第24話 選択

 港にずらりと係留されたプレジャーボートの船縁を打つ波音が、たぶたぶ、とやけにのんびりした音を立てている。いくらか空いている桟橋もあるが、そこはいま「出航中」なのだろう。夏が終わると同時にバルト海は急に寒くなり、北部は凍結するため、今季最後の船遊びに出ている船主も多いはずだ。

 港の西側はプレジャーボート用の区域、東側は商用船舶区域になっていた。

 商船船舶区域は深夜でも人の往来は皆無にはならないが、プレジャーボート用の西側はひっそりと静まり返っていて人の気配はない。

 明日の早朝に出航予定の船の中には前夜から船内で寝泊まりしたりパーティを催したりする船主もいるが、船外で騒ぐことはない。

 まさに金持ち向け、屋根付き終日管理人在住のプレジャーボート客用の駐車場、半分ほど埋まったそこに稀梢はレクセアのビートルを駐めた。

 水曜日だが船遊びしようという人々はすくなからずいるようだ。

 国産高級車のベンツ、アメリカのシボレーやキャデラック、フランス高級車のブガッティのあいだに混じると小柄な大衆車のビートルはかなり場違いに見えた。

 その駐車場に駐めてある大衆車は、ビートルを除けばもう一台、フォルクスワーゲンのT4のみだった。

 T4はボックスタイプのワゴン車で、後部に寝袋を並べてキャンピングカーとして使って良し、シートを増設すれば六人乗りも余裕の車両だ。むろん、ビートルよりは高額だが、いまここに駐車されている名だたる高級車と比較すれば、大衆車の範疇を出ない。

 ナンバープレートはWÜ-FB6345。

 ヴュルツブルク市の登録車両だ。ヴュルツブルク市はバイエルン自由州にあって、稀梢たちがやってきたバーデン=ヴュルテンベルク州にほどちかい。

「駐車するなら記名、お願いしますよ」

 車を降りた稀梢に、管理人が呼びかけた。

『ベルツ電気店 楊明ヤン・ミン KA-MM8369 修繕依頼の対応のため』

 ベルツ電気店は港の近くで見かけた看板にあった店の名前だ。

「公子さまのボートは、あのおおきな船ですよね」

 駐車場の鉄扉の隙間から、右の奥に見えるひときわおおきなレジャーボートを指差して稀梢が問う。

「そうだよ」

 駐車場の管理人が頷いた。

 あからさまに胡乱うろんな目で稀梢を見ている。

「いちおう、こっちも仕事なんで気を悪くしないでほしいんだが、ベルツ電気店の整備士が、どうしてバーデン=ヴュルテンベルク州登録の車に乗ってるのか教えてくれないかね」

 稀梢の書いた「KA-MM8369」、これがレクセアのビートルのナンバープレートなのだが、「KA」はカールスーエ、バーデン=ヴュルテンベルク州の都市の略称である。

「いやね、そっちに住んでる姉貴に子守を押し付けられたんすよ。なんでもレジャーシーズンはこっちで実入りのいい仕事があるからって押しかけてきてね。『車使わせてあげるから』って言われてもね、姉貴はぜんぜん帰ってこないし、もう一か月っすよ? 俺はようやく電気整備士の資格とって、まっとうに暮らしてるってんのに」

 ビートルの整備用工具箱を左手で振りながら、稀梢は溜息を吐いてみせた。

「そりゃ災難だな。だが公子は『肌の色の違う人種』があまり好きでないからな。なるべく目立たんようにしろよ。ったく、ベルツのおやじもわかってるんだから公子のご機嫌を損ねない従業員よこしゃいいのに」

「わかってます。俺もおやっさんにくれぐれも顔を合わせないようにって言われました。仕方がなかったんすよ。夜間対応できる先輩が風邪でダウンしちまって。俺しかいなかったんす。俺だって家に姉貴の子供、残しとけないんで、いっしょに連れてきてるくらいなんすけどね。せいぜい目立たないよう、素早く終わらせて帰ります」

「一日駐車千マルク。二時間まで百マルク。先払いだ。延長は一時間につき百マルク」

 稀梢は百マルクを差し出す。

 管理人は領収書を手渡すと、稀梢の書いた行のうえに、カシャン、とタイムスタンプを押した。


「いつも思うのだが、鳳殿」

 工具箱を持ったのと逆、右腕に抱えられたエルンストが呟いた。肩にディーナを載せているが、さきほどの管理人にはエルンストやディーナの姿は見えていない。

 メリナはよく眠っていたため、車に寝かしたままにしている。

 管理人もいる駐車場だ。窓をすこし開けてきているし、気温は高くもなく低くもない。置いていって問題ないだろうという判断だ。危険度を鑑みれば、いまから向かう先の方が危ない。

「なんです?」

「よくもまあ、口から出まかせばかりすらすら出てくるな」

「気にしない気にしない」

 稀梢はふふん、と笑ってみせた。

「でも百マルク支払ったうえに嘘まで吐いた甲斐はありましたよ。私の一行上に記載してあったのはあのT4ですが、タイムスタンプが21:55、一時間前の駐車です。ナンバープレートはヴュルツブルク市登録車両」

