第2話 食事
しばし時は遡る。
旅人がとある屋敷の窓辺で生首と語り合う……その半時間まえのことだ。
北半球に横たわる広大な大陸の東端にある大国、いまは
時刻は昼食と夕食の狭間。見上げれば雲ひとつない空、やや西に傾いた太陽が見える。
屋敷の主人には「中にお入りください」と勧められたのだが、屋敷と、そのまわりの森の風情を味わいたかったのだ。
石組みの土台、煉瓦の壁、モニエル瓦の屋根をしたその屋敷は樹皮の色濃い
屋敷を囲む唐檜の木立は常緑だったから、あまり季節感はない。しかし夜半に降った雨に洗われた木々は、夏の終わりの日の光に生き生きと輝いているように見えた。
中欧と呼ばれる地域にある広大な森林地帯、
建物の印象は朽ちた灰色で、千年もまえからそこに建っていたような印象だったが、実際のところ、築二百年といったところだろうか。ただし、石組みの土台だけは千年以上前のものを使っているかもしれない。
土台の石材、ところどころに浮かび上がる渦巻きの文様が、はるかむかしに生きて死んだ海のいきものの
黒森地方は平原地帯で石材の産地は遠い。
かつて地中海の帝国がちからを持っていた時代、遠くアルプス山脈の石材を切り出してここに城塞を作ったのだろうか。
「アルプス山脈や
その古びた土台は角がすっかり丸くなり、火災で焼けた跡が目立つ。
戦の跡だろう。
稀梢にしてみれば、いかに建物が堅牢であろうとも屋敷を版築の壁で囲っていないのはいかにも無防備に映ったが、西の諸国は古い時代はともかく、近年は街の周囲も王侯貴族の城館も、壁で囲うのは流行らぬらしい、というのはこれまでの旅で学んでいた。
この西方諸国では砲や銃火器が発達したからだ。
火薬を発明したのは稀梢の祖国だった。
しかし、その火薬を改良し、どんなに堅牢な城壁でも打ち崩す武器を生みだしたのは西方の人々だった。
籠城戦に持ち込めないのなら、建造に人も時間も金も掛かる高い城壁は不要だ。低めの城壁に銃眼を
「ここもむかしはだれぞ、貴族の離宮だったかもしれないな。狩りをするには良さそうだ」
良く見れば離れの建物は窓がちいさく、二階には銃眼が穿たれている。
いまある生け垣の裏に有刺鉄線を配置し、手勢で敵を足止めしつつ、館から射撃で援護する……いかに無防備に見えていても、ここもかつて戦場になることを想定した建物だったのだ。
おなじように戦に明け暮れた歴史を持ちながらも、家の佇まいはずいぶん違うものなのだな、と稀梢は感心した。
彼がこの屋敷を訪れる
ホテルのフロントの言う「そちらの記憶違いだ。どこか別のホテルに電話したのではないか? こちらは受け付けてもいないし、今日、泊まれる空きの部屋もない」という言葉を、稀梢は信じていなかった。
異国語とはいえ聞き取りに不自由はない。東の訛りこそあるが西の国の言葉は数カ国語の会話はそつなくこなせる。
たしかに自分は空港の観光客用の案内所に勧められたこのホテルに電話を掛け、今晩の宿泊予約を取った。その時、対応してくれた係りの者の名も、受付番号も控えている。案内所がくれたホテルまでの地図も持っている。
ただ、そう抗弁したところで無駄なのも分かっていた。
この西では東の国の者は見下されがちだ。
稀梢の身なりは、西方諸国の若者がよく着る衣装でかためている。わざわざ東方の民族衣装などを着て目立つような真似はしていない。
小綺麗なカッターシャツに歩きやすいアウトドアパンツ、着替えの入ったボストンバッグに持ち歩き用のリュックサック、貴重品入れのウェストポーチといった出で立ちで、富裕な見た目ではなかったが、貧乏旅行を決め込んでいるふうでもない。
どうせ予約名簿のなかから東の名を見つけたホテルの上層部のだれかが「ここは人間サマのためのホテルだ。東の猿を泊めてやる部屋などない」などと言って取り消させたのだろう。
――腹を立てるだけ無駄だ。あとで市の観光局と、空港の案内係に苦情の電話を入れるだけで充分だ。
プロイセン公国は観光にちからをいれており、観光客の困りごとには親身になってくれるという。今後、旅行客にホテルを斡旋するときのリストから、このホテルを外すくらいはしてくれるだろう。
フロントでのやりとりのあと、稀梢はホテルを出たところの四つ角で街の地図を眺めてこの旅の目的地を探していた。
そのときだ。
「そこのホテルで、見てました。お困りでしたら、
その声に、素直に「ありがとうございます。助かります」と言ってしまったのはなぜなのか。
