第8話 鶺鴒

 メリナにとっては不思議な光景だった。

 守衛ふたりがさきほどと同じように立っている。

 頭数にして「三人」は、そのふたりのあいだを堂々と通り、稀梢の見たとおり、やはり開いたままになっていた急ごしらえの門扉をくぐった。

 鉄製の門扉は造られてから三ヶ月、にわか造りゆえなのか押すと、ちいさく、きい、と軋んだ音を立てたが、それにも守衛は気づかなかった。

 さきほどの話では、稀梢の術は音については誤魔化せないようだったが、「鳴るはずがない」という思い込みのせいで小さい音は耳に入らないのかも知れない。

 メリナはやはりこわごわ守衛の横を通り過ぎたが、エルンストに至っては、稀梢の腕の中で守衛たちに向かって舌を突き出しておどけている。

 稀梢がメリナから借りた鍵で旧繁邸の本来の門扉の鍵を開けようとすると、奇妙なことにこれもまた開いていた。

 胸の高さほどの門だ。こちらは同じ鉄製といえど瀟洒な造り。

 素材も最上級なのに加えて定期的に錆止めの塗装を施してあるのだろう、錆ひとつなく、もちろん押せば、音もなく、すい、と開いた。

 田園荘園風、これもまた胸の高さほどの煉瓦の塀が敷地を囲っていて、煉瓦の低さを補うように、花木が植えられている。

 繁家の趣味なのか、それ以前の所有者の好みだったのか、花木は椿や臘梅ろうばい、梅、松など。東方趣味オリエンタルテイストだ。


 門をくぐると、茶の木でしつらえた生け垣の小道になっていた。

「夏になるまえに、毎年、家族みんなでここの葉を摘むんだ。日に当てて乾燥させて……お茶の葉は揉み込めば揉み込むほど、味に深みが出てまろやかになるっておじいさまが言ってたけど、そういうのは素人じゃ難しいからって、自家製は白茶ばっかりだった。でもおじいさまの淹れてくれるお茶は美味しかった」

「……そういえば、旼鳥と一緒に繁国を出た女官のなかに、ひとり、茶の名手がいたね。旼鳥は国を出たときにはお茶を自分で入れたことはなかったから、きっと彼女に教えて貰ったんだろう」

 稀梢は夏のあいだに伸びた茶の葉を、手のひらで撫でながら歩いている。

「このあたりは茶葉が美味しく育つには寒すぎるし、乾燥しすぎる、っておじいさまいつも言ってたけど、冬は根元に藁を敷いたり、お茶の木全体を紗で覆って霧吹きしたりして大切に育ててた。次に住む人も大事にしてくれるといいんだけど」

 この屋敷はプロイセン公室の所有で、このあとは市だか、州だかの管理になるという話だった。

 このあたりで狩りはもうできないし、保養地としても中途半端だ。建物自体に歴史的な価値がないと判断されれば、土地の使い道が決まり次第、庭ごと取り壊されるだろう。

 もちろん、稀梢はそういうつまらない話をメリナに聞かせるほど、悪趣味ではない。


 茶の小道を抜けると、左手に拓けた芝生の庭、右手に屋敷が建っていた。煉瓦造りの平屋の屋敷は『元皇帝』の住まいとしてはさほど広いとは言えないかも知れないが、部屋数はそれなりにありそうな大きさで、もともとは貴族の狩猟滞在用だけあって、馬小屋、鍛冶用の炉の付いた道具置き場、屠畜用の離れ、井戸、ひととおりのことがこの敷地内でできるだけの施設が揃っていた。

「私はしばらく庭にいる」

 と、稀梢が言った。

「あとで母屋にも入りたいけど、私の用は庭にあるから」

「宝探し?」

 なにを思ったか、メリナが尋ねる。

「違うよ。でも、どうして宝探しだと?」

「クラスメイトが……噂してるから。ここには元皇帝の財宝が隠されてるんだって。国民から吸い上げた富を、いまでも隠し持ってるんだろうって。だから家を取り上げられたんだろうって」

