第26話 故郷

「これ一揃いで、家が買い戻せますよ」

 繁家の立ち入れるようになった『旧繁邸』、旼鳥が集めていた茶器を収納した物置の棚に置かれた箱のひとつを取り出して鳳稀梢は言った。

 プロイセン公国政府は華夏の首都大学国史研究所の申し出を正式に受諾し、『旧繁邸』は調査終了までの当面の期間、保全されることが決定された。バルト海での「事件」から十日ほど経っていた。

 稀梢の前にはメリナと、彼女の両親が並んでいる。

「あ、それおじいさまがよく使ってたやつ!」

 メリナがにっこりと笑った。

「それはすごい」

 稀梢もつられたように笑みを浮かべる。

「さすが、元皇帝。時価五千万マルクはくだらない茶器が普段使いとは」

 メリナが目を丸くした。メリナの両親も息を呑む。

「……それが、『皇帝の隠し財産』ですか?」

 母親が困惑したように呟いた。

「違います。この茶器は旼鳥が講演のためベトナムに行ったとき、現地の骨董品屋で手に入れたものです。繁旼鳥が七歳でこの地に亡命したとき、彼の持ち出せる物は当時の政府に厳しく管理されていました。あなたがたもここにずっと住んでいらして、そんなものは見なかったでしょう? 財宝なんてないんですよ」

 彼の論旨はいつでも明快だが、長年、人の好奇の目にさらされ続けてきたせいで、『メリナの家族もまた、どこかに不信を抱いている』。

 ない、と言い続けていても周囲から「あるのじゃないか」「きっとあるに違いない」と言い続けられていれば、不思議なことにだんだん「ない」という確信が揺らいでくるのだ。

 『ないものをないと証明することの困難さ』ゆえに、その不信は簡単には拭えなかった。

 メリナこそ、この『旧繁邸』に愛着を持っているものの、メリナの叔父叔母がはやくに独立して家を出ていたり、政府の退去命令があったとはいえ、メリナの両親が逃げるように新居に移ったのは、そういう好奇の目にうんざりしていたからかもしれない。

 稀梢は棚に立てかけてあった古びた本を取り出し、しおりを挟んだページを開いてみせた。

「ご存じだと思いますが、これは旼鳥の日記です。この分冊は三十七年まえから三十二年まえの部分ですね」

 書斎から一冊、抜き出して持ってきていたらしい。旼鳥の日記はノートに書かれていたが、五年ごとに旼鳥自身の手でハードカバーをつけて製本してある。

「ここ、この茶器を買い求めたときの記録です。箱の内書きと、茶器の形状、領収書も貼ってある」

 たしかに稀梢の指差した部分には、その茶器を購入したときの記録が書き込んであった。旼鳥がその茶器に惚れ込み、各地を講演して受け取った講演料の半年分をつぎ込んで購入。すでに貿易商として独立していた長男にたしなめられたことが書いてあった。

 ただし講演料半年分は安くはないとはいえ、時価五千万マルクにはほど遠い。

「繁王朝のまえ、とう王朝初期の白磁、名のある陶工場の銘品です。薹王朝の倒れる直前に蔓延した疫病で陶工場自体が廃絶し、その後の戦乱で完品はほとんど残っていない。繁朝宮廷跡の『故宮博物館』に二揃いあるほかは、世界に五組も確認できていません。もちろん、茶碗だけ、茶托だけ、金継ぎの急須だけの不揃いの品はそれなりにありますが……骨董品屋もこの品物の価値を見誤っていたということです。おそらくよくできた複製だと思っていたのでしょう」

 息を呑んだままひとこともないメリナの両親に、稀梢は微笑んだ。

「売るおつもりなら、信頼できる鑑定士を紹介しましょう。私は真贋は分かるつもりですが、ほかの方が納得する証明書が発行出来ませんから。これを売れば、あとのごきょうだいと財産を分け合っても、この屋敷が購入できます。売ると言えばきっと、世界の好事家はもちろん、著名な博物館は軒並み、是非うちに売って欲しいと頭を下げに来るでしょう。もちろん、屋敷を買い戻さなくてもいい。売らずに旼鳥を偲んでこの茶器でお茶を飲めば彼はきっと嬉しく思うしょう。それともすべて売り払って、新しいことを始めるのも良いかもしれない。生きているうちに様々な挑戦をした彼です、旼鳥はそれも喜ぶでしょう」

