第14話 月

 湖に映る月が美しい。

 地形が湖に向けてなだらかに傾斜しているため、遮るものがすくなく湖面が見晴らせるのだ。

『ボーデン湖は氷河湖です。かつて地球が今よりもずっと寒かったとき、積雪は解けることなく積もり、おおきな氷となって大地を覆いました。その重量で大陸を何メートルか沈めさえした巨大な氷河は、毎年わずかずつ標高の低い方へ移動します。そしてその重みでゆっくりと地上を削っていきました。大地はU字型に削られました。地球が暖かくなってこのあたりを覆っていた氷河が消えたあと、U字型に削られた部分に水が溜まったのがボーデン湖です。ボーデン湖畔になだらかな傾斜がおおいのは、かつてここが氷河に削られた場所だったという証拠なのです』

 エニーは物知りだね、きっと長生きだからだね、とメリナは感心してくれるが、エルンストの知識はだいたいテレビ番組から得た情報……昼間見ている旅行番組と教育番組のおかげである。

 つまりは、人間の研究の成果だ。

 何万年も前のこと、宇宙の果て、海の底。

 ――寿命がみじかいくせに、益体やくたいもないことを知りたがる。

 いや、違うな。実利しか目に入らぬ者もいれば、益体もなさそうなことに一生を賭ける者もいる。他人に手を貸そうという者もいれば、他人の足を引っ張ろうという者もいる。

 人は、数がおおいからな。みなが思い思いに自分の得意なこと、興味のあることをやり、それで世が回っているのだ。

 我々は結局、『厚み』がない。だからこうやって人に居場所を奪われて行くのだろう。

 父も母も、叔父も、とうのむかしにいなくなった。私だけが残った。残って—―しまった。

 そもそも私は――

 ――なにも成せないし、生せない。


「ここにいたんだ」

 高みから声が降ってきた。

「シシィ!」

 メリナがエルンストを抱えて飛び跳ねるように立ち上がる。

 ――まるで『白馬の王子』だな。

 馬の息遣い、地を搔く蹄、メリナの興奮。

 跨がっているのは白馬ではないが、メリナにしてみればいまの稀梢の役どころは『窮地の救い主』だ。

 魔法使いに導かれ、姫君を救いにやってきた王子。

「怖くなかった?」

「エニーが一緒にいてくれたから、大丈夫!」

「それはなにより」

 稀梢が馬から下りて、「なるほど、レクセアさんの占いはよく当たる」と独りごちる。

「誘拐犯はあの屋敷にいる」

 坂の上を視線で示して、エルンストが言った。

 いまエルンストたちがいる場所は馬小屋と屋敷のまんなかあたりだ。

 屋敷は坂の上にあり、ここからは見えない。

「さっき、エンジンの音がしたから、出払っているかもしれないな。いや、一時間ほどまえに屋敷の裏手に回った時には、屋敷のなかの足音は一人、二人ではなかったから、何名かは残っているだろう」

「彼らの移動手段は?」

「念入りに見て回ったわけじゃないが、屋敷のまえにジープが一台、駐めてあった」

「なら、もしいま屋敷に人が残っていたとしたら、逃げる足がない、ということ?」

「まあそうなる」

「それは重畳」

 いつのまにか稀梢の肩に乗っていたディーナも、にゃあ、と嬉しそうに鳴いた。

 エルンストにはその意味が分かる。

 『兎狩り』だ。

 ……メリナには見せられないたぐいの。

「エルンストさんも一緒に来ていただけますか? 屋敷のなかを案内していただきたいのですが」

 生存者を残さないために、ということだ。

「構わないが、メリナは?」

「しばらくひとりで馬小屋に避難していてもらいましょう。今回のことについていろいろ『穏便にお話を聞きたい』と思ってるんですが、向こうが暴れると厄介ですから。いいですか、メリナさん?」

「いいよ、この子と一緒なら」

 メリナは稀梢が引いている馬を指差した。

「野生なので、不用意に触らないと約束してくれるなら。馬に近づくときのコツは知っていますか?」

「うん。父さまと何度か市営の牧場に行って馬に乗せて貰ったことがある。え、と、『前から、お馬さんの視界に入るように近づいて、安心できるように優しく声を掛けながら、首のあたりを触る』んだよね」

「そうそう」


 メリナに抱えられて稀梢たちとともに馬小屋へと向かいながら、エルンストは一抹、胸に湧き上がった憂鬱を持て余す。

 たとえようもない、憂鬱。

 月のように孤独であればいい。

 星のようにあれば、較べてしまう。眩いもの、赤いもの、蒼いもの、動くもの、不動のもの、そこに優劣はないはずなのに、『より望ましいもの』を視てしまう。

 そうか、レッキが私を外に連れ出したがらないのは、きっと……

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