第27話 物語

 鳳稀梢が黒森の屋敷をあとにして、ふつか経った。

 別れはあっさりしたものだ。

「今日、次の国に行こうと思います。長いあいだ軒を貸していただきありがとうございました」

 そう言って、来たときと同じ姿で玄関を出て行き、

「しばらくは西方諸国をまわります」

 と、スイス行きのバスに乗った。

 そういえばここ、プロイセン公国のまえにはどこを巡っていたのか、これからどこへ行くつもりなのか、訊いたことはなかったな、とエルンストが思い至ったのは、彼が出て行って一時間もしたころだ。

 彼は決して口数のすくないほうではなかったが、自分のことはほとんど話さなかったな、ということにも気がついた。

 たかだか一ヶ月ほどの滞在だったし、彼は昼間はほとんど外出していて、夜もいたって静かに過ごし、夕刻、エルンストやレクセアと、たいていはふたこと、みこと、たまにじっくり雑談をする程度の付き合いだった。

 それでも、いなくなってみると物寂しいとエルンストは感じた。

 鳳稀梢は、ある種の明快さをまとっていた。その明快さは、自分自身のことを『割り切っている』ことから来ている。旅のおりおりに出会う人々とは、結局は別れゆくものなのだと彼はみずから線を引き、それ以上は踏み込まないし、踏み込ませない。

 思い起こせば鳳稀梢は、エルンストやレクセアを愛称では呼ばなかった。気がつけば名で呼んでいた。それは彼の線引きだったろう。

 鳳稀梢はよそよそしくはない。むしろ気持ちの良いつきあいができる。気持ちは良いが、どこまでいっても「届かない部分」、「描けなかった輪郭」があって、だから別れてみるとすこし物寂しくもなる。

 それは鳳稀梢もまた、おなじだろう。が、彼はそれを良しとしている。

 たぶん、彼はみずからの来し方について、「くあるべし」と割り切れる『物語』を手に入れたあとなのだ。だから、他人を求めない。

 その物語がなんだったのか、エルンストには分からない。ただ、いま振り返れば、その明快さが眩しかった。

 羨ましかった。さきになにかを乗り越えた……あるいは、乗り越えざるを得なかった鳳稀梢をうっすらと妬んでもいた。

 人の来し方は曖昧で、たくさんの人々の思惑と出来事、生まれ落ちた時代、巡ってきた運が幾重にも折り重なり「だれが悪い」「なにが良い」「これが原因」「こうすれば良かった」などと単純に割り切れたりはしない。

 人の来し方は、『物語』ではないのだ。

 その曖昧さを曖昧なまま受け入れるのも人の在り方のひとつだろう。

 在り方のひとつというよりは、それこそが強さだ。

 割り切れないものを、割り切る方法すら分からないまま、『割り切れないものだ』と覚悟して生きていく。

 自分に、それができるだろうか?

 『物語』すら必要のない、強さ。

 ――無理だろう。

 エルンストは自分が自分であること、その理由、「斯くあるべし」の物語を手に入れたかった。

「君のことが知りたいんだ――レッキ」

 だからエルンストは始めることにしたのだ。

 ほんとうなら三百二十年前、レクセアに出会ったときに始めていなければいけなかった、彼らの物語を。


「わたしは、テパネカ王国の王家の祭祀を預かる家に生まれました」

 エルンストの求めに応じて、レクセアはそう、口火を切った。

「神に捧げる供犠の心身を清浄に保つための医術の技法と、『血』を伝える一族です。見た目はほとんど人間と変わりありませんが……わたしの一族は人間ではなかった。顕著なのは寿命がすこし長いことでしょうか。永遠ではないと思います。でも、たいていべつの理由で亡くなるので、どのくらいまで生きられるのかはよく分かりません。わたしたちは神殿の奥深くで暮らしていました」

 レクセアは居間の椅子に座り、エルンストを腿の上に置いて頭を軽く手で支えていた。エルンストにとってはレクセアの顔が見えないのが不満だった。が、レクセアは見つめ合いたくないのだろう、そう察して我慢した。

