第10話 来る

 ぎし、ぎしと板張りの床が軋む。

 エルンストの耳に聞こえてくる、足音。

 まっくらで回りは見えない。灯りがないだけなら、吸血鬼である――たとえ首だけでも、だ――エルンストにとっては視界が塞がれはしないのだが、いまは袋の中にいるので、まったく周囲が見渡せない。

 あれから何時間経ったか――たぶん、陽は暮れたろう。

 焦燥はない。

 焦るなど、誇り高きリンデンバウム家のエルンストにとってふさわしい行いではない。

 エルンストにとって足音は、運命そのものだ。

 それが善きものであれ、悪しきものであれ、彼は受け入れるしかない。


 昼間、繁邸に忍び込んだエルンストとメリナは、奇妙なことに気がついた。

 母屋の鍵が掛かっていなかったのだ。

 加えて、だれかが家捜ししている形跡があった。玄関に近い方のいくつかの部屋はメリナとその両親が使っていて、引っ越しの時にだいたいの荷物を新居に運び出した。けれども政府からの退去命令が急だったこともあって、残して行かざるを得なかった家具もあった。その家具の引き出しが荒らされた形跡がある。

 なんのために?

 メリナと顔を見合わせていたところ、別の場所で自分たち以外の人間の足音がするのに気がついた。屋敷の奥。

 繁旼鳥の使っていた書斎があるあたり。

 旼鳥の荷物はほとんど運び出せなかった。

 葬儀のあと『二週間以内に立ち退くこと』と記された催告状に、慌てて探した新居は手狭で、旼鳥の遺したたくさんの書籍や茶器までは持ち込めなかったのだ。

 メリナは今日、その書籍の中から祖父の形見になるようなものを探して、いくつか家に持って帰るつもりだったのだが――


 高い壁で囲われ守衛がいる政府の管理建物に、だれかいる。

 最初、エルンストもメリナも、そのだれかが市の職員だと思っていた。ただし今日は日曜だ。市の職員にとっては休日に当たる。

 プロイセン公国は伝統的に労働時間の規定は厳格に守られる。

 なにか緊急の対応か、日曜や深夜などの世間的に「人が少ない時間帯」でなければできない仕事か、役所が主催するイベントでもなければ市の職員は休日出勤などしないだろう。

 そして繁邸は、そのどれにも当てはまらない。

 おかしい。

 エルンストがメリナにリュックサックに押し込まれた直後に、メリナはなにものかと鉢合わせした。

 エルンストはそのだれかを直接見ていないから、正体は分からない。

 稀梢の術が掛かったままだ、というのはメリナの念頭からは抜け落ちていたのだと思う。もしくは、覚えていてもつい、ということだったのか。

 メリナが「きゃっ」と驚きの声をあげた。

「だれよ、あなたたち」とも問うた。

 それで稀梢の術が解けたのだ。だれかの足音が乱れ、メリナが逃げ出そうとし、すぐに追いつかれて揉み合いになった。

 抱え上げられた感じがした。揉み合いのときに「どこから入ってきた、このクソガキ」などと悪態をつく声から判断して、男が二、三名いたようだ。

 母屋の玄関が乱暴に開けられた。すこし黴びた匂いのする場所から、濃い草木の香りのする場所に移動したので、屋外に出たのだと分かった。

 鳳稀梢が異変に気づいたらしく、声をあげた。意味が分からなかったから、あれはきっと、彼の母国語だろう。

 銃声が一発。

 饐えた臭いのする狭い場所に押し込められ、三時間ほどエンジン音を聞いていた。

 辿り着いた場所は、水の香りがした。緑と、土の匂い。

 狭い場所から出され、どこかに連れ込まれた。メリナの声はしなかったが、体温はずっと感じられたので気絶しているだけだろう、そう思った。

 

 エルンストにとって足音は、運命そのものだ。

 ずかずかと近づいてきて、なにもせずに去って行くときもあれば、優しく手を差し伸べてくれるときもある。理不尽でやっかいな困難を運んでくることも。

 猫のようにほとんど足音も立てずに近づいてきて、一撃、理不尽な猫パンチを食らわせていくような「運命」もある。

 ……ディーナめ、いつか思い知らせてくれる。

 昨日、窓辺からはたき落とされたことを思い出し、苛立ちが甦る。

 もちろん、あれが初めての経験ではないし、いまはそんなことを思い出して腹を立てなおしている事態でもないとは思うのだが。

 「運命」に対してさまざまに思いはするけれど、結局のところエルンストは「手も足も出ない」。

 頭と胴が死に別れていなかったころは、そんなふうに思ったことはなかった。

 戦わずして不愉快な運命を受け入れるなど、敗北主義の極みだ……そう思っていた。

 思うどころか自分がその理不尽な運命と化して、人に絶望をもたらすことを愉しみにしていた。

 捕まえた虫の手足をぐように時間を掛けて嬲り、一切の抵抗が無駄だと悟らせて、殺す。

 強者の自分にとって、弱者をいたぶることは権利だと信じていたからだ。

 退屈な永遠の時間、人間の絶望の声を聴くのは、ちょっとした娯楽だった。

 エルンストは、今に至って過去のみずからの行いを反省するほどには強くなかったが、自分の境遇を嘆くことをよしとしないくらいには誇り高い。

 いや、違うな。

 レッキがいなければ泣きわめいていたかもな。

 ……そもそも、レッキがいなければいまの私はいなかったが。

 切断された首の断面に、レクセアが自分の皮膚を剥いで縫い付けてくれなければ、自分はあのまま滅びていた――

 敗北主義であろうとなかろうと、いまの自分が誇り高くあるためには、「運命」を見極めるより法はない。たとえ、戦うための手足はなくとも、それと対峙する意思は失っていないということを、示さねばならない。

 誰に対して示そうというのか?

 ――もちろん、自分自身に対して、だ。

 人間なら、天に向かい「神よ」と訴えかけるのだろうが、あいにくエルンストには信じる神などありはしない。


 エルンストはいつも足音に耳をそばだてている。

 いまもまた、聞こえてくる足音に全神経を集中している。

 そうすればやってくる「運命」の色合いが目に浮かぶとでもいうように。

 その音が運んでくるものが幸運か、不運か、はたまた過ぎゆくだけのものか、判断できるとでもいうように。

 その足音は、おそらく不幸を運んでくるものだ……エルンストにはそんなふうに聞こえていた。

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