第22話 呪文
仕切り直しだ。
と、エルンストが宣言した。
稀梢とメリナが椅子に座って神妙な面持ちで頷く。
ディーナはテーブルのうえで丸くなって目を閉じていた。おそらく
まずはじめにメリナがこの黒森の屋敷に来た経緯を話した。
今日はメリナの誕生日だった。水曜日、メリナの学校が半日で終わるのに合わせて母親がプレゼントを買って、父親がケーキを作って娘の帰りを待ってくれているはずだった。毎年の行事だ。どれだけ仕事が忙しくても欠かしたことはない。
ところが、学校から帰ってみると家には誰もいない。
半日、有給を取ったと言っていたけれど、都合が悪くなったのか。でも、ふたりとも?
ふと不安になって父親の職場と母親の職場にそれぞれ電話を入れてみると「娘さんがたいへんなことに巻き込まれた。急いで来て欲しい」と迎えに来る者がいたという。
もちろんメリナの身にはなにも起きていない。
充分、怪しい事態だが、普通はすぐに誘拐だとは思わない。メリナが即座に誘拐だと思ったのは、もちろん先日の自分の経験があったからだ。
自分じゃなくて、あの誘拐犯は両親に目をつけた――?
「おそらくそうだろう」
とエルンストは同意した。
気丈にもしっかりとした声で話し終わったメリナの目には、涙が浮かんでいた。
エルンストたちに話をしたことで気が緩んだのだろう、瞬きすると、ほろほろと頬をこぼれ落ちる。
稀梢がメリナのために別室からタオルを取ってきて、手渡す。
ふたりとも人間ではないが、人間とかかわってきた時間は長い。だからこんなとき、ひとの哀しみを癒やすような……すべてを解決するような魔法の呪文がないことはよく知っていた。
奪われたものは、取り戻す。実力行使で問題を解決する以外にはない。
「父さま、母さま、大丈夫……かな」
心細く問う声に、
「犯人は、自分たちが知りたい情報をおふたりから聞き出そうとするでしょう。でもご両親は答えられない。『存在しないものの在処を答えろ』と言うわけですから、答えられるはずがない。しかし……そうですね、知らなくて答えられないのか、秘密を守ろうとしているのか見極められないうちは大丈夫ですよ」
柔らかい声音で、稀梢が答えた。聴きようによってはさらに不安の増す答えだが、どうせなにを答えても本当のところは分からない。根拠もなく「大丈夫」と言われるよりはましな答えだ。
それに。
稀梢にはもうひとつ、口には出さないが、感触があった。
――先日のボーデン湖の屋敷にいた彼らは、人殺しに慣れているようすはなかった。
みな暴力沙汰にかかわったことはありそうだったし、人殺しをしたことがある者もいたかもしれない。だが職業的に、もしくは日常的に殺人を行っているようすはなかった。
屋敷に踏み込んできて、仲間を殺す稀梢たちに対抗できるだけの反撃を……急所を的確に狙って殺そうとする者はいなかったのだ。
だからもし、メリナの両親が役立たずだと分かったところで、怖じ気づいてしまってすぐには殺せない可能性も高い。
――素人は加減を知らないから、殺すつもりがなくて殺してしまうのもよくある話ではあるんですが。まあ、メリナさんのご両親が無闇に暴れたりして相手を興奮させないでいてくれたら、最悪の事態にはならない――
むろん、こんな物騒な憶測はメリナには言わない。
エルンストから、レクセアもまた掠われたことをかいつまんで話したところで、
「事件を整理してみましょう」
と稀梢が言った。
「事件はふたつあり、おそらく黒幕は現公のご長男ひとりです。いちおう、いまのところ公室と今回の件はかかわりなく、公子の勝手な行動であると仮定しておきます。事件のひとつは、旧繁邸にかかわるもの。もうひとつが旧エルンスト邸にかかわるものです。旧繁邸について分かっていることは、みっつ。ひとつ、居住者を強引に退去させ、無人になった屋敷でなにかを物色している。ふたつ、メリナさんが誘拐されたのは物色している現場を見られたため。つまり偶発的な事態でした。そしてみっつめ、ご両親が掠われたのは偶然ではない。見つからないものを見つけるために連れ去った可能性が高い」
「目的のものって? 財宝はないんだよね?」
メリナがタオルを握りしめて言った。