 それに、この場所は悪くないのだ。

 レクセアの腿から、手のひらから伝わる体温が心地よい。

「すべてが変わったのは西方諸国との戦争が始まってから。戦争ではたくさんの王族が死にました。テパネカ王国の王族は勇猛であることを誇っていて、つねにみずからが軍を率いて戦いました。そしてわたしたちは禁忌に手を伸ばしてしまった。――致命傷を負い、死にゆく王の身体を、健康な者の身体と取り替えたのです」

 レクセアの手に,動揺はなかった。そのことは彼女にとって、もう過去のことなのだろう。

「王族の身体は不可侵で、たとえそこにどんな傷があっても、それこそが神の栄光を讃える神への供物である。そうされて来たのです。王族でない者を神が受け入れるときには、特別な清浄さが必要でした。生贄の身体はテパネカ王族ではなく、それゆえに一点の傷もあってはいけない。最初に王の身体を処置したのは母ではなかったと思います。母の姉か、あるいは母の従妹か……王の奇跡の復活に国が湧くさなか、母は怒り狂っていました。「もう我々はおしまいだ」と。実際、おわりでした」

 頭に触れた手が心地よかった。

「わたしたちの秘技には、わたしたちの肉体の一部が必要です。女には月に一度、余分の血が流れます。おおきな秘術には腹に芽生えた命を使います。だから秘術は女にしか伝承されなかった。男も才能さえあれば使えますが、彼らが秘術を使うには、必ず他人の肉体が必要になってしまう。むろん、女も『いまだ生まれざる子』だけでなく、他者の肉体を使うときもあります。そう、身体を取り替えるような……大秘術には、一族の男か、老いた女を。それらを薬で溶かし、繋げるべき身体に流し込む。そうすれば本来、別の肉体であるはずのものが『馴染む』のです。断面の血管や神経を最低限、つなぎ合わせれば、ふたつの肉体は結合する。王の復活にはわたしの祖母がその身体を捧げました」

「そうか。それで……君たちはつぎつぎに『使われ』たのだな」

 エルンストにも彼女たちの行き着く先が分かった。

 戦いは厳しくなる。王族はどんどん傷つくことだろう。

 そして一度手に入れた奇跡を、彼らは手放さない――

「奴隷とおなじように檻に入れられ、必要に応じて『使われ』ました。秘術を使うことを拒否する女は最優先で『使われる』。母は王に命ぜられるままに秘術を行いました。戦に傷ついた王族だけではなく、自分が目をかけている将軍や貴族たち、毒蛇に噛まれた王女、愛妾の些細な怪我……王の求めることはどんどん『軽く』なって行きました。月に一度流れる血では追いつかない。腹に宿る子でも追いつかない。おなじ血を持つべつの家系の女も、男も、こどもも、果てはみずからの両親も、兄も、従兄弟姉妹たちもみんな『使い』ました。わたしを『使う』優先順位はもっと早かったはずですが、母が懇願したことで後回しになりました。わたしには才能はあった。母はわたしの才能を高く評価してくれていました。でも、男だったのです。母の後継者にはなれなかった。だから『使われる』のは母の従妹たちより本来は早かったはずです。母がわたしを必死にかばってくれていたあいだにも、一族はどんどん数を減らしていました。子をなすことを強制されもしていましたが、到底、追いつきませんでした。そんなときです。あなたの叔父様が母と、わたしを救ってくれた」

 そうか。とエルンストは掠れた声で呟いた。

 レクセアの味わった地獄が、エルンストには想像もできなかった。エルンストは元来、それを『愉しんできた』者だったからだ。

 ただそれがレクセアにとって地獄だったのだということは理解できた。

「母と二人で新天地にやってきて、わたしは解放されたと思っていました。母のあとを継がなくてもいい。男のわたしにも医薬を扱うことはできますし、わたしは医薬の扱いは好きでした。でも、そのときには母はもう、壊れていたんだと思います。なにがなんでもわたしに秘術を継承させようとしました。ある晩、わたしは薬で眠らされ、目が覚めたときには身体の半分……腹から下だけ、女になっていました」

 ――見ますか?

