第11話 坂道
足音が止まった。
「これが繁家のこどもか」
若い男の声がした。
正確には、若く聞こえる声、だ。
いまは栄養状態がよくなったせいか、昔ほど老いは肉体を
二、三百年前の三十代と、いまの三十代を比較すれば、いまの三十代は二十代にしか見えない。
とくに声は、五十代になっても若々しい者もおおい。
――それよりも、だ。
エルンストはその声を、どこかで聞いたことがあると感じた。
来客ではない。そもそも彼の屋敷を訪れる者はほとんどいない。
首が胴と繋がっていた頃に会っていた客か?
――ちがうな、テレビだな。
暇つぶしに観ている番組に出てくるのだろう。
エルンストはドラマはあまり観ない。映画はときどき観る。旅行番組やニュース番組はよく観る。こども向けの教育番組、あれもけっこう楽しんで観る。
レクセアと一緒に観ているときはともかく、エルンスト自身はチャンネルを変更できない。
朝、出勤前にレクセアがつけてくれたチャンネルを、レクセアが帰ってくるまでずっとつけっぱなしにしている。
だから、系統立てて観ているわけではない。仕方がない。エルンストには手も足もないし、借りようにも猫の手は彼の言うことなど聴いたためしがない。
いつか『思っただけでチャンネルが変更できるリモコン』が開発されないかとひそかに待っているのだが、まだその日は来ないようだ。
「掠ってくるなど、愚かにもほどがある。能なしめ。で、屋敷からはまだなにも見つかっていないのだな」
「ええ、申し訳ありません」
若い男の声に応えるのは、おなじく若い男の声。
足音はひとり分だけだったから、彼はずっとここにいたのだろう。
詫びた男の声は知っている。昼間、メリナに「どこから入ってきた、このクソガキ」と悪態をついて彼女を拘束した男だ。
「詳しいことを聴きたい。報告せよ」
足音が遠ざかる。今度は二人分だ。
リュックサックを背負っているはずのメリナが目を覚ましたようだ。
身じろぎした気配がある。
リュックが小刻みに上下する。
どことなくたどたどしくファスナーが開けられた。
「よかった、潰れてない」
メリナの安堵した声。
まだとても眠そうで、呂律が回っていない。
――鎮静剤を打たれて、効果が切れ始めたところか?
掠われてから、エルンストの体感で六時間以上経っている。それだけ時間が経ってもまだ朦朧さが残っている分量だとすると、過剰投与だろう。ひとつ間違えれば死ぬ。
――レッキなら「薬品を雑に使う人は、見つけ次第、みんなディーナに齧らせる」くらいは言う。もしほんとうに見つけたら、実際やる。
「首だけとはいえ、私は吸血鬼なんだ。丁重には扱って欲しいが、床に叩き落とされても割れない程度には丈夫だ。安心したまえ」
花瓶よりは丈夫だと言われてもなかなか安心はできないと思うが、論より証拠だ。
長めの黒髪こそ乱れているが、ほかは傷ひとつない。
髪の乱れだって、無防備かつ大人の色気が増してこれはこれでよいとも言える。
メリナ嬢はまだ「お年ごろ」ではないせいか、この魅力にピンときてはいないようなのが残念だが。
「潰れるといえば、君のお父上特製のクッキーはだいぶ割れてしまったようだ」
「いいよ、割れたって美味しいから」
「ところで――まわりにだれかいるのか?」
「――いないみたい」
不用心極まりないが、そんなものだろう。おそらく彼らが誘拐犯になったのは偶然だ。こどもの足で歩いて逃げられる場所でなければ、あえて監視を厳重にする必要もない。
「外が見たい」
と、エルンストが言うと、ファスナーがさらにおおきく開けられ、腕が差し伸べられる。
エルンストが最初に目にしたのは、板張りの床と柱だ。
牢屋のようにも見えるが、出入り口は鉄格子ではなく隙間をおおきく取った横木が何段か組まれているだけで、小屋の窓から月明かりが差し込んでいるのも分かる。
灯りはないが、すくなくともエルンストにとっては月明かりだけで充分すぎるほど明るい。
牢屋だとすればずいぶん開放感がある小屋だ。
床はそんなに汚くはなかったものの、長年使っていなかったらしく、埃だらけだった。
ところどころに藁屑が残っている。
この小屋には同じように仕切られた部屋がいくつかあるようだった。
――馬小屋だな。しかし、どこかで――
記憶にある場所のような気がする。
窓から入ってくる風には、水の香りが強い。
遠くに波の音も聞こえてくる。
さらに耳を澄ませば――そう、耳がよいのは吸血鬼の能力のひとつだ――馬の息遣いさえも聞こえる。
――むかし、故郷の屋敷のちかく、ボーデン湖畔の野生の悍馬を捕まえて飼い慣らすのは楽しかったな。
ふと感傷に浸っていると、
「ねえ、エニー。お手洗いに行きたいんだけど、どうすれば良いと思う?」
と、メリナが問うてきた。
なかなか深刻な問題だった。
「立てるか?」
と、エルンストが尋ねると、メリナはよたよたと立ち上がる。
やはりまだ鎮静剤のせいでふらついている。
「ここは馬小屋だからトイレはない。母屋に行って使わせてもらえるかどうかは分からないが、ここにいても仕方がないからな。あの木枠をちょっと蹴ってみてくれないか」
馬を閉じ込めておくためのものだから、おいそれと壊れるような造りはしていないはずだが、長く使っていないようだ。ぼろぼろになっているところもあるかもしれない。
メリナが出入り口の木枠を蹴った。
枠自体は壊れはしなかったが横木のひとつが外れた。
続けて足が届く範囲で蹴っているうちに、ふたつほど横木が外れる。
隙間がおおきくなったその場所からメリナは外に出た。
身体を動かしたおかげか、ふらつきもだいぶんましになっている。
馬小屋を出ると、風の匂いが変わった。
古びた木の香りが抜けて、むせかえるような草と水の香りが鼻腔いっぱいに広がる。
メリナの腕に抱かれて最初に見た外の景色は、坂道だった。
――私は、この場所を知っている――
「メリナ、坂道を登ってみてくれないか」
記憶通りなら――
坂は急だった。だからここからでは坂の上にあるものは見極められない。
左手には月明かりに湖面を輝かせる湖。
――日没を待ち構えて、私は何度もこの坂を下った。
馬車よりも、馬に乗るのが好きだった。
風の匂い、湖の輝き、道の傾斜、すべてが記憶通りだ。
――あのとき、飼っていた馬たちは逃げ出せただろうか。
あの、もぬけの殻になっていた馬小屋にいたはずの愛馬たち。
二百メートル登ったところで建物が見えてきた。
古い石造りの屋敷。そう、エルンストの記憶通りの。
レッキと母親、そして父の弟、三人の住んでいた別邸――
――ここは、ボーデン湖の私の屋敷だ。
私はここで、首を伐られたのだ。
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