第20話 たぷたぷ
目が覚めると、いつもの窓辺だった。
いつもならレクセアが出勤する時間帯……朝の八時前、エルンストが自分の寝室から連れ出してもらうころには目が覚めているのだが、今日は長く眠りこけていたらしい。
すでに日は中天にさしかかろうとしている。稀梢の作った白絹を掛けた衝立のおかげで眩しくはない。
テレビは旅行番組を映していた。
プロイセン公国北部、バルト海沿岸をクルーザーで巡っているようだ。
リポーターが甲高い声で、バルト海の景色の素晴らしさ、美味しい海の幸について、滔々と語っている。
しかし、エルンストのこころはその番組にはなかった。
昨日の夜の会話が、耳に甦る。
「明日、私が目覚めたら、聴かせてくれないだろうか」
「……なんでも。エニー、あなたの聴きたいことは、なんでも」
彼女の手のぬくもり、柔らかな肌を思い起こせば、エルンストの頬にはおのずと赤みが差した。彼女の情愛のすべてがこもったあのてのひら。
いちばん知りたいのは、あの『誘拐犯たち』の素性だ。
どこのだれで、なにを目的にしているのか。
レクセアの語ることが、あの誘拐犯たちの素性に辿り着く手がかりになればいい。
だが、結局のところ五十年前のことも聴かずにはいられない。
それを聴いた私は、どうなるのだろう?
いや、もちろんどうにもならない。どうするつもりもない。
彼女とのかかわりだとて変わらない――はずだ。
しかし、私は変えずにいられるだろうか。
過去が如何なるものであったとしても私は揺らがないと、言い切れるだろうか?
止めどなく流れて行く思索の糸を、どこから解き始めるべきか思案していると、疲れた顔をした鳳稀梢が部屋に入ってきた。
「こんな清々しい晩夏の真昼にふさわしい話でなくて恐縮ですが、レクセアさんが行方不明です」
テーブルの脇の椅子に身を投げ出すように腰を下ろし、昨日からずっと置いたままになっている三本の瓶の脇に肘をつくと、ふう、とおおきく溜息を吐いた。
――レッキがいなくなった。
稀梢の話はこうだった。
黒森のこの屋敷に、滅多に掛かってこない電話が鳴ったのが、朝の九時。
街に出かけようとしていた稀梢は、どうしようか一瞬迷い、結局、その電話に出たところ、レクセアの医院から看護師が掛けてきた電話だった。
レクセアが出勤していないという。
そんなことはない、と稀梢は言った。
「レクセアさんなら、いつも通り八時前には家を出ました。私? 私はレクセアさんのお宅にホームステイしている華夏の留学生で、鳳稀梢と言います」
突然、身元を尋ねられて、咄嗟にもっともらしい嘘がよく吐けるなと思うが、この際、どうでもいい。
レクセアはいつもと同じように身支度をし、ライ麦パンとレタス、ハムエッグのサンドイッチと蜂蜜をかけたヨーグルトを食べ、濃いめに淹れた珈琲を飲んだ。
まだうつらうつらしていた私を窓辺に置き、テレビのスイッチを入れて、普段とまるで変わらないようすでビートルに乗り込んだ。
稀梢は看護師からの電話問い合わせがあったあと、私がまだ眠っていたので、なにはともあれ情報を収集せねばとそのままひとりで医院のようすを見に行き,いま帰ってきたところ、ということだ。
レッキがいなくなる理由はひとつしかない。
――私が過去のことを問おうとしたからだ。
エルンストにはそうとしか考えられなかった。
ならば、彼女はもう帰ってこない――
「エルンストさん、おそらくすでになんらかの結論に達したような顔をしていらっしゃいますが、念のため、私の話を最後まで聞いて頂きたいのですが」
疲れているうえに察しの悪い生首を相手にしなければいけないのに、うんざりしている……そんな表情だ。
まあ、そのように感じられるのは、エルンストが抱いている引け目のせいだろう。
稀梢はなにかに腹を立てている。それは間違いない。ただしその対象はエルンストではない。
「エルンストさんの見るところ、レクセアさんの仕事ぶりは、責任感があって、几帳面ですよね?」
「間違いない」
「付き合いの短い私でも分かるくらいです。たとえば先日のメリナ嬢誘拐騒ぎのとき、レクセアさんは午後の予約診療に穴を開けてはいけないと、応援の医師を呼んでいました。もし今回の件がレクセアさんの意思による失踪だとしたら、穴埋めの医師を準備しておこうとするでしょうし、それが駄目なら看護師に連絡して、事情があってしばらく休業するので予約の患者さんに連絡して欲しい、くらいは言うでしょう。でも、そんな連絡はなにもなかった。失踪するのをエルンストさんに知られたくなかったとしても、エルンストさんに知られずに医院に連絡する方法なんか、いくらでもありますから、これはおかしい」
たしかに、そのとおりだ。私はレクセアが持ち運んでくれなければ移動できないから、私に知られないように電話をかけることなどわけはない。
