第12話 湖

 屋敷の裏手にある人目に付かない使用人用の手洗いで、メリナの喫緊の問題を解決した。

 水洗式でない手洗いというのはメリナにとってカルチャーショックだったらしく、「すごい、すごい」と興奮していた。

 エルンストにはなにが凄いのか分からない。

 吸血鬼は排泄しない。もともと人間で、あとから吸血鬼になった者たちは「解放された」と言ってひそかに喜んでいたようだが、生まれてこのかた、トイレを使ったことがないエルンストにとってはそのありがたみがよく分からない。

 それでもエルンストは新しもの好きで、プロパンガスの販売が始まるとすぐさま暖房と厨房設備をガス式に変えた。電気も発電機を備え付けて電灯を灯した。

 人間の召使いたちには喜ばれたものだ。

 じつのところエルンスト邸のトイレは井戸からモーターで水をくみ上げて溜めておくタンク式水洗だったのだが、重油の切れたモーターが動かないので、いまは水洗として使えない、というのが正しい。むかしの汲み取り式トイレの掘削抗も蓋をするだけで埋めずに残して置いてよかったと思う。

 人の技術によって生み出された設備は、脆弱だ。

 エルンストはそれをよく知っている。

 ――なにもかもが灰になって森に還る。

 それでも、積み上げた石や、掘った坑。加工のすくないものは、かつてそこに人が住んでいたことを物語る。

 エルンストの一族は、人間より強く、長命だ。運がよければ永遠に生きられると言うが、残念ながらたいていは二、三百年で灰になる。

 人がその技術で造ったものですら、多少の痕跡は遺せるというのに。骨すら遺さず、消えてしまう。

 『エルンスト』という存在の痕跡は、なにひとつなくなってしまう。

 ――それは、ほんとうに『強い』と言えるのだろうか?


 エルンストの旧邸は、ボーデン湖の湖畔、丘になったところに建っていた。

 いまはエルンストの父の弟夫婦が住んでいた別邸だけが焼け残っている。

 五十年前、エルンストの首が何者かによって切断されたとき、本邸は火を掛けられたのだ。

 賊は別邸にいるようだった。焼け残ったとは言え、レクセアの両親もそのときに殺されている。だれも住まなくなった屋敷はもはや廃屋も同然。電気が通っているはずもなく二階の一角に懐中電灯かランプか……ちらちらと灯りが揺らめいていた。

 屋敷の前にはいかついジープが駐めてあった。

 車道に出るまで徒歩で二時間はかかる場所に屋敷はある。最近はボーデン湖畔にはキャンプ場もできたらしいが、エルンストの旧邸あたりはいまでも人の手が入っていない。忘れ去られた陸の孤島だ。

 戦後の混乱もあって、いまとなってはここに元ハプスブルクの貴族の一族が住んでいたことを覚えている者はいないだろう。

 ――いるとすれば、私の首を伐った者たちくらいか。


 メリナは湖の見晴らせる場所でクッキーを食べることにした。まわりに電灯はひとつもないが、月明かりのおかげで真っ暗ではない。

 エルンストを腿のうえに『座らせる』。湖のほうに首を向けて、一緒に眺めるつもりだった。シーンズ生地が首の断面にあたってゴワゴワしないかと尋ねたが、大丈夫だという。

 見張りの男が戻ってくることもなく差し迫って命の危険はなさそうだが、のんびりできる状況でもない。

 逃げ出すための車はある。

 が、メリナはもちろん、エルンストも運転の方法が分からないから、ここを逃げ出せない状況には変わりない。

 それでも、おなかは空く。

 おしぼり、紅茶、クッキー、そしてお小遣いのセット。

 どこにいく、と説明しなくても娘を信じてちゃんとこれだけのものを持たせてくれる両親のことが、メリナは大好きだった。

 それだけに、おかしなことはしないと信じてくれている両親を裏切ってしまったようで、気が塞ぐ。

 もちろん、不可抗力なのだが。

「大丈夫だ」

 とエルンストが言った。

「私には従姉がいて、彼女は占いが得意なんだ。失せ物探しなぞお手の物で、我々のこともすぐに見つけ出してくれる」

「従姉のひと?」

「そう、私の父の弟と結婚した女性の連れ子だったから、私とは血は繋がっていない。私が彼女とはじめて出会ったのは三百二十年ほど前のことで、そのときの彼女は、男に見えたな。ただ、名前はそのときもレクセアと名告っていた。女らしい名をした男なのか、男のように見える女なのかと、多少気にはなったがどうでもいいと思っていた。私にとって人間は、食糧だったからだ。あるいは、昼の眠りを守る番人か。ソーセージに使われている豚が、雄か雌か気にしないし、仕事をこなしてさえいれば、それが男か女かなんか、どうでもいいだろう? それと同じようなものだ。ただ、ずいぶん痩せて顔色が悪くて血がすくなそうだと思った。もちろん親族になったのだからつまみ食いなどしなかったがね」

「でも、いまは昼間も起きてるんだね」

 クッキーを齧りながらメリナが尋ねる。

「首だけになってからはなぜか昼も平気になったな。逆に夜が眠くて敵わない」

「いまでもエニーは人の血を吸う?」

「もちろんだ。ただし、この有様だから昔みたいに選り好みはできない。レッキが毎晩、飲ませてくれるのに甘えているよ。……ああ、レッキとは、レクセアのことだ」

「レッキって呼んでるんだね。わたしもそう呼んでもいいかな」

「歓迎するだろうさ。……ところで」

 エルンストはそこで言葉を切った。

 メリナの膝の上で湖を眺めながら、どことなく『もじもじ』しているような気配がある。

 メリナはお手拭きで指についたクッキーの屑を落とし、エルンストを自分の正面に向き直らせる。

「なに? なにか言いたい?」

「まあ、そうだな。その……すこし、私に血を分けてくれないだろうか? 指から、ちょっと。牙でちょっと傷つけて、そこからちゅうっと吸えば傷はすぐに塞がるしそんなに痛いこともないはずだ。あ、あと、吸血鬼に噛まれると吸血鬼になるというのは、もう一段、手続きがあって、人間が吸血鬼の血を飲まなければ変化しない。ひとくちでいい。毎晩、すこし摂らないと乾涸らびてしまうのでね。お願いだ」

 顔をすこし赤らめて、切々と訴えるエルンストの『お願い』を、メリナが断れるはずもなかった。

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