 レクセアの声はどこまでも透明で、つらさも、怒りも、かなしみも感じさせなかった。

 ――いや、必要はない。

 レクセアと最初に出会ったときの印象と、いまの印象が異なっている理由も分かったが、それはもう、些末なことだった。

「『使われ』たのは、当時母の腹に宿っていた義父と、母とのあいだの子だったのでしょう。母は妊娠をだれにも気づかせなかった。おそらく義父も気づいてはいなかったと思います。わたしの下半身は、肌の色が似通っただれかのもの。当時、新大陸からこの西方大陸へは、戦争捕虜という名の奴隷がどんどん送り込まれていましたから、適当な身体を見つけ出すのは簡単だった。その後、母が行ったさまざまなことを振り返れば、異国の地に逃れてもうやらなくてもいいはずの非道に手を染めた母を、わたしは諫めるべきでした。でも、なにも言えなかった。テパネカの地獄で、母はわたしを守るためにほかのすべてを犠牲にしてくれたのですから」

 おそらくは『壊れて』いた母の姿に目を瞑った。なにも見ない、なにも感じないと念じて、レクセアはあたらしく踏み込んだ地獄をやり過ごそうとした。

 母親に言われるがまま、動物の身体を使って『秘術』を訓練した。だいたいは動物。人間もすこし。

 新しく手に入れた下半身からは月々、余分の血が流れ出して、その訓練の糧となった。

 そしてレクセアはディーナを生みだした。

 魔力をもって影を操り、人の言葉を解し、なにものをも切り裂く爪を持つ、黒猫の姿をした使い魔。

 それで『レクセアの物語』は終わりだった。


 このあとは、『レクセアとエルンストの物語』だ。

 レクセアの母はいつしかプロイセン公国の中枢に取り入ったようだった。権力に近づけば、またテパネカ王国で起きたことを再現するだけだとは思わなかったのか?

 ――こんどこそ巧くやれる、そう思ったのかも知れない。その力を使ってこんどこそ巧くやらねば、これまでのすべての犠牲は無駄になる、そんなことを思い詰めたのかも知れない。あるいは――こんどこそ巧くやれば、なにもかもを取り戻せる、そんな妄想を抱いていたのかも知れない。

 レクセアは母親のすべての所業に目を瞑り、耳を塞いでいた。『本家』に住まいしていた私などは、そんな叔父一家のことなど気にも留めていなかった。

 ――革命騒ぎのとき、両親が亡くなったことで手一杯だった……というのは言い訳だな。

「わたしは義父のことが嫌いではありませんでした。豪放で、冒険を愛し、貴族らしくなく、母を愛していて、わたしのことを憐れんでくれている。人間に対しては文明の担い手であり、かつ自分たちの食糧だという立場でしたが、それはそういうものでしょう。でも、わたしは義父の破滅にも目を瞑りました。義父は母に、なにか薬を盛られていたのだと思います。豪放だった義父はいつしか屋敷に籠もりがちになっていました。そして母が言っていた『夫の血統、血を吸う者たちの肉体は、特別だわ。あの肉体さえあれば、わたしたちは自分の身体を犠牲にしなくて済む』この言葉を、わたしはもっと戦慄をもって聴くべきでした。これから起こることを予想すべきだったのです」

 ――ある日、ベルリンから電話がかかってきて、母は義父と出かけました。

 カイザーホーフから飛行機で迎えに来る、と母は言っていました。

 そして義父は帰ってこなかった。ラジオのニュースで、総統暗殺未遂の事件が盛んに報じられていました。重傷を負ったものの神の加護によって総統は復活されたのだと、神の加護は我らにあり、戦争には必ず勝利するだろう、とアナウンサーが熱っぽく語っていました。わたしは――それでなにが起こったのか、分かってしまった。

 エルンストはなにも言わなかった。いまここに手があれば、レクセアの手を握ってやることくらいはできたろうに、と思ったが、同時に、いまここに手がなくてよかった、とも思った。