「なるほど。ビンゴだな」


 全長六十フィート、すなわち約十八メートルの船の甲板には、ぱっと見ただけで男が二人立っていた。

「推測するに、あとは操縦部に二人、船内に一人か二人と公子、船倉部にレクセアさんたち三人と、見張り二人くらいですか」

 稀梢とエルンスト、ディーナ。

 頭数にして三人は埠頭からなんの抵抗もなく船内に入り込んでいる。

 彼らは見張りの目には『見えていない』。

 正確には見えているのだが、異物として認識されていない。

「便利なものだな」

「まあ、それなりですね」

 物騒にも銃を手に持った『船員』をひとりやりすごして、稀梢が答えた。

「『見えてるけど気にならない』程度に誤魔化しているだけなんで、いちど気づかれたら終わりですし、すでにこっちを異物として認識している相手に術のかけなおしは難しい。なので、静かにしててくださいね。私は喧嘩はそんなに強くないんです。暗闇で物が見えるのと、滅多なことでは死なないので無茶ができるだけで」

「なるほど」

 エルンストがなにか得心がいったようだ。

「鳳殿の口が達者なのは、無用の悶着を避けるための処世術というやつなのだな。身分にものを言わせるか相手を殺せば『静かになる』から、私には必要なかったが」

「これからはきっと必要になりますよ。と、いうより、だれしも向き不向きはありますが、磨いて光りそうな能力なら、光らせた方が得です」

 エルンストはしばし、押し黙った。

 不快を感じているわけではないようだ。ただ、なにかを思っている。

「含蓄のある忠告だな。ありがたく受けておこう」

「では、手はず通り」

 稀梢はディーナを床に降ろした。

 船の前方、サロンのようにソファが配置されている場所の奥。操舵室のまえ。

 ディーナの胴にはエルンストがくくりつけられている。くくられるだけでは安定が悪いので、エルンストは紐をしっかり口に咥えて『踏ん張って』いる。

 猫はとても不愉快そうだ。が、人語を解する猫の誇りにかけて、我慢している。

 これがこれからのプランに必要なことだとわかっているからだ。レクセアに会ったあと、脱出の算段を伝えるには人の言葉をしゃべることができる者が要る。

 ディーナとエルンスト……頭数にしてふたりがサロンのまえに陣取っている見張りの男の足元をすり抜けていったのを確認して、稀梢は操舵室のコントロールパネルの下、配電盤を留めているネジをドライバーで開けた。

 かしゃん

 その物音で、見張りの男が操舵室を振り返る。

「だれだ? おまえ、どうやって入ってきた?」

「ま、さすがにここまでですか」

 術が解けたのだ。

 言うが早いか稀梢は配電盤のコードのいくつかを切断した。

 明るく輝いていたサロンのシャンデリアが消えた。おそらく下の階でも同じように明かりが消えたのだろう、ざわめく声がした。

 室内が非常用のオレンジ色のランプの光に満たされる。

 蓄電池で発光する薄明るい非常灯の光は、元来、消防隊や警察が内部で行動したり、内部の人間が避難するための灯りだ。

 それだけでも行動に支障がないよう充分な灯りにはなっていたが、それまで明るい室内にいた人間にとっては、目が慣れるまでは暗闇に近い。

 稀梢は隙を見せた見張りの男を殴って気絶させた。

 非常灯の持続時間は三十分。非常灯が切れるまで、なとどのんびりするつもりはない。船内の男たちが視界を取り戻すまでに逃げ出す算段だ。

「こっちは問題ない!」

 船倉のほうからエルンストの声が聞こえた。

「となれば、長居は無用ですね」

 手探りで操舵室にやってきた男を工具箱で殴って昏倒させると、稀梢は出口へ向かた。


 突然、照明が消えたことにうろたえる船倉の見張りふたりの足元をすり抜けて、ディーナとエルンストはレクセアを見つけた。レクセアが目を覚ましていなかったらちょっと面倒だったが、彼女はしっかり意識があったので話は早い。

 ディーナが捕まっている三人の足と腕の縄を切る。

 意識がまだ朦朧としているメリナの両親を、レクセアが手早く起こしたところで、見張りが異変に気が付いた。

 レクセアが体当たりして見張りのひとりを押し倒す。

 ディーナが見張りの足の腱を切った。悲鳴が上がったが、命にかかわるほどの怪我ではない。もちろん彼らは今夜のことを災難だと思うだろうが、半月前、ディーナに襲われた同僚の身の上にはどんな運命が降りかかったかを知れば、彼らは自分たちの信じているなんらかの神に感謝するかもしれなかった。