「わかりやすい『財宝』なんてありません。それは私が断言できますが、『存在』を証明するのは、それを見つけ出せば良いわけですが『ないものをない』と証明するのは難しい。くまなく探したところで、納得できない場合すらある」
「しかし何故だ。メリナの家族があそこを追い出されたのは三ヶ月もまえだ。いまになって急に強行手段に出た理由は?」
エルンストが素朴な疑問を呈した。
「それについては、おそらくは私のせいです」
稀梢が顔をしかめた。そのまままぶたを伏せ、沈痛な面持ちで答える。
「私は旼鳥の生きた
「だれに?」
と聴いたのはエルンストだ。
「大学の研究者や、文化財関係の官僚ですね。私はもともと繁王朝の書記官で、もちろんその職はなくなって久しいのですが当時の同僚の子孫のなかにはそういう職に就いている者もいる。代が変わっても付き合いは続けていたので面識のある者もおおいんです。彼らは手を打ってくれました。今週の月曜、つまりおととい、首都大学国史研究所からプロイセン公国宛てに、正式に学術研究のための旧繁邸短期保全の申し入れがありました。プロイセン公国側の回答はまだですが、おそらくは承認されるでしょう」
稀梢はそう言って、さらに厳しい表情で――眉根に深い皺をよせて、おおきな溜め息をついた。
「おそらくこれが相手を刺激した可能性が高い。学術調査がはいれば、短ければ数か月、長ければ数年、あの場所に別の人間が出入りすることになる。また学術調査団がもし『財宝』を見つけたら、プロイセン公国か、華夏連邦か……国の財産になります。つまり彼らの自由にならない。本格的な調査団がやってくるまえに探し物を見つけなければと焦ったのだと思います。あの屋敷を保全することしか考えなかった私のミスです。私は……いつもこうだ。全体が見えていない」
「努力によって、あるいは経験を積むことで、いずれ自分が全知になれると思うのはおよそ人の抱く傲慢のなかでももっとも傲慢な考えだと、だれかが言っていたよ」
エルンストが目を
「神はその人の傲慢を戒めるために、偶然の種を世に播いたのだと。結果だけ見ればそれが必然のように見えてしまうがね。物事というのは、偶然の産物だ。たまたまほかの可能性が実現しなかっただけだ。……気に病むことはない」
「すべての偶然から『それ』を選ぶのは神である……つまり『すべては神の思し召し』、ということですか。こころにもないことを……だいたいエルンストさんにとって、その『神』は商売敵でしょうに」
稀梢はことさらおおきな息を吐く。渋い表情はそのままだが、眉間の皺は消えていた。
「商売敵と言うよりは天敵だな」
「気を落としていても始まりませんね、続きです。もうひとつの事件、旧エルンスト邸に関するものですが、こちらで分かっていることはよっつです。ひとつめ、五十年前、当時の政権、あるいは公室、もしくはそのどちらもがレクセアさんの母親と関わりがあったと思われる。ふたつめ、おそらくそれはテパネカ王国に伝わる魔女の薬、または医術に関する関わりである。敵国の兵士を毒や呪術で虐殺したかったのか、自分たちの不老長寿や強靭な肉体を求めたのか……なにが目的だったのかは分かりませんが。みっつめ、五十年前、それは失敗したようです。よっつめ、五十年前の試みをもう一度試すために、レクセアさんを誘拐した、ということです」
「ふたつの事件がたてつづけに起こった理由は?」
「わかりませんね。可能性としては、黒幕が極右政党と繋がりをもった……つまり、野心を実現する行動力を得たのが最近だった、とか。なにか旧エルンスト邸にある薬品を早急に使用する必要があり、そのための資金がいるとか……このあたりは棚上げにしましょう。ところでメリナさん、メリナさんのご親族で、お母様のほかに旼鳥のお子様は何名いらっしゃいます?」
「五人かな」
「みなさん、このあたりに住んでいらっしゃる?」
「ううん、母さまのほかは、外国に住んでる叔父さんがふたり。貿易のお仕事でスイス、料理店のお仕事でローマ。あとの叔母さんと叔父さんは、別の州だよ。ザクセンのリン叔母さんは農業やってて、いつもたくさん美味しい野菜を送ってくれる」
「みなさん、とくに変わりなく? つまり、最近、掠われたり危害を加えられたりしたことは?」