 稀梢は箱の蓋を閉めて、棚にしまいなおした。

「これは特別にしても、あとの茶器もそれなりの値で売れますよ。さすが、旼鳥は目が高いし、趣味が良い」

 稀梢はメリナの家族に目を遣った。

 だれもなにも言わなかった。メリナだけは瞳をきらきらさせて微笑んでいたが、両親は迷っているようだ。

「華夏の調査団には話をつけてあります。旧繁邸の一切の家財道具の所有権は遺族にあって、それを放棄した事実はない、と。もちろん、旼鳥の蔵書や手書きの書類はすべて貸出を依頼されるでしょうし、最終的には首都大学が買い取りたいと申し出ると思いますが、それまではあなたがたのものです。プロイセン公国側は……私の手の及ぶ範囲ではありませんが、これまでの経緯が経緯です。あなたがたが申し立てれば、そのようになるでしょう」

「どうしてそこまでしてくださるのですか」

 メリナの父親が稀梢に問うた。

「故郷をなくす、というのはだれしもつらいものだと思いまして、まあ、お節介です。でも、かたちにとらわれて欲しくもない。旼鳥は故郷を追われ、ここに住むように勝手に決められましたが、長い年月をかけてここを自分の故郷にしていきました。あなたがたはここを『故郷』だと思ってもいいし、この茶器をよすがにして、これでお茶を楽しんだ時間を『故郷』にしてもいい。自分たちでまったく新しい故郷を見つけたっていい。理不尽に追われるのではなく、押し付けられるのでもなく、選べるのだと思ってほしい」

 母親が、弱弱しく笑った。すくなからず不自由さを抱えて生きてきた者が初めて束縛から逃れたのだとわかった時に浮かべるような、迷いの多い笑顔だった。

「ああ、それからメリナさんには私から宿題です」

 稀梢はメリナに笑みかけた。

「この日記には、旼鳥が自分に付き従ってきた女官の嫁入りや独り立ちの資金をどうやって調達したか、戦中、たくさんの避難民をどうやって養ったか、彼の秘策が全部、書いてあります。これを読めば学校で『隠し財産』なんて言われてもちゃんと反論できますよ。だからつぎに私がこの国に来るまでに、読めるようになっていてください」

 旼鳥の日記は、几帳面な万年筆書きの字で、判読しづらいところはないが、すべて華夏の文字で書いてある。おそらく七歳までしかいなかった故国の言葉を忘れないために日記は華夏の言葉で書いていたのだろう。

「……読めないよ、っていうのはなしだよね?」

「降伏する権利は奪ったりしませんが、挑戦しないうちから降参するのはなしです」

 メリナの叔父も叔母も、メリナの母親も、旼鳥の故国を『故国』だと思う愛着を持っていない。華夏政府によって入国拒否をされているのだ。それはメリナも同じである。これでは愛着を持ちようもない。彼らに『あなたの故国は?』と問えば、「プロイセン公国」だと答えるだろう。だからメリナの親族に、華夏語を不自由なく読める者はいない。メリナがもし日記を読もうと思えば、華夏語を独学することになる。

 もちろん稀梢は旼鳥の日記、すべてに目を通した。彼はそのためにこのひと月、毎日のように『旧繁邸』に通っていた。

 プロイセン公国に身を寄せた当初、「可哀想な少年皇帝に寄付を」で寄せられたお金と、華夏政府からほそぼそと支給される年金を頼りに生活を始めたこと。お金の管理について、プロイセン公国から「言葉を習う教師」として派遣された老僕を信頼して任せたこと。その老僕が信頼に応えてくれたこと。自分と一緒に異国の地に来てくれた女官たちの結婚や独立の支度金を、「少年皇帝を憐れんで贈られた寄付」で賄ったこと。いつのまにか華夏からの年金が途絶えたあと、自分の身の上話を切り売りして生活費を稼いだこと。やがてたくさんの講演会への出演を求められるようになってからはその講演料を貯めて食料を買って備蓄し、庭に畑を作ったこと。そしてその蓄えが、戦争が始まり、迫害される者の役にたったこと……

『帝者はかならずしも戦いに長じ必勝の戦法で勝利をもたらす必要はない。智者の言葉に耳を傾け、戦いに長けた者を見抜いて登用し、兵を養い、民を餓えさせなければ、それすなわち帝者という』

――旼鳥は、帝者であろうとしたんですよ、メリナさん。

 だが、それをかいつまんで教えるつもりはなかった。

 日記を開けば旼鳥の言葉がそこにあるのだ。

 自分でそれを読み、理解すれば、メリナはそのとき『だいすきなおじいさま』に再会できると、稀梢は信じていた。

 そして彼女がそのときどんなふうに暮らしていても、きっと彼女は『彼女の魂の故郷』に帰って来ることができる—―。

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