第19話 魔法使いたちのゆくすえ

 滑り落ちるようにしながら崖を慎重に下り切った後、二人は手を繋いだまま森の中を走っていた。目指すは屋敷とは真逆の方向。外の世界だ。


「さっきの人には可哀想なことをしたかなぁ」


 ヴィタの申し訳なさそうな声に、メリアリーヌは楽しそうに笑いながら「いいえ」と答えた。


「去り際に宝石のネックレスを置いてきたから、きっとどこでだってやっていけるわ。ヴィーにナイフなんて向けるんだもの。あのくらいお仕置きをしたって構いはしないわよ。……それより」


 走る足はそのままに、メリアリーヌが頬をぷぅっと膨らませた。


「酷いわ、ヴィー。わたしから贈ったものはともかく、あなたが贈ってくれた〈スペル〉も一緒に投げ捨てちゃうなんて」


 大事にしたかったのに、と呟くメリアリーヌのまっすぐさに思わず息を呑みながら、ヴィタは上気した頬にゆっくりと笑みを浮かべた。


「ごめん。でも、もう必要ないだろう?」


「え?」


「文字にしなくても、これからは直接口で伝えられる」


 ヴィタの言葉に、メリアリーヌも白い頬をみるみる赤く染めて、唇をふにゃりと緩めた。


「スペルトリガーにあるまじき発言ね」


「ああ……まったくだ。けど、ぼくはもう、スペルトリガーでなくたっていいと思ったから」


 髪も瞳も、この身に流れる血も。何も、もうヴィタを縛る枷にはなり得ない。

 メリアリーヌが〈スペル〉よりも強い、一生解けない魔法の言葉をくれたから。

 そして彼女の枷も同じように、ヴィタの魔法の言葉が解けたならいいと──願う。


(屋敷の人はともかく、スペルトリガーの監視下から逃れることはできないだろう。──それでも)


 監視は免れられなくても、自分という存在が、彼女が求める自由を守る〝まじない〟になればいいと思った。

 互いに互いを許して、互いに互いの存在を守る。贈りあった言葉はそれが出来るくらい、強く、優しい、魔法の言葉だったのだから。


「……待ちなさい。ヴィタ」


「──ッ」


 走る先、森の木々の奥から。

 唐突に闇が滲み出てきて、ヴィタは慌てて駆けていた足を止めた。

 深い闇色のローブと長い木の杖。そして長く真っ白な髭を蓄えた老人──ヴィタの育ての親であり、すべてのスペルトリガーを束ねる長。現れ出たのは長老ベリタス、その人であった。


(よりにもよって、この人に見つかるなんて……)


 歯噛みしながらメリアリーヌを背中に庇う。

 そんなヴィタの様子を見て、ベリタスはゆっくりと一つ瞬きをした。


「ヴィタ。杖はどこへやった」


「捨てたんだ。必要がなくなったから」


 毅然と答えるヴィタを、声もなくじっと見つめるベリタス。

 ヴィタはその深い、疲れ切った眼差しに萎縮しながらも──それでも臆することなく口を開いた。


「あの日、貴方に拾われていなかったら、ぼくはとっくに死んでいたと思う。だから、育ててくれたことは本当に感謝しています。──ありがとう。でも、ぼくは、この女性と一緒にいきます」


「……その道を、選んだのだな」


 宣言するような言葉に、老人は細く長く、吐息を吐いた。

 それからヴィタと、その後ろに佇む、強い輝きを瞳に宿すメリアリーヌの姿を順に見やって、微かに笑みを浮かべた。


「……そうか。その道を選べたのだな、私も。そうすれば、きっと……」


「──え?」


 問い返したヴィタの視線の先、ベリタスは静かに右手を掲げると、まっすぐに横手の道を指で示した。


「他の道はスペルトリガーが監視をしている。なるべく音を立てないよう、この道をまっすぐに走りなさい」


「……逃がして、くれるんですか?」


 何故、と目で訴えずにはいられないヴィタに、ベリタスは初めて、誰が見ても明らかなくらい、やわらかく微笑んだ。


「ヴィタ。お前にそう名付けた私を、お前は恨んでいるかもしれないな。平和という意味を持ちながら、戦の意味をも持つ言葉を名付けた私を」


 ベリタスの言葉に、ヴィタは何も答えられなかった。皮肉な名前だと思っていたのは本当だし、それが理由であまり名乗りたくないと思っていたのも本当だ。

 黙りこくってしまったヴィタに彼は苦笑して、「だけどね」と慈愛に満ちた声で言葉を紡いだ。


「ヴィタという言葉にはもう一つ意味がある。教えたことはなかったが」


「もう一つ……?」


「〝生命〟を意味する言葉でもあるのだ。……ヴィタ。初めてお前を拾った時から、お前がどんな道を選んでも過酷な道になることはわかっていたよ」


 皺の刻まれた手がローブの下から伸ばされて、ヴィタは反射的にびくりと肩を震わせ身構えた。しかし、警戒に反して、ヴィタに与えられたのは優しいぬくもりだけだった。

 黒い髪をやわらかく撫でられて、ヴィタは思わず素っ頓狂な顔になって彼を見上げた。拾われてから今日まで、誰かに撫でられた記憶なんて、ただの一つもなかったのだ。


「……お前をスペルトリガーとして育ててよかったのか、未だに答えは出ていない。その髪と瞳の色は、どこへ行ってもお前を悩ませるだろうから。それでも」


 撫でる手のひらが僅かの間だけヴィタの頭を優しく抱いた。


「過去を知っているからこそ、平和と戦のどちらの可能性も秘めているからこそ。お前はお前の選んだ場所へ行きなさい。──選んで、生きなさい」


「……生きて……いて、いいんですか」


「そのお嬢さんの手を取っておいて、死ぬことだけは絶対に許されないぞ