「それにくわえて、レクセアさんの借りてる月極駐車場に、ビートルが駐めてありました。失踪するのに、車も使わないなんて変でしょう?」
警察に捜索願を出せば、車のナンバープレートが全国に通知される。それを嫌ったとも考えられなくはないが、問題は、彼女の捜索願を誰が出すか、だ。
エルンストは出せない。生首でしかない彼は、この世に存在しないものだ。鳳稀梢に手伝ってもらえば電話くらいは掛けられるだろうか、警察の事情聴取には応じられない。
看護師たちがレクセアの異変に本格的に気づくのには二、三日かかるだろう。
そして鳳稀梢は観光客だ。警察に届け出たとして、まともに取り合ってもらえるかどうか。
と、なれば失踪に車を使わないのは理解に苦しむ。乗り捨てるにしても、国境を越えるところまでは車を使うほうが早いうえに足が付きにくい。
「車のまわりには一見、おかしなところはありませんでした。でも、車の下にこれが落ちてたんですよ」
稀梢が鍵をひとつ、スラックスのポケットから取り出した。
――ビートルの鍵だ。
「念のため、使ってみたらちゃんとエンジンが掛かったので間違いなくこれはレクセアさんの車の鍵です。車体の真ん中あたりに落ちてたんで、落としたんじゃなくて、車の下に蹴り込んだんでしょう」
「――掠われた?」
「おそらく」
「でもなぜ? レッキは先日の誘拐騒動のときには、あの屋敷の近くには行ってない」
「レクセアさんの住民登録はどうなってます? リンデンバウム家の親族ということになっているなら、その線かもしれませんよ」
「ああ、そうか」
五十年前、リンデンバウム家の遺産をレクセアに相続させるために、彼女の住民登録は『レクセア・ブレアシュルツ』のままにした。リンデンバウム家はエルンストを含めて死亡、または失踪。ブレアシュルツ家もレクセアを除いて死亡、または失踪。戦中にはよくあることだ。届け出はつつがなく受理された。
爵位は放棄したが、戦後すぐに相続も滞りなく行われ、エルンストたちは黒森のこの屋敷に居を定めた。
以来、住民登録をいじったのは一回だけ。
レクセアが『戦後、リンデンバウム家の遺産を相続したレクセアの娘』ということで、一代、代替わりしたように出生記録と死亡記録を捏造しただけだ。
つまり、リンデンバウム家について市役所の住民記録を追えば、簡単にレクセアに行き着く。
「分かったのはこのあたりまでで、あとは地方議会にすら議席のないような極右政党がこの誘拐に関係している、くらいしか分からないとなると、手の打ちようもないのが困ったところですが」
稀梢がふう、と深いため息をついて、椅子の背に身を預けた。
エルンストも同じだ。
彼女の意思で失踪したわけではないと推定できたところで、次の手は思いつかない。
『全長六十フィートのメガクルーザー! その名も『タンホイザー』! 見てください! 騎士タンホイザーがヴェーヌスとの悦楽の日々を過ごしたというヴェーヌスベルクとも比べうる豪奢でラグジュアリーな船内! まさしく王侯にふさわしい船ですね』
つけっぱなしだった旅行番組、場面は船旅の景色から、船の船内に切り替わっている。いくら大きいと言えどクルーザーである。そんなに広いわけではないが、たしかに豪奢なソファが設えられ、照明もきらびやかだ。ワインセラーをはじめとした冷蔵設備、調理台もあって、温かい食事と冷えたワインを楽しむこともできそうである。
しかし良い船なのは間違いなさそうだ。カメラの画像が揺れていない。
たぷたぷと船体を打つ波音は聞こえているが、船は
恰幅のよい男に船内に案内された女性リポーターがわざとらしく興奮した声をあげていた。
『名前も素晴らしいですね。船と言えば実在の英雄の名を冠するものが多いですが、この船はタンホイザー、歌劇の主人公の名を冠しています。プロイセン公国にふさわしく、かつ、ロマンチックでアメイジングな旅を演出するように思うのですが、これは公子がお付けになったのですか?』
『そうとも。父はそう……『ビスマルク』が良いなとど仰っていたがね。わしは反対した。船の名が『ビスマルク』では、口やかましい小姑に見張られているようで優雅で気楽な旅がだいなしだ。そうは思わないかね?』
『仰る通りです』
リポーターの態度は太鼓持ちの鑑だ。
つねに一歩退き恐縮した態度を崩さない。恰幅のよい男は、機嫌よく笑っている。が、おそらくひとたび機嫌を損ねたら番組そのものがおじゃんになるのだろう。
「――あいつだ」
目を見開くエルンストの口から、こぼれ出た言葉。
「旧邸で聞いた声は、あの男だ」
エルンストの耳には、もう話の内容など入ってこない。
ただあの夜に聴いた声の響きと、いま、たぷたぷと船体を打つ波音が重なって聞こえていた。
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