第18話 椿
「これはおまけです」
首置きの皿を作ってよこしてから、また数日して、稀梢が今度は
窓を開けて風を通すと、衝立から涼しい香りがした。
夏が終わり、足早に秋が来ようとしている……その夏の最後の暑気を祓うような香りだ。
薔薇の透かし模様が全面に彫られていた。首の受け皿とは違い隙も多いので光は遮らないし、窓からの景色を眺める妨げにもならない。
「光がお邪魔なら、こちらをどうぞ」
衝立に薄絹を掛ける。
刺繍も何もない、シンプルな白絹だ。完全に光を遮るほど厚くはない。ただ光は柔らかくなる。
木工細工のすべてに彫刻が施されているためにいっそ、絹の素朴さが映える。
「素晴らしい」
エルンストが溜息を吐いた。
それなりに贅沢には慣れていたが、自分で選ぶ審美眼はついぞ養われなかった。その自覚はある。自分で選んだとして、ここまで趣味のいい組み合わせにはならないだろう。
「贅沢は飽きるほど見てきましたから」
お定まりの
「そういえば、あれからなにか分かったのだろうか?」
エルンストが問うた。質問は『誘拐犯』のことだ。
「とくになにも」
稀梢が首を横に振る。
「メリナ嬢の身にはなにも起きていないようです。ただ、動きがまったくないわけじゃない。私はあれから二度ほど、旧繁邸には忍び込んでますが、向こうもなにかを探し続けている……いろいろものを動かした跡があります。ただ、いまのところ鉢合わせしてはいません」
「……忍び込む……メリナが怒るぞ。だいたい鍵は?」
「最初に借りて、そのままです」
稀梢がスラックスのポケットから、古びた鍵束を取り出して、しまう。
「メリナに返したまえ」
「返しますよ、次に会ったときにでも」
エルンストが眉をひそめた。
彼とて、さほど道徳的に清く正しく生きてきたわけではないのだが、借りたものを返す点については『常識の範囲内でやっていた』と思っている。それだけに稀梢の大雑把さが気になって仕方がない。
「ところで、これがなにかご存じですか?」
稀梢は古びた瓶を三本、テーブルに置いた。
瓶にはすこしずつ色の違うなにかの粉が入っている。
「それは、あの屋敷の地下の」
「そうです。帰りも馬でしたから、全部は持って帰れなかったんですが、『彼ら』が持ち去ろうとしていたものだったので、なにか分かるかと思いまして。図書館で文献を当たってみましたが、さすがに専門書となると私の語学力ではいまひとつ心許ない。加えて、プロイセン公国は新大陸諸国の技術にはもともと関心が低いようです。文献そのものがあまりなかった」
「『プロイセン公国は』、というよりは『西方諸国は』、というほうが正しいな。古代からの関わりで西方諸国の関心は東方と旧大陸にある。新大陸は熱帯の地域を除けば植民地化もできなかった。『美味い汁を吸う』余地がすくないところに関心を寄せることはない。叔父上は特別で、冒険家で新大陸諸国を旅して回っていた。まあ、レッキの母親と現地で結婚して帰ってきたときはさすがに父は驚いていたが、叔父上は傍系だからな。それなりに自由だった。羨ましく……いや、どうかな。もう忘れたな」
稀梢がゆっくりと、瞬きをひとつした。
庶民には選ぶ道すら与えられていないが、貴族には選択肢はあっても選べない道がある。殊、エルンストのような継嗣ともなれば。
「……その瓶はレッキの母親のものだろう。私もどう使うのかは分からん。レッキなら知っているだろうが」
「結局、それしかなさそうですね」
稀梢は、ほう、と溜息を吐いた。
「分からないながらも、ものは試しと一通り舐めてみたんです」
「毒かもしれないのにか?」
「まあ、私の身体は大概のことでは死なないようにできているので」
テーブルの脇にあった椅子に腰掛けて、ゆったりと頬杖をつく。
「三本とも、毒といえば毒でした。普通の人間ならひと舐めで死にます。ただ、毒でも加減すれば薬になるものはありますからね。私はレクセアさんの故郷の医学については知らないも同然ですから、巧く使えばなにか効用があるのかもしれない。分かったことはほとんどないんですが、ひとつ……その、すこし紫がかった粉、かなり薄めて使っても意識を混濁させる作用がある。はっきり分かったのはそのくらいです。ここしばらく夜になるたびに濃度を変えながら舐めていたんです。まあ、よく眠れましたね。私は眠らなくてもいいようにできてるんですが。おまけに舐めるまえの記憶がところどころ飛んでいる。迂闊に興味を持った私が悪いんですが、目が覚めていろいろ不安になる経験なんて、生まれてはじめてですよ」
「そうか」
「エルンストさんから、聴いて頂けますか? もちろん、問わなくてもいい。私は部外者ですから、五十年前、あの屋敷でだれがなにをしていたかなんて、何も分かりません。分からないながらも憶測するに、いまさら分かったところでいいことは何もない……その類いのことでしょう。知ったところでいま解決しなければいけない問題……あの誘拐犯たちのことについてはなにも分からないかも知れない。でも、もし知りたいと思われるなら」
――それを問う資格があるのは、エルンストさん、あなただけです。
稀梢は最後まで言わなかった。
けれども、エルンストにはその語られない言葉が、はっきりと耳に届いたのだ。
エルンストの頬を、涼しい香りが撫でてゆく。
「……この衝立に使った木は、なんと言うのかね?」
「
「――ありがとう」
エルンストはそう言って、まぶたを静かに閉じた。
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