第13話 流行

 三時間以上、東に車を走らせ陽が西の地平に沈みきったころ、レクセアが車を駐めた。

 車を降りて、稀梢にも降りるよう促す。

 レクセアの肩にはディーナが乗っている。

 ボーデン湖の西の端、ユーバーリンガー湖畔が一望できる展望台のもうけられた駐車場だった。

「ここから、二時間徒歩になります」

 と、レクセアが言った。

 駐車場には肉の焼ける匂いと酒の匂いが漂い、楽しそうな声がそこかしこから聞こえてくる。

 キャンプ場が併設されているのだ。駐車場は満車に近い。

 どことなく和やかな雰囲気のなか、レクセアの表情は硬いままだ。

 稀梢は湖のほうを振り返った。駐車場の湖側の端はすぐに斜面になっている。

 展望台に登らずともそこから湖の方を眺めると、月明かりにきらめく湖面が見晴らせる。

 湖面へと続くなだらかな斜面には馬が何頭か見受けられた。

「こんな日暮れに、馬が屋外にいるんですね」

「馬主はいませんから。昔、このあたりの領主の飼っていた馬が野生化してるんです。中世から軍用で使われていた馬種で、アラブ種より小型です」

 よく見れば駐車場の一角に『野生の馬です。危険。近づかないでください』と看板が立っている。

「ここから東に行ったところに、エニーの旧邸があります。本邸は焼けてありませんが、まだ別棟の建物は残っていて、エニーとそのお子さんはおそらくそこに。五十年で朽ちていなければ、建物からすこし坂を下ったところに馬小屋もあります。車道がないので、歩くしかありません。ビートルは多少の悪路でも走れますが、ここからの道は悪路と言うより、獣道しかないような状態なので、四輪駆動車でないと無理です」

 稀梢がふと、息を吐いた。

 撃たれた鎖骨の傷のなおりが思ったよりも悪いらしく、憂鬱そうだった。

 一応、着替えていて止血用のテープだけは貼っているので一見、怪我をしているようには見えないが、左腕はだらんと下がったままだ。

「痛いのですか?」

「いえ、あまり痛みは感じないのですが、やはり食事を摂ってないと治らないものだな、と。最近、おおきな怪我はしてなかったので甘く見てましたね」

「……食事? もちろん、飲食店で出るようなものでは……ありませんね?」

「ええ、まあ、私は……そうですね、エルンストさんの遠い親戚のようなものでしょうか。華夏のほうでは、私のような者を『地祇ちぎの縁者』と言うのですが。十年ほどまえに『殭屍キョンシー』映画が流行りましたが、あれとはすこし違います。ご存じかどうか……夫婦の床で精を奪う『グゥイ』に近い。私は、血を吸うほうが好みですが」

 レクセアがひっそりと微笑んだ。

「それはなかなか大変でしょう」

「ええ、今も昔も、なかなか……。とはいえ、私を導いてくれた方の教えがよかったので、食事は年にひとりで保つように身体は慣らしてはいます。ただ、今日のように大怪我をするといけませんね」

「……エニーの旧邸は、陸の孤島です。いまはそこに廃屋があることを覚えている人もほとんどない。ディーナにもたまにはおなかいっぱい食べさせないといけませんし」

 稀梢がくつくつと肩をふるわせて笑った。

「あの、ぼんやり灯りの見える場所を目指せば良いんですね?」

 北東の方向を右手で指差して問う。

 月に照らされ輪郭を滲ませる丘の斜面の上の方、一点、ちらちらと人工の光が見える。

 おそらく人間の目では捉えられないくらい、幽かな光だった。

「ええ、そうです」

 レクセアが頷いた。

「牽引用のロープはありますか? ワイヤー製じゃなくてナイロン製のがあればいいんですが」

「なにに使うんです?」

 問いつつも、レクセアはビートルの後部座席の床に置いてある工具箱からロープを取り出して、稀梢に渡す。

「用は足ります?」

完美申し分ない

 言うが早いか稀梢は駐車場から湖畔のほうへ降りていった。レクセアの耳に馬のいななきが聞こえてくる。

 しばらくして、稀梢が帰ってきた。

 ――馬に乗って。

 牽引用のロープを手綱代わりにして、あとは鞍もあぶみもないままに、御している。

 キャンプ場でざわめく声がする。

 駐車場に騎乗して現れた稀梢の姿を目に留めた者だろう。

「片腕が不自由なこの状態で二人乗りは無理ですから、レクセアさんは車で待っていていただけますか?」

 にこりと笑って、稀梢が言う。

「驚いた。先祖は遊牧民だったりする?」

「まさか。両親も私も、生まれも育ちも中原です。ただ……」

 稀梢はレクセアからディーナを受け取った。ディーナは馬の鬣にしっかり掴まるように、身を低くして稀梢の足のあいだに身を落ち着ける。

 レクセアが「月の影を作るようにしてあげて」という言葉に、稀梢は頷いた。

 キャンプ場から見物に来た人々を避けつつ稀梢は素早く馬首を巡らせ、

「昔取った杵柄というやつです。私が生まれたとき、まだ鐙なんてなかったんで」

 そう言って、馬を促し駐車場の傾斜を駆け下りて行った。




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