「……昨日今日、なら分からないけど、でも一昨日、レン叔父さんとモウ叔父さん、昨日、コウ叔母さんリン叔母さん、キ叔父さん、みんなわたしにお誕生日おめでとう、プレゼントはさきに郵送で送ったから楽しみにねって電話をくれたから、そこまでは大丈夫、かな」
「つまり……?」
話が見えないエルンストが首を傾げ……ることはできないので、視線を稀梢に向け、口をへの字に曲げた。
「確定はできませんが、極右政党は『印象通り』というところです。活動範囲は狭く、アクティブな党員は都市部が中心です。国外には手を伸ばせない。まあ議席のない党なんてそんなものです」
「戦前、活動を始めたときの国民社会主義拡大プロイセン党もそんな感じだったな。何十か議席を取って、田舎にも党の名前が知れるようになって、はじめて党が拡大し始めた。政権を取ったあと、党員がこぞって小遣い稼ぎに手記なんぞ出版していたが、選挙活動する資金どころか借金取りに追われて明日のパンを買う金もなく、ヒモみたいな暮らしをしていた、などということを美談めかして書いていた」
「政党に金がなく、黒幕の公子にも自由になる金はほとんどない。活動の拠点はおもに都市。となると、人里離れた場所に監禁、というのも考えにくい。周辺のことがよく分かった場所でないと、『ここなら絶対安全』だという見極めがつけられませんから。旧エルンスト邸は先日、居残っていた党員が全員、失踪したばかりなのでさすがに気味が悪いでしょうし。あとは公子の屋敷に監禁、というのもなさそうです。公室がグルなら別ですが人の目が多すぎる」
「これで今回の件に関係しそうな情報は、出尽くしたかな」
「『確実な答え』に至るにははなはだ不十分ですが」
稀梢が自分を納得させるように頷く。
「いま我々にできることは、推定できることが手持ちの情報と矛盾していなければ、『暫定的にそれを正解として扱う』ことです」
一瞬、間が開いた。
こほん、とエルンストが咳払いをする。
「ならば、監禁場所は『クルーザー』だ。あそこなら、公子の一存でなんとでもなるだろう。少人数で動かせるし、三人くらいなら閉じ込めておく場所もある。監視も行き届く」
「なるほど」
「さっきのテレビ番組は生放送だ。ライン川の河口のある北海側と違ってバルト海から運行許可なしに大型クルーザーを乗り入れられる国内河川はないから、まだグライフスバルト湾あたりにいるんじゃないか?」
「バルト海……ここから直線距離で七百㎞……無駄足なら痛いですが、あいにくそれしか思いつく可能性がないですね」
さきほどとは別の意味でおおきく溜息を吐いて稀梢が立ち上がった。
このメンバーで、移動手段を確保するのは彼の役割だ。
「ところで、メリナさんはどうします? たぶんちょっと危ないこともあるはずなんで、ここに残っていただいても構わないんですが」
「一緒に行きたい」
絶対に譲らない。そんな顔をしてメリナが答えた。目に浮かんだ涙はまだ乾いていないが、折れかけていた気力は戻ったようだ。
「いいですよ。この屋敷も相手には知られているでしょうからひとりで残しておくのも心配です。でも、むこうでは『ここで待っててください』と私かエルンストさんが言ったら、ひとりで待っててくださいね」
「わかった」
メリナが神妙に頷いた。
「ねえ、エニー」
一瞬……そう、一瞬だ。メリナの気丈なまなざしに不安な光がよぎった。
「『正義は勝つ』んだよね?」
それは魔法の呪文だった。いずれ彼女が踏み出す『世界』……いま彼女がいる世界より、『世界』がもうちょっと複雑で、どこに『正義』があるのかに迷い、自分が『正義』の側にいられない苦しみすらきっと味わうことになる大人に、彼女がなったとしても、最後の最後まで信じていなければいけない魔法の呪文。
エルンストや鳳稀梢が、とっくのむかしに失ってしまった呪文だ。
「そうとも」
エルンストが王侯のような鷹揚さで微笑んだ。
「だから私たちは、君が――メリナがそばにいる限り、かならず勝つんだ」
にゃあ、と、ディーナも同意する。
そしてエルンストを虐めることに余念のない彼女にはめずらしく、一点の曇りもなく賛同の意思を表して、ピンと尻尾を立ててみせた。
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