 彼女は、そんな慰めを求めてはいない。

 もし彼女の手を握ってなにかがあるとすれば、それは自己満足だけだ、エルンストはそれも分かっていた。

 ――連合国が東西からベルリンを包囲して、敗戦はもう確実になっていたころ、ふたたび母に電話がかかってきました。

「『もうたくさんだ。もうやめて』と、わたしは母に懇願しました。あのときはじめて――母に逆らったように思います」

 あとの話をエルンストはどこか他人事のように聴いていた。

 ベルリンから、飛行機が飛んできたこと。

 そこには銀のナイフを胸に突き立てられた男が乗っていたこと。

 おそらく神の御心に叶わぬ『人体のすげ替え』に憤っただれかが犯行に及んだものと思われた。

 レクセアは銀ナイフの男に付き従っていた男たちによって拘束されたが、ディーナの助けを借りて彼らを殺し、脱出した。

 ――間に合いませんでした。無残に放置されたあなたの生首を見て、わたしは母を――

「殺しました。母の身体の一部と、銀ナイフの男の亡骸は、いまでもあの屋敷の地下にあります」

 ――ああ、見たよ。

 エルンストの肯定は、溜息のようだ。

 レクセアの手に、はじめて動揺があった。震えていた。

「せめてあなたを助けたかった。母の肉体を使ってあなたの首と胴を繋ぎ直そうとした。母の教えを受けていたわたしならできると思っていた。でも、できなかった。手順通りだったのに、揃えた材料も万全のはずだったのに、首と胴は繋がらず、やがて胴は灰になってしまった。わたしの耳には、母の嘲笑が聞こえてくるようでした。『結局、おまえは役立たずだったのだと』。わたしは自分の腿の皮膚を剥いで、あなたの首の断面を塞ぎました。それは――上手くいきました――」

 これが、『レクセアとエルンストの物語』の第一章だった。

 加えて、第一章から進んでいない物語でもある。

 ――レッキはそれから五十年、私を『苦しまずに済む場所』に置き去りにしてくれたのだ。この屋敷で、私はぼんやりと日々を過ごしているだけで良かった。

 この身の不自由さから、外界の変化から……なにもかもからレッキは守ってくれていた。


 私の悪夢は、『レクセアとエルンストの物語』の第一章を聴くだけで解消されてしまっていた。もともと悪夢を恐れる精神性は持ち合わせがないのだ。

 なにしろ、私自身がだれかの悪夢であった時間のほうが長かったのだから。

「レッキ」

 と、エルンストは呼びかけた。

「向かい合って話してもよいかね?」

 レクセアはエルンストをいつもの窓辺に――いまは鳳稀梢の作った首置き皿のおかげでちょっと豪華になった窓辺に――置いた。

 向かい合ったレクセアのまぶたが、すこし赤い。

「君がこれまで私の世話を焼いてくれたのが、私に対する負い目なのだとしたら、そんなことを気に病むことはない……とはいえ、こう言ったところで君が納得しないのも分かる。私もまた、私が抱いている気持ちが、世話をしてくれる君を手放したくないという我が儘なのかどうかが分からない。しかしだ。私がこの気持ちに疚しいところはないと納得し、君が私への負い目から解放されるときがきたなら――私は君に」

――愛を告白したいのだ。

 エルンストのこの、考え抜かれた、そしてちょっと気取った決死の告白は、しかしながら見事に粉砕された。

「エニー、人の気持ちは、一色ではないんです。わたしの悔いや負い目が拭い去られる日なんて、きっと来ない。あなたがもしいまの暮らしに疚しさを抱いているとしたら、それがなくなる日なんて来ないでしょう。でも、減らしていくことはできるかもしれない。だから、永遠のむこうにあるかもしれない話なんかしないで、エニー」

――いまから始めればいいのではない?

 人生経験では、まだまだ私はレッキには敵わない。

 エルンストは思い知ったのだ。


 そして、『レクセアとエルンストの物語』は第一章をもって終幕となる。

 レクセアの愛を手に入れた代償として、エルンストはふたりに気づかれないように、いつのまにか忍び寄っていたディーナの猫パンチを喰らうことになったが、それは甘んじて受けるべきものだったろう。

 たとえ、そのパンチには猫爪が隠されていて、頬に全治二週間の怪我を負ったとしてもだ。

 あとに始まるのは、『生活』だ。

 物語よりも代わり映えしなくて平凡で面倒くさくて、でもそれなりに楽しい日常。


 結局、エルンストは鳳稀梢の明快さを手に入れることはできないだろう。

 そのかわり、 割り切れないものを、割り切る方法すら分からないまま、『割り切れないものだ』と覚悟して生きていく。そんな強さをいつかきっと、手に入れるに違いない。

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