 そこまでものの十秒もかかっていない。

「こっちは問題ない!」

 エルンストが声を張り上げた。あとは船を出るだけだった。

 手早く計画を説明する。メリナの両親たちには、どこからか聞こえる声の主の姿が見えないのが不思議なようだったが、足元に気がつかなかったのは幸いだったろう。

 エルンストの姿を見れば、もう一度気絶していたかもしれない。

 メリナの両親を先に進ませ、レクセアがディーナとエルンストを抱えて甲板へ出ようと階段に足をかけたその時だった。

 かちゃ

 物音がして、レクセアは振り向いた。

 三メートルうしろにプロイセン公国公子が、銃を持って立っていた。

 彼はレクセアたちが拘束されていた部屋の上の階、寝室で眠っていたのだ。

 目が覚めて、歩哨代わりに使っていた男が部屋の前にいないことに気が付いた。

 非常灯が点灯し、物音がする。

 この状況、普通ならば助けが来るまで待つだろう。しかし彼は誇り高い公族だった。

 誇り高くあらねばならない一族だったのだ。

「公子、ここで銃を撃ってはいけません」

 レクセアが言った。

 医師らしい、抑制の効いた落ち着いた声だ。

「おまえのような者の指図は受けん」

 レクセアは一歩、うしろへ後退った。振り向かず、空いた片手でメリナの両親たちに外へ出るよう促す。

「あなたがなにをお望みでも、わたしにはできません」

「嘘を吐くな。敗戦の間際、おまえの祖母は『テパネカの医術は血に伝わる』と言ったと記録にある。おまえがあの魔女の血を継いでいるなら、できるはずだ」

「できません。わたしはテパネカの秘術を完全には受け継がなかったのです」

「金か? おまえの祖母も莫大な資金を要求したらしいな。金ならなんとかする」

「できないのです。お金の問題ではないのです」

 レクセアはじりじりとうしろに後退り続けていた。すでに階段を通り過ぎ、船倉のなかでも船尾に近い方に追い詰められている。

 メリナの両親たちは外に出られたようだ。

 カン、カン、キュン、ダンダン

 上のほうで立て続けに金属音がした。それは発砲音だったのだが、船倉にいるレクセアたちと公子にはそこまでは分からない。

 つづけて

 ガン、ダン、ブルン、ド、ド、ド、ド、ド……

 重々しい物音が周囲を充たした。物音とともに足元が振動し始める。

 これは分かる。

 エンジンがかかったのだ。

「嘘を言うな! おまえにはできるはずだ! できなければならないのだ! そうでなければ! わしの息子が! 三人目にしてようやく授かったわしの息子が! 先天的な疾患をもって生まれてきてしまうのだ! 神に選ばれたわしの息子が! でなければだれがおまえなどに……おまえのような者に、わしが頼むなど!」

 公子は煉獄から救い出してくれとダンテに縋り付く亡者のようにレクセアに掴みかかった。その腕に抱えられたエルンストなど目に入っていない。必死だった。

 キシャアッ

 威嚇の声を挙げたディーナを、レクセアは「だめ!」と静止した。

 そのときだ。

 ガリッ

 なにかを齧る音がして、公子が身を離す。

 公子の右腕、内側が剔れていた。

 身を離したものの、傷を押さえるだけでレクセアを見詰め続けている。

「黙って聞いていれば愚かなことを! おまえは、おまえたちは神に選ばれたのだろう? そう誇っているのだろう? ならば『まったき』とは人の基準で決めてはならない。神の御前においておまえたちはつねに『まったき』の者なのだ。つねの人ならば人の基準で選択してしまいそうになるものでも、おまえたちは選んではならない。なぜなら、すでに『神に選ばれている』からだ。おまえも、おまえの父も、おまえの娘も、もちろん息子も、すでに『選ばれている』。そう信じているのだろう? それがおまえたちの矜恃だろうが!」

 そのとき、はじめて公子はエルンストを見た。

 口を血まみれにし、目ばかりぎらつかせて憤怒に髪を逆立てる生首を。

「おまえたちになにが分かる。おまえたちのような化け物になにが分かる!」

 銃声

 至近距離から狙ったその銃弾は、しかし、外れて床を貫通した。

 公子が倒れている。

 階段から稀梢が公子に体当たりをしたのだ。

「ほんとにこの公子殿下、手下はもうちょっと経験者を募った方がいいと思いますね。安物買いの銭失いとはこのことです。上階は勝手に同士討ちまではじめて大混乱です」

 稀梢は倒れて朦朧としている公子を「重い」と愚痴をこぼしながらも抱きかかえ「行きましょう」とレクセアを促した。

ド、ド、ド、ド、ド、ドン、ドドン

 エンジン音に異音が混じる。

「変なところ、一発的中ってやつですね。さっきの弾、エンジンのどこかに当たったかもしれません。ま、長居は無用です」

 レクセアに先に出るように促して、公子を抱えた稀梢が続く。

 船尾から桟橋へ飛び移れるぎりぎりのタイミングでレクセアが地上に飛び降りたのを確認して、稀梢は溜息を吐いた。

 エンジンにトラブルを抱えているとは言え、船はすでに離岸している。

 エンジンが停止したところでしばらくは慣性で止まらないだろう。

「ここで、飛ぶ? この重いの抱えて? 勘弁してほしいところですね……」

 しかし躊躇したところで岸は近づいてこない。

 桟橋にはレクセアたちと、目が覚めて車から抜け出してきたメリナ、そしてメリナの家族しかいないのを確認し、稀梢はおもむろに翼を出し、空を飛んだ。

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