 そう言うメリナは悔しそうだった。

 顔を歪ませている。

「旼鳥はね、皇帝の位を降りて祖国をあとにしたとき、身の回りのもの以外はなにも、持ち出せなかったよ。新政府の兵隊に見張られてたし、持ち出す荷物はすべてチェックされた。幼くても彼は皇帝だったから、どれだけ政治に口出しできなかったとしても『【無実】の罪で国をわれた』とは言えないけどね。罪人の扱いで、国外に持ち出せる荷物は量も厳しく制限されていた。女官は行李こうりふたつ。旼鳥は行李五つだけ。着替えと身の回りのものをすこし詰めたらあっというまにいっぱいになって、女官たちは自分のものをたくさん諦めて旼鳥のものを自分用の行李に詰めて旅立った。彼が国外に持ち出したもののなかで、一番、お金が掛かってたのは、龍袍りゅうほうじゃなかったかな。ほら、ベルリンの国立美術館ナィツナルガレリに旼鳥が寄贈した、皇帝の衣装。七歳の少年の衣装だから、ミニチュアみたいだけどね。歴史的な価値とか、美術品としての価値は高いと思うけれど、それだってもうこっちの国に寄贈してしまってる。皇帝の財宝なんてここにあるわけがないよ」

 メリナはなにかもの言いたげな、泣きそうな顔をしていた。

「『証明』はしてみせられないけどね。私の言葉は、信じられる?」

「……信じる」

 どうして稀梢がそんなことを知っているのか、などというのはメリナにとっては問題にならないのだろう。むろん、それに問うたところでやはり『証明できない』答えが返ってくるだけだ。

「エニー、一緒に来てくれる?」

 メリナが言った。

 潤んだ声をしていた。

「ひとりだと心細くなりそうで」

「任せておけ、騒がしくするのは得意だ」

 なにかいろいろ察するところがあるのか、やけに快活に、エルンストはがえんじた。


 庭のまんなかに、その木は立っていた。

 西方産の栗とは違う、東方栗だ。北の大河の流域に古くから自生し、蜂蜜と葉は薬用になる。もちろん実を炒って食べれば香ばしく甘い。

 大人が二人がかりで腕を伸ばせばなんとか囲めるほどの幹の太さで、立派な大木だった。

 西側にひと群れ、東側にひと群れ、おおきな枝に違う葉が茂っている。

 稀梢はその枝があんずと金木犀の枝だと知っていた。

 なぜなら、この木は稀梢が旼鳥に贈ったものだからだ。

 稀梢のちからを使って、接げないはずの三種類の木を接いで、贈った。

 二度と祖国の土を踏めないだろう彼へのせめてもの贈り物だった。

「この木も、伐られるのだろうな」

 木の下に置かれた古い籐椅子に腰掛けて、溜息を吐く。

 旼鳥が亡くなったとき、腰掛けていたという椅子だった。

 そこから見える風景を見たくて、稀梢はここにやってきたのだ……

 陽光に輝く空、木漏れ日の影が揺れる大地。

 白日と黒土、天地のあいだに、彼が八十一年、住んだ家が建っていた。

 彼の住処。

 そしてここに座ればまなざしはつねに東を視ることになる。

 ――東。そう、東だ。

 遙か彼方には、彼の祖国がある――


 と、葉群の影から鳥が飛び立った。

 背は黒、腹は白。羽の色がきっぱり分かれた……鶺鴒せきれいだ。

 稀梢の国には、鳥は故人の魂だという信仰がある。……いや、あった。

 遠い昔の信仰だ。

 わにや白鳥、さいや水牛を部族の守り神として祀っていた時代の信仰。

「旼鳥の木から現れたと言うことは、あの鳥は旼鳥の私への警告と解すべきだろうか。鶺鴒の意味するところは……陰陽、吉凶、いままさに相半あいなかばす。福から禍へ、禍から福へ、禍福転じる刹那。もしくは相思そうし。いや、一羽だから相思は違うか。さて……」

 思索に耽るように目を閉じた稀梢は、しかしすぐさま目を見開き、立ち上がる。

 跳ねるような勢いだった。

「しまった! まったく私はどうしようもなく詰めが甘い!」

 稀梢が屋敷のほうへ駆け出すのと同時に、悲鳴が聞こえた。

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