第23話 白

「こんどはこんな野暮用なしで行きたいですね。絶対、楽しい」

 レクセアのビートルを運転しながら稀梢は慨嘆した。

 黒森からバルト海を望むグライフスバルト湾へ。

 北北東へひたすら車を走らせる、まったく面白みのないドライブである。

 景色だけが変わって行く。

 蒸気機関が発明され、産業革命とともに人の移動にも革命が起きた。

 大地を疾走する機関車、風に逆らえる船舶、線路のない場所にも自在に移動できる自動車、大山脈を大河を海洋を飛び越える飛行機。

 かつて世界を隔てていたものが障壁でなくなることで、世界は近くなった。百年前なら人はひとつの村を出ることなく一生を終えた者も多かったかもしれないが、いまでは百㎞先の町に一時間で買いものに出かけることもできる。

 すべての情報が均質化していく世の中である。もちろん国内を移動したところで百年、二百年前のように劇的には変わっているように見えないが、もともとは別の公の治める別の州だった。南北に七百㎞も移動すればざまざまな変化はある。

 良く見れば、建物も、風俗も、かつて『別の国』だった名残を残している。

 ゆっくり味わえば、噛めば噛むほど味が出る旅になったことだろう。

 すでに陽は落ちて久しい。

 適当なドライブインでメリナに夕食を摂らせ、二度ほどトイレ休憩を挟んだほかは約九時間、稀梢はひたすら車を運転している。

 出発当初、一悶着あったあとはおしなべて穏やかな旅だと言えた。


「つかぬ事を尋ねるが、鳳殿は運転免許を持っているのかね?」

 出発当初、メリナとエルンストは後部座席に座り、地図を読む係りを担当した。

 メリナが地図をエルンストが読めるように目の前で拡げ、エルンストが読んで、稀梢に指示をする。どうでもいいことだが、車内でのディーナの担当はない。助手席に丸まっておとなしくしている係である。

 稀梢は月極駐車場で鍵を拾い、エンジンをかけただけでなく、レクセアの車をそのまま黒森の屋敷まで乗って帰ってきていた。

 バルト海へ向かうにあたっても慣れた手つきでビートルのハンドルを握る彼に、エルンストが尋ねたのだ。

「たしか華夏の免許でも、入国後半年限定で便宜的に使用できる法律があったはずだからこっちの免許じゃなくてもいいんだろうが」

「私の国は八十年前、内戦と対外戦争、ふたつの戦争のさなかでした。そのとき必要があってトラックの運転を覚えましたが、当時は教習所もありませんでした。政府自体、ろくに機能してなかったんで……同僚にエンジンのかけ方とブレーキの踏み方を教えて貰って、あとは見よう見まねです」

「すなわち?」

「注意深く標識を読んで、速度規制を守っていれば、検問でもなければ捕まらないものですよ」

「こう……なんだ。幼気いたいけな少女のまえで堂々と脱法行為を語るのはしょうしょう問題が……」

「黙ってたら分からないことを敢えて訊いてきたのはあなたですよ。……メリナさん」

 眉間に皺を寄せるエルンストを横目に、稀梢は言ったものだ。

「無免許運転は、犯罪です。善良な市民と正義の味方は普通、やりません。いいですか?」

 メリナはこの茶番に、こっくりと頷いた。

「普通はやらないけど、必要なときもあるってことだね」

「メリナさんの人生で、『必要なとき』が訪れないことを祈ってますよ」

 憮然とするエルンストを無視して、稀梢はこの話題を打ち切った。


 それから九時間……いま、メリナは後部座席でディーナと一緒に眠っている。

 助手席にはエルンストがベビーシートにおさまって『座って』いた。

 目的地はもうすぐだった。

 休憩のおりにそれとなく情報を収集すると、公子のクルーザーはグライフスバルトのリック川河口、ウェイクに停泊している、というのが分かった。

 レジャー用のクルーザーとしてはかなりおおきいので目立つのだ。

「ときに鳳殿、ディーナは半月以上の月光のある夜でなければ、ただの猫ほどにしか役に立たないぞ」

 十三夜の月があったあのメリナ誘拐の日から半月。空には猫の爪跡のような月が掛かるばかりだ。

 ディーナ、という名前に目を覚ましたのか、にゃあ、とちいさくディーナが鳴く。

 寝こけるメリナの腕をするりと擦り抜け、音もなく助手席の背もたれに登ってきた。

 たし。

 たし。

 背もたれから前足を伸ばし、エルンストの頭を肉球で叩く。

「……脅しには屈せぬぞ、ディーナ」

 たし。

 たし。

「い、痛い! 爪を出すな! 分かった! 分かったから!」

 たし。

 念を押すようにエルンストの頭を肉球で叩いて、ディーナは後部座席に戻った。

「……月光が弱ければ影を操ることはできないが、ディーナは人語を解するし、爪はダイヤモンドより硬くて鋭い。影よりは使い勝手が悪いが猫よりは有能だ」

 にゃ

 それでよろしい、とでも言うようにディーナは短く鳴いてまた丸くなった。

「そのことですが、今回は荒事はなし、です」

 見えてきた港の光に目を細めながら、稀梢が呟いた。

「もちろん、ディーナの爪は役に立つでしょう。多少の暴力も使わざるを得ないと思います。でも、今回は殺しはなしです」

「なぜ?」

「だって、今夜の我々は『正義の味方』なんでしょう? 無用な殺生はしないものですよ」

「なるほど。で、打つ手は?」

「私たちは猫の手だって借りられるんですから、人間の手が借りられないはずはないと思いませんか?」

 港湾の入り口に車を駐めて、稀梢は港湾案内図の看板を目に収める。

「さてと、現在二十二時四十二分。メリナさんの誕生日が終わるまであと一時間とすこしです」

「……今日中に誕生日プレゼントを渡したいところだな」

 再びエンジンをかけてハンドルを切った先に、白いクルーザーの船体が浮かんでいた。

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