第3話 だんまり

 黒猫にはたき落とされて、エルンストは気分を害したらしい。

 レクセアに抱え上げられ定位置の窓辺に戻ったものの、さきほどまでの饒舌はどこへやら、だんまりを決め込んでいる。

 自分を酷い目に遭わせた猫が、レクセアに「こら」とたしなめられたものの、さほどの罰を喰らわなかったことも、レクセアの抱え上げる手つきが思うほど優しくなかったことも、不満の種のようだ。

 黒猫はといえば、テーブルの端にできた西日の日だまりに丸くなり、優雅に尻尾をゆらしている。

「食事はいいんですが、ブレアシュルツさん、一カ所、場所を教えていただきたいのですが」

 稀梢はそんなエルンストの不機嫌もどこ吹く風、レクセアと差し向かいでテーブルを囲んで椅子に座り、床に置いていたリュックサックから地図を取り出した。

「空港の案内所で一度聞いたのですが、よくわからなくて」

 テーブルに拡げられた地図のうえ、街の北の端に赤い丸印がついていた。丸印のうえに、さらに手描きで『旧繁邸Ehemaliges Herrenhaus von Herrn Hann』とある。

「八十年ほど前に亡命した私の国の元皇帝が、こちらに住まわれていたと聞いています」

 レクセアが微笑んだ。

「そこでしたら、ここからさほど遠くありません。車で十五分ほどですから、明日にでもご案内します。でも、その方でしたらつい三ヶ月ほど前にお亡くなりになったと思います。ささやかでしたけど市でお葬式をやりましたから。あと、中は見学できないと思いますよ」

「存じています。私は彼が亡くなったニュースを見て、ここに来ようと思ったんです」

「なら、その方のお墓にも参りますか? 政治のことでいろいろご事情があって故郷にはお墓が建てられないとかで、啓典けいてんの民の墓所に葬られました。その方の信仰は故郷のものだったようですけれど、奥さまの信仰がそちらだったとかで、奥さまのお隣に」

「それは有り難い。ご存じならお願いしようと思っていたんです。でも、お手間を取らせてしまって、いいんですか?」

「明日は診療所を開けないといけませんから、町に出るついでですよ、手間でもなんでもありません。朝、旧繁邸の近くで降ろして、しばらくそのあたりで過ごしてもらったあと、わたしの診療所まで来て貰って、お墓のほうへは昼休みに向かうことになりますけど、それでもよいですか」

 十二時に一旦、診療所を閉めたら、午後の診療は三時からなので、とレクセアは付け加えた。

 稀梢にとっては願ってもないことだ。

「お葬式までして貰えたなんて、旼鳥ミンニァオはこの町の人に好かれていたんですね」

「よく町を散歩なさってました。喫茶店で新聞を読みながら珈琲を飲んでらしたり、書店で本を選んでいらしたり。聖天祭のときにはお孫さんたちと百貨店でプレゼントを選んだり。この市から出るには州庁の許可が要りますし、国外に出るにはプロイセン公国議会の承認が必要ですけれど、この市のなかは自由に移動できましたから。行動を制限されているとはいえ、理由と目的地を申請すれば故郷以外ならどこでも許可は下りましたから、十年ほどまえまでは世界各地で講演を依頼されて、その講演のための出国申出書が議会事務局に山積みされていたそうです。十年まえに身体を悪くされてからは海外講演はなさらなくなりましたが、市役所に依頼されれば、こころよく講演を請け負われてました。学校や、公民館で、わたしも何度か聴きに行きました。生い立ちや、民主化で国を出た経緯、母国の風土、歴史、大学で出会った奥さんとの初恋の話、目の当たりにした半世紀まえの大戦のこと……この国で起こった戦争のはじめに、いろんな方が迫害されて国を出ることも難しかったとき、一時的に繁邸に匿われていたこともあったそうです。どの話も面白かった。故郷を去るまえの数年は皇帝だというのに食べるものにも乏しくて、花壇の牡丹を抜いてかぶを植えたり、栗を焼いたりして食べたことを懐かしそうに語ってらっしゃいましたよ。この町に住んでいる人は、たいてい彼のことを知っていて、道で会ったときは『繁おじいちゃんハン・グロスパパ』って呼んでましたね」

 稀梢はレクセアの話に口を挟むことなく、ひとことも聞き逃すまいとするように目を伏せて聴いていた。

 その姿がただの観光客には見えなかったものか、レクセアが問う。

「失礼かと存じますが、鳳さんヘル・ホウは繁さんとなにか特別なかかわりをお持ちだったんですか?」

 稀梢は曖昧に微笑んだ。

「特別……まあ、特別といえば特別でしょうか。レクセアさんは、繁旼鳥が皇帝の座を降りて西の地に亡命したとき、私は彼に仕える官僚のひとりだった……と、言って信じてくださいますか?」

 繁旼鳥が七歳で退位を宣言し、繁王朝の歴史にみずから幕を下ろしたのは八十年もまえのことだった。対して、目の前にいる鳳稀梢は二十歳を越えているようには見えない。

「生首だってしゃべるのですから、若いままの旧王朝のかたがいてもおかしくないでしょう。信じますよ。あと、わたしのことはレッキと呼んでください。この猫はわたしの『友人』でディーナ」

「ええ、分かりました『レッキ』さん、それから『ディーナ』さん」

 稀梢の発音は東方訛りで妙に据わりの悪い響きになっていたが、いま、ここにいる者にとってそれは些末なことだ。

「……私のことはエニーと呼んでもいいぞ」

 どうやらだんまりはここで終了らしい。

 稀梢がにこりと笑んで「エニーさん」と呼びかける。

 猫のディーナが、にゃあ、と退屈そうにあくびをした。

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