第16話 面
一夜明けるとだいたいのことがもとに戻った。
エルンストは窓辺にいて部屋の隅のテレビを見ている。
レクセアは仕事に行く。午前八時に家を出た。昨日、自宅に帰り着いたのは明け方近く、四時頃だったから眠そうだった。
これまでの実績でいくと、月曜は患者が多いので夜は九時を過ぎて戻ってくるだろう。時間の空いたときは昼休みに一回、自宅に戻ってくる日もあるが今日はきっと戻ってこない。たとえ昼時に余裕があっても、多分、医院で仮眠を摂るはずだ。
レクセアが帰ってきたら他愛ない話をちょっとして、レクセアの血をすこし貰って、眠る。レクセアは自分の寝室で、エルンストはレクセアの隣の部屋のクッションを詰めたおおきな藤蔓製の買いもの籠のなかで。
これまでと変わることのないエルンストの日常。
メリナはあの夜、深夜にレクセアの車で家に送り届けられた。
町の西の外れにある古びた集合住宅だった。築半世紀、同じような外観の建物が近隣にいくつかあったことから、連合国の空襲で瓦礫になった地区を、戦後再建するときに国が建設した集合住宅のひとつだと見受けられた。
プロイセン公国の建物は昔から建築資材が石や煉瓦が中心のうえ、地震災害がすくないのもあり、高層ビルを建てる必要がある場所を除けば築数百年のものも多い。建物としての『味』が出てくるのは百年過ぎてからだ、と考えられている節もある。
が、戦後すぐに建設されたこのタイプは急ごしらえのうえ、たくさんの世帯を入居させることを優先したため、今となってはなにかと手狭で人気がない。
最近は徐々に取り壊され、新しい集合住宅に更新されつつある。
メリナの一家は引っ越しを急いだため、ここを選択したのだろう。
メリナを親元に帰すに当たってどこまでほんとうのことを言うか、とメリナも加えた四人で思案して結局、町を冒険していて迷子になった、ということにした。
つまりは、真実は明かさない、ということだ。
あの誘拐犯たちの生き残りがメリナにちょっかいを出す可能性もあったが、相手のことがなにも分からないいまの状況では、警察に相談するのも難しい。
そもそも、旧繁邸の警備員を装っていたところから見て、プロイセン公室に関わりがある人物が背後にいる可能性もゼロでは無い。となればどこまで警察を信用して良いかも分からない。
『町の南まで行って冒険しようとしたのだが、お小遣いの入った財布を落とし、帰れなくなって道をとぼとぼ歩いていたところ、たまたま車で通りがかったレクセアがメリナを見つけて事情を聴き、送り届けた』
ということにした。用心のためにメリナが自宅から外出するときにはディーナが護衛する。
どうしてレクセアが深夜にドライブしていたのか、というところの設定が甘いが、まあなんとかなるだろうということで全員の意見が一致した。
実際、メリナの両親は心配していた娘が戻ってきたことで頭がいっぱいで、レクセアには礼を言ったものの、レクセアの素性を確認することもなかった。
彼らがレクセアのことで知っているのは、彼女がメリナを連れて行ったとき、最初に名告った『町の北側で開業している内科医のレクセア・ブレアシュルツ』ということくらいだ。
エルンストの旧邸を占拠していた『誘拐犯』は、旧邸にいた五人は全員、ディーナと稀梢が始末した。
稀梢は床や壁に飛んだ血を、すっかり色あせていたテーブルクロスと井戸水で拭き清め、『兎狩り』で倒れた家具や開け放たれた扉を、いちいち定位置に戻してゆく。ディーナの食べ残しは、まとめてテーブルクロスで包み、屋敷の裏手に坑を掘って埋めた。
後始末にはものの十五分も掛かっていない。きびきびと無駄なく、かつ丁寧な手際だ。
エルンストにしてみれば稀梢は驚くほどまめな性格だった。
なにかと後ろ暗いところのありそうな『誘拐犯たち』が、暴力の痕跡の残った屋敷を目の当たりにしたとしても警察に届けるとは考えにくいが、稀梢曰く、念のためだという。
「仕事においても、そのほかのことでも『手間暇を惜しむな』というのが、私を導いてくださった方の教えです。もちろんこうやって片付けたとしても、昔と違って警察の鑑識が入ればいろいろと痕跡は見つかってしまいますが、初手で『ここが犯行現場だ』と相手に思わせなければ、警察がここを調べる可能性はすくないでしょうし、調べられなければまあ、バレません」
茶目っ気たっぷりの笑顔でそういう稀梢を、エルンストは怖いと思ったものだ。
エルンストも首と胴が繋がっていたころは散々『兎狩り』を愉しんだものだが、たいていはそのまま放置した。
あとでその惨状を目にした官憲や村人、近代になってからは新聞記者たちが『殺人鬼現る!』『狼か? 野犬か?』などなど、さまざまに噂したものだ。
