

「私、仔犬が欲しい。仔犬を飼いたい」

 達也は妻の方をちらりと振り返ってから、作業を続けた。

「私、仔犬を飼いたいの」と恵子は繰り返した。

「そんな余裕ないだろ」と達也は言った。

「子供の頃、犬が欲しかったってあなた言ってたよね?」

「覚えてないな」

「ああ、日々の労働が人の心を貧しくしてしまう。あんまりじゃない。私たち、枯れた木みたいに死んでいくのよ」

「もうよそうぜ。犬を飼うやつがみんな純粋ってわけでもないだろ?」

「いいえ、純粋よ」と彼女は言った。「純粋さ、それがまさに問題なのよ」

 達也はテーブルを拭き、余り物のクラブサンドをつまんだ。

「じゃあ、鶏を飼っているあいつらは純粋なのか?」

「隣に引っ越してきたご夫婦のこと? うん、そうだと思うわ」

「俺はそう思わない」と達也は言った。「夫の方は、車をコミュニティーセンターに停めっぱなしにしている。あそこは利用者だけが使える駐車場のはずだ。違法駐車をしてるってことだ」

「まだルールをよくわかってないのよ。引っ越してきたばかりだもの」

「いや、わかってるだろう。あいつはずるをしている」

「いずれにせよ小さな問題よ」と彼女は言った。「あなた、本当は犬が嫌いなんでしょう?」

「そういう問題じゃない、ただお金がないんだ」

「いいえ、嫌いだからよ」

 翌朝、達也は鶏のガーガー鳴く声で目を覚ました。カーテンを薄く開けると、小柄な男が鶏を柵の外に出し、運動させてやっていた。鶏たちは首を曲げて毛繕いをしたり、やわらかそうな畑の黒い土を突いていた。隣家の妻と思われる女が玄関から出てきた。はっきり言って、太っている。男は親密げに妻とキスをしてから、道路の向こうに消えた。違法駐車している車のところへ向かったのだろう。達也は再びベットに戻ったものの、気が高ぶっているせいでうまく寝付けなかった。

 達也がコーヒを入れていると、恵子も一階に降りてきた。

「コーヒー飲むかい?」と彼が言った。

「うん、ありがとう」

 二人は無言でコーヒーを飲み、トーストを食べた。達也は、カレンダーの今週末の枠に「×」が書き込まれているのを見た。あの印はなんだい? ああ、町内会の温泉旅行があるのよ。そうか、そう言えばそうだったな。あなた、今更行きたいなんて言い出さないわよね? いや俺はいい、ただ印が気になっただけだ。

 二人は夕方にペットショップを訪ねた。ペットショップには犬や猫のみならず、熱帯魚や昆虫のケースもあった。恵子はガラスケースごしに指を当てて猫と戯れた。

「こうやって遊んでると、実際に飼ってるみたいじゃない?」

「確かにそうだな」

「いっそのこと、バーを閉めてペットショップをやるってのはどう?」

「まあ、それも面白いかもしれない」


 玄関のチャイムが鳴ったとき、達也は眠っていた。椅子に座ったまま寝ていたせいで、身体のあちこちが痛んだ。昼時だから、妻はもうバイトに行ったのだろう。何も考えずに、達也はドアを開けた。訪問者は小柄な男だった。男は妙に新しい作業服を着ていて、それがなんだか黒くて硬そうな肌と不釣り合いな感じだった。男はなかなか話し始めなかった。奇妙な考えだが、この男は唖なのではないか、と達也は思った。

「どなたですか?」

 達也が話しかけたことでようやく口を開く条件が満たされたみたいに、男は満足げに頷いた。

「突然押しかけてすみません、サカモトと言います。隣に引っ越してきたもんです。だいぶ遅れてしまったんですが、ちょっとご挨拶に、と思いまして」

「それは、どうも」

 達也は再び男を見下ろした。

「いやあ、この辺りは本当に空気が美味しいですよね。前は五反田の方に住んでいたんですが、あそこは街全体が業務用の倉庫みたいな感じでしたよ。それに引き換え、群馬はいいですね、やっぱり」

 サカモトは一瞬の間を作り、達也を観察した。

「今、お取り込み中ですか?」とサカモトは言った。

「そういうわけではないですけど、何の用事ですか?」

 達也は、相手のペースで会話が進むことに少し苛立った。

「そろそろ店の仕込みを始めたいので、手短にしてください。困るので」

 サカモトはゆっくり頷いた。

「今週末に町内会の旅行、あるじゃないですか。それで僕と妻が不在の間、鶏の面倒を見ていただけないかなと。そういうお願いなんですが」

「それなら私は適任じゃないですよ。だいたい動物の世話、したことないですし」

 と達也は言った。鶏なんて触りたくもない、と思った。

「わかります、僕も、親がアレルギーだったから、猫とか犬とか飼ったことなかったんですよ。小さい頃にペットを飼う習慣がないと、なかなか動物と暮らそうって気にならないもんですよね。だから、家内が鶏を飼いたいと言い出したときには、僕も反対しましたよ。でも、家内の言うことはだいたいにおいて正しいんです。今回もそうだった。動物はいいですよ、特に鶏はいい。なんてたって早起きになりますから」

「……」

「昼と夜の二回、配合飼料を与えてくれたらそれでいいんです。すみません、引っ越してきたばかりで他に頼れる人がいないんです」

「……しかし」

「どうかお願いします」

 サカモトは頭を下げた。そうやってお願いすれば引き受けてくれるだろう、という魂胆が透けて見えた。

「お願いします。鶏のことが心配なんです」とサカモトは重ねて言った。

「……ええ、わかりました」

「え? いいんですか?」

「……はい」

 達也はうんざりしていた。こういう道徳的な問題には選択肢があるように見えても、実際は行動が強制される。達也が鶏の世話を引き受けたのは、同情や親切心からではなく、ただそうしなければならないだろうと漠然と思ったからだった。

 達也はサカモトの感謝の言葉を遮って、話題を変えた。

「そういえば、今年は熱海に行くんですよね?」と達也は言った。

「はい。今年は、というか、毎年恒例らしいですけどね」

「そうなんだ」

「あれ、行ったことないんですか?」

「まあね。妻は毎年行ってるんだけど。今年も妻は一人で参加する予定だ」

「そうなんですね。てっきり、奥さんは今年参加しないもんだと思っていました」とサカモトは言った。

「なんだって?」

「奥さんは参加しないと思っていました、すみません。参加者リストに名前が書かれていませんでしたから。あれ、隣のご夫婦は出席しないんだね、と家内と話したから記憶に残ってるんです」

「リストの記載漏れか何かだろう、きっと」

「まあ、そうかもですね」

 サカモトは腕時計をちらりと確認した。

「もうこんな時間か、そろそろ失礼します。お邪魔しました。鶏の件はありがとうございます」

「こちらこそ」

 達也は部屋に戻った。温泉旅行の件で恵子に電話を掛けたが、繋がらなかった。まあ帰ってきてから聞けばいい、と思った。彼は閉めっぱなしだった寝室のカーテンを開けた。秋のひんやりとした風が吹き、緑色の樹の影が揺れた。思わず欠伸をすると、濡れた瞳は風景の境界をぼんやりしたものにした。

 恵子はバイトから戻ってくると、ショルダーバッグを床に下ろし、肩を揉んだ。達也は彼女の一つ一つの動作をつぶさに見ていた。

「どうしたの?」と恵子は不審そうに言った。

「なんでもない」と彼は言った。達也はサカモトとのやりとりの内容を伝えた。

「そうなの」

「旅行の件は今すぐ、担当者に確認したほうがいいと思う」

「そうね。そうするわ」

「電話はここで掛けなよ」

「どうしてそんなこと指示するの?」

「だって急いでるんだろ?」

「確かにそうだけど。よくわからないわね」

 彼女は自分の部屋に行き、電話を掛けた。

 土曜の昼に、達也は約束通り隣家に向かった。鶏は彼の存在にずっと前から気づいており、黒いビーズのような目を怠りなく注いでいた。彼が配合飼料を入れた皿を置くと、鶏たちは量感のある脚を動かして近づいてきた。もそもそとした家禽らしい動きには愛嬌があった。スニーカーの匂いを嗅ぐのもそのまま好きにさせて、彼はしばらく鶏を観察していた。彼は小屋の中にあった卵二つを手に取り、家に戻った。

 彼は旅行中の妻に電話を掛けた。

「なに?」と彼女は言った。

「今、鶏に餌をあげてきたところなんだ」

「へえ」

「君は今どこにいるの?」

「まだバスで移動中よ。用がないなら切るわね」

「かまわないよ」

 彼はあらかじめ買っておいた小説を読んだ。しばらくしてからまた妻に電話を掛けたが、今度は繋がらなかった。コーヒーを入れ直し読書を再開しようとしたが、苛立ちのせいで文章が頭に入らなくなっていた。

 いつの間にか窓の外は深海魚の水槽のような青黒に沈んでいた。鶏だ、と彼は思い出した。懐中電灯で道を照らしながら、隣家に向かった。風が強く吹いていて、鶏小屋の扉が軋みながら開閉していた。内臓を食い荒らされた鶏が一羽、柵に寄りかかっていた。他の鶏たちはたぶん柵の外へと逃げ出したのだろう。

 彼は麻痺状態から立ち直ると、手遅れながら、今度はしっかり柵の鍵を閉めて道に向かった。彼は動悸する胸に手を当てた。大丈夫、代わりはいくらでもいるさ。

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