第7話 まわる

 頭数において「三人」は、ふたたび旧繁邸の門の近くにやってきた。

 守衛たちが視界に入らない場所……稀梢がレクセアの車から降りたあたりである。

「シシィもエニーも、わたしがどうしてなかに入りたがってるのか訊かないんだね」

「孫娘がおじいさんの住まいを訪れたがっているだけのことだろう? なにを尋ねる必要があるんだい?」

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑って稀梢が笑った。

「それを言うなら君こそ、どうして君のおじいさんの家に妖しい東方人と生首が訪れたがっているのか、気にしないんだね」

「おじいさまの知り合いに悪い人はいないから」

「ほう……」

 エルンストが興味深そうに言った。

繁旼鳥ハンミンニィアオは、ずいぶん信頼されているのだな」

「だって……」

 メリナはなにか言おうとして、言葉に詰まる。

 おそらく、自分の気持ちを表す言葉が思いつかないのだろう。

「おじいさまは、すごい人だったから」

 ようやくのことでそれだけを口にする。

「私はニュースの映像でなんどか見たことがあるだけだがね。まあ、ちょっとした『識者』扱いされていたようだな。何かあるたびにコメントを求められていた。国際紛争や、法律の改正や、若者の風俗のことや……頭の悪そうな質問もたくさんあったような気がするが、いつも穏やかに微笑んで応対していたな。恨み言や苦言は言わぬが、現状を肯定しているわけでもない。亡命君主として、完璧な振舞だと思ったものだよ。……たしかに、凄い人物ではあったな」

 エルンストが頷く。

 頷くと言っても首から下がないので、ゆったりと瞬きしただけだったのだが。

「さて、本題にうつろう。この壁を乗り越える手段だけど、ふたつある」

 稀梢が言った。

「ひとつは、守衛たちに気づかれないよう我々三人に術を掛けたうえで、普通に門扉からなかに入る。ふたつ目は、空を飛ぶ」

「ちょ……それは……二択になるのかね?」

 エルンストの疑問は妥当だ。

「飛びたい!」

 メリナは勢いよく手を上げて意思表示する。

 このふたつを選択肢にされたら、だれだって後者を選ぶだろう。空を飛ぶなど、滅多にできない経験だ。それに、飛び越える壁はどこでも構わないから、守衛の目の届かないところを選べば危険もすくない。

「いやいや、続きがあるんだ」

 ふたりが色めき立ったのもどこ吹く風、稀梢が続けた。

「ふたつの選択肢にはひとつずつ問題がある。門から入る方法は、私が鍵を持っていないこと。空を飛ぶ方法は……とても燃費が悪くてね。すぐにおなかが空いてしまうんだよ」

 メリナが背中に背負ったリュックサックを降ろすと、ファスナーをすこし開けて手を突っ込み、ごそごそと探って底からクッキーの入った袋を取り出した。

「父さまが『今日の冒険のお弁当に』って焼いてくれたクッキー。おなかが空いたらこれを食べて。ものすごく美味しいから」

 少女のまなざしは真剣だ。そのクッキーが彼女にとって宝石にも等しい価値を持っていて、ほかの人にとっても同じであることを疑いもしていない。

 実際、そのクッキーはものすごく美味しいのだろう。バターにしっとりした生地、チョコチップ、オレンジピール……いろんな具材がたっぷり練り込まれているのが見て取れる。

 稀梢は困ったように微笑んだ。

「私はちょっと変わったものしか食べられなくてね。私が非常時には人ひとり抱えて飛ぶことができる、ということは知っておいて欲しいけれど、非常時でもないかぎりあまり使いたくない」

「変わったものって、お金じゃ買えないもの?」

 諦めがたいのだろう、メリナが尋ねる。

「……買えるものもあるにはあるね。でも君の財布にある金額だとたぶん、買えないし、まあその……いろいろ問題があるんだ」

鳳殿ヘル・ホウは存外、吝嗇ケチだな」

 面白くなさそうにエルンストが溜息を吐く。

「慎重と言って欲しいね」

 稀梢は抱えた首の断面……首のまわりの縫合跡はもう完全に癒着して分からないが、断面に蓋をするように皮膚が色違いになっている……のほぼ真ん中に左手の人差し指を当てて、エルンストの頭頂を右手で鷲掴みにし、勢いよくくるんと皿回しのように回してみせた。

「い、痛い! 痛い! 押すな! 延髄には神経が通っていてだな! 押されると頭蓋に響く! しかも回すな! 目が回る! 酔う!!」

「ただの観光客の私に快く軒を提供してくれている宿主に対してこんなことをするのは私としても心苦しい限りなのだけれど、物事には『機』というのがあってね。使うべきときに必要な機略で応じるのが肝要なんだよ。メリナ嬢フロイライン メリナと会っていなければ、まあ、飛んでなかにはいるしか手はなかったけれどね」

 すっかり目を回してしまったエルンストを両手で抱え直して、稀梢はメリナに向き直る。

「さきほど私が見たところ、守衛の立っている金属造りの門の鍵は、なぜか開いていた。閉めてあるように見せかけていたけれど、暗証番号入力パネルに赤いランプが付いていたんだ。あれは『施錠されていません』という意味だろう。わざわざ高い塀で囲ったのだから、もともとの鍵は付け替えてないに違いない。なら、あとは繁家が使っていた門扉の鍵と屋敷の鍵さえあればなかに入れる。きっと、役人は繁家を追い出すときに鍵は取り上げただろうけど、合鍵を家族でいくつ所有していたかなんて把握しているはずはないから、ひと組くらい、返却せずに持っていてもおかしくはない。……と、いうことで、メリナ嬢? なかに入ろうとしていた君のことだ。もちろん、旧繁邸ご自宅の鍵は持ってるんだろう? 素直に出してくれたら、最小限の労力で最大の効果が得られるのだけれどね?」

 愛想よく、笑みを絶やさず、なかなか堂に入った悪役ぶりで稀梢はメリナを脅してみせる。


 ちゃり、という音とともにメリナがジーンズのポケットから鍵を取り出した。

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