もちろんリンデンバウム家はその疑惑の渦中にあったが、彼らは貴族だった。おなじ貴族や、貴族に準ずる者……大商人の親族の命を奪えば面倒なことになっていたろうが、エルンストたちもそこまで考えなしではない。襲ったのは庶民ばかりだ。吹けば飛ぶ程度の、軽い命だ。
結局、すべての『兎狩り』は有耶無耶になった――ただし、たくさんの敵を作ってはいただろう。
テレビを見ながらエルンストはとりとめもなく昨夜のことを思い起こしていた。
彼が馬小屋で聴いた声の主……『テレビで耳にしたことのある声をした男』は、屋敷にはいなかった。
直前にジープのエンジン音が聞こえたので、おそらくそのときに屋敷を出たのだろう。あの横柄な声の雰囲気からは自分で運転したとも思えないから、運転手とテレビの男、最低ふたりは『逃がしてしまった』ことになる。
一応、『誘拐犯』のひとりには始末するまえにいろいろと問い糾したのだが、たいしたことは知らされていないようだった。分かったことと言えば、彼が極右政党の政党員だということくらいだ。
稀梢の『片付け』のついでに屋敷のいろんな場所を見て回り、『誘拐犯』の正体が分かるような痕跡がないかと探しもした。
だが、めぼしいものは見つからなかった。
彼らもなにかを探していたようだ。
屋敷の地下がとくに探られていたようで、地下室の一室、壁も床も白っぽい色のタイル敷きになった部屋には床にたくさんの足跡がついていた。
それに加えて最近になっていろいろとものを動かした跡があった。
あちこちにちいさな丸い形をした、埃の溜まっていない場所があったのだ。
床には薬品の入っているらしい古ぼけたガラス瓶が、真新しい段ボール箱にまとめられていた。いつでも持ち出せるように準備していたものだろう。
地下室なので窓はなく、湿気が籠もらないようにするための換気坑が部屋の隅に開いているだけ。
そのせいかエルンストにとってその部屋は、どことなく息が詰まるような心地がした。
窓がないのが問題ではないはずだった。エルンストは首と胴が分かれるまえには日光が苦手で地下室で眠っていた。
古式ゆかしく柩で眠っていたわけではないのだが。天蓋つきの広い寝台だった。柩は狭すぎて息が詰まる。
息が詰まるように感じたのは、あの部屋のなにかが心に作用しているのだ……でもなにが?
屋敷には五十年前まで、レクセアの家族が住んでいた。薬品らしきなにかが置いてあるところからして、あそこはレクセアが使っていた部屋だろうか?
――違う。レッキの、母親の部屋だ。
――そういえば、レッキの母親はどうなった?
五十年前は、生きていた。
――叔父は、なぜ亡くなった?
エルンストはふと気になって親族のことを思い起こす。
――私の両親は、ウィーンで革命騒ぎが起こったとき、暴動に巻き込まれて亡くなったのだ。ハプスブルク皇家が倒れたその日に。
そのあと私が当主になった。そのときは叔父夫婦は存命だった。
――叔父が亡くなったのは、大戦のさなかだ。
夫婦でベルリンに行き、レッキの母親だけが戻ってきた。
――なぜ? 彼らはなんの用があってベルリンに行った?
あのときはプロイセン公が皇帝を名告り、国民社会主義拡大プロイセン党が政権を握って戦争をしていた。大陸西方はほとんど大プロイセンが占領していた。だが、新大陸諸国が大プロイセンに宣戦布告し、戦況は見通せなかった。だから、叔父とは「しばらく政権とは即かず離れずでいこう」そう話していたはずだ。
――思い出せない。
そしてレッキの母は……いつ亡くなった?
――思い出せない。
昨日訪れた叔父の住んでいた屋敷の地下、奥の壁に平たくおおきな石があった。稀梢の腹くらいの高さがあり、人ひとりが寝そべることができるほどの奥行きと幅がある。
石はかつては磨かれていたのだろう。五十年分積もった埃を払いのければ、その表面はなめらかそうだ。
その上に、黒く細長い塊が置いてあった。一見、燃えた木かと思ったが、腐れ乾涸らびた肉塊のようでもあった。
エルンストの直感が、『あれは肉塊だ』と告げていた。
なにかが『それにかかわるな』と警告していた。
『触れるな』『見るな』『ないものとして扱え』――心の水底から湧き上がってくる恐怖。
稀梢はあの黒い塊には目もくれなかった。が、エルンストは目が離せなかった。
結局、稀梢はあの部屋から、段ボールのなかの瓶を三本ほど持ち去ったほかは、なににも手を触れず、立ち去った。
部屋を出るそのとき、エルンストは部屋の奥に
歳月にくすみきったその石の
しかし、エルンストはたしかに見たのだ。
――その面に映るエルンストの首からは真新しい血が滴り落ち、表情は恐怖に歪んでいた。
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