第19話 置き去り

 銀の刃が月光にきらめく。

 レクセアの薬指の第二関節、その腹を刃は撫でるように滑る。

 繊細優美。けれど丸みに欠けたその指先。

「ちゃんと食事はしているのかね?」

 血の繋がらない従姉はエルンストの言葉に微笑んだ。

「ご心配ならあとでこもりうたを歌ってください。わたしの夜の眠りを守ってくれる、そんな歌を」

「私はこれでも人の安息を脅やかす者だったのだよ」

 テーブルの上に、古ぼけた瓶が三本、置いてある。

 昼間、鳳稀梢が置いていったままの瓶だ。

 従姉の指先から血が一筋流れ落ち、水晶の杯に溜まった。

 いつもの分量まで杯が充たされたのを確認すると、彼女は薬草をって作った傷薬を指に塗り、古めかしい油紙で覆って包帯で器用に縛る。

「なにかお聴きになりたいことがあるのでしょう?」

 物言いたげに、けれども次の言葉の喉元につかえさせたままのエルンストに、従姉が問うた。


――五十年前の、あの日のことを。あなたが、私に聴かせてもよいと思うなら。


 昼間からずっと考え続けてきた台詞を、エルンストは胸の内で繰り返す。

 でも、これでは駄目だ。

 すべての責任を彼女に負わせ、私は彼女から与えられるものを受け取るだけの立場に逃げている。

 レクセアはそんな私のずるさを、きっとゆるすことだろう。

 でも、それでは駄目なんだ。


 押し黙ったエルンストを伏し目がちな黒い瞳で見遣りながら、レクセアは水晶の匙で紅のしずくを掬う。


 匙がエルンストのくちびるに触れた。


 舌を甘く蕩かし、喉を熱く焼き、脳髄を蠱惑で酩酊させるそのしずく。


 夜ごとの儀式。


 私は、この匙になにが含まれているか、知っている。

 ――知って、しまった。

 そう、鳳稀梢が意識を混濁させる薬のことを口にしたとき、真っ先に思い出したのがこの。

 水晶の匙

 匙に、薄く、薄く塗ってあるのだろう。

 私をうつつと夢幻のあわいに誘い、傷つくことも悲しむこともない場所に、優しく置き去りにしてくれる薬。

「あの夜――そう、誘拐犯のせいで旧邸に行った日のことだ。私はメリナの血を貰った。その夜は……眠くならなかった」


 とろとろと、まぶたが落ちてくる。

 レクセアの指が私の頬を撫でた。


 はじめて出会ったときの彼女は、葉の落ちた楡の木のようにすっくりと立つ青年だった……そんな記憶の切れ端が残っている。


 たとえば、そう……吸血鬼になるには、互いの血を飲み交わせば良い。そこに男女の隔てはない。

 だが、『魔女』はその性質の問題で女にしかなれないという。

 『魔女の技』

 彼女と、彼女の母親の祖国、新大陸の南、テパネカ王国の医療技術の中でも、秘術と言われるもの。

 神に捧げる贄の肉体を清浄に保つため、贄の傷を跡形もなく癒やし、痣を消すだけでなく『神への供物にふさわしくない部分を切断し、別の肉体の部分と取り替える』ことさえできるのだと。

 薬の調合などは男にもできるが、その秘術だけは女にしか伝承できないのだと。

 ならばレクセアはなにか事情があって男の姿をしていたのか。それとももっとなにかがあったのか。


 分からない。


 初めて会ったあのときも、いまとおなじように背筋がぴんと伸びていた。

 若かった私の正面に立ち、静かに頭を下げた。

 浅黒い肌が豹の毛皮のように、しなやかに艶めいていた。

 伏し目がちのまぶたに覗く、輝く烏色からすいろの瞳。


「明日、私が目覚めたら、聴かせてくれないだろうか」

「……なんでも。エニー、あなたの聴きたいことは、なんでも」

 夢のあわいにほどけてゆく私の意識は、彼女がそう答えるのをたしかに聴いた。

 けれど。


 次の日、彼女はいなくなった。

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