じつのところ稀梢は困っていなかった。
もちろん宿に泊まれば快適だが、野宿には慣れている。
――だから「お気遣いなく」と言ってもよかったのだ。
痩せて背の高い、見知らぬひとだった。
「わたしは、レクセア・ブレアシュルツです。この町でちいさな個人医院を開業しています」と、
白い長袖の開襟のブラウスに黒のロングスカート。身につけた衣装は女ものだったが、立ち居振る舞いには男女どちらの匂いにも乏しい。伏し目がちだが見開けば瞳はおおきく、彫りが深い目鼻立ちはこのあたりの人々と似ていたが、なんとなく違う印象もある。艶めく濃茶、緩く巻く髪を首のあたりでまとめて背に流し、肌の色はずいぶん濃い。どこか南方の血が混じっているのかもしれないと思った。
稀梢の国の基準とはだいぶん違うが、このあたりの基準では「美しい」と感じられる顔立ちではなかろうか、とも思った。ただしこういう肌の色は差別されがちだ、ということも稀梢は知っていた。レクセア自身がいろいろと苦労しているので、先ほどのありさまに同情してくれたのだろうな、と納得した。
医師という職業柄のおかげもあるのかレクセアはどことなく人の警戒心を解く佇まいをしていたから、稀梢は素直についてきてしまったのだ。
そして……
屋敷の佇まいの鑑賞を終えて玄関をくぐった稀梢は、久々の客人を迎えて嬉々として喋る生首と相対している。
稀梢も訳ありの生い立ちをし、二十歳を過ぎない見た目だったが、実際はずいぶん長生きをしている。
千年前などと大げさに過去を振り返るまでもなく、ほんの五十年前まで世界に吹き荒れていた大戦の嵐のときだとて、城壁に敵将やら裏切り者の生首が晒されるのは日常の一部だったから、生首を見たとて驚かない。もちろん、城壁の晒し首は恨みがましい顔つきで腐れて行くばかりで、こんなに饒舌ではなかった。
「私の名はエルンスト・リンデンベルク。祖先は姓の示すとおり、菩提樹の山の麓に居を構えていた……地元の名士だった。名士といってもすこしばかり後ろ暗くもあったな。領主ではあったよ。ハプスブルク家によって叙任された騎士だった。ただ、我が一族は人間ではなかったのだ」
日はそろそろ傾きつつあったが、エルンストと名告る生首の置かれた窓辺に木漏れ日が光の綾を作っていた。
黒髪を短く切りそろえ、きちんと櫛で梳かしているのだろう、艶めいている。
きらきらと好奇心に満ちた黒い瞳、真っ
彫り深く整った顔立ち。
全体的に見て、なかなかの男ぶりである。
ただし、生首を指してわざわざ男女を隔てるのも奇妙に思えたから、「男ぶり」ではなく「美形」と表現すべきだろうか。
「君を連れてきたレクセアは私とは血のつながらない従姉だ。彼女の母親が、私の叔父と結婚したので従姉になったのだ。そのときの私はまだ生首ではなくてね」
エルンストの話はあちこちに飛んだ。しかも、脈絡がはっきりしない。
首と胴が死に別れたときに髄液と一緒に記憶もあらかた流れ落ちたというのは
と、レクセアが部屋に入ってきた。黒猫を抱いていた。
稀梢は失礼に当たらないよう、控えめにレクセアを見遣る。
――やはり女には見えないな。とはいえ、男にも見えないが。
生首……エルンストの言うのを信じれば「従姉」、すなわち女なのだろうが。
――まあ、どうでもよいことか。
「
「ああ、お構いなく。必要になればそのあたりにある東方人街で勝手に食べますから」
稀梢がこう言えば、たいていの西方人はそれ以上詮索しない。東方人の旅行者は、西方の食事は口に合わないのだろう、そのように理解してくれる。
「ああ、それと私のことは
レクセアは稀梢が期待したとおり、にこりと微笑んで頷いた。
予想外だったのはエルンストだ。
「ほほう、東方人はどんなものを食べるのだね? 私は毎晩、レクセアに血を貰っているのだ」
食事の話に食いついてきた。
「食材の違いもありますが、味付けがだいぶちがいますね」
稀梢は笑って答える。
レクセアがなにか気がついたように、まぶたを開き、稀梢を見た。
けれど、なにを問うでもなくまたまぶたを伏せた。
「味付け……君はどういうものが好きなのかね?」
稀梢は微笑む。
と、レクセアの腕から猫が飛び出し、窓辺に飛び乗る。
目にも留まらぬ速さで、だれにも止めようがなかった。
エルンストの頬に猫パンチの一撃が炸裂。
ごとん、とも、びたん、ともつかない音を立てて、生首が床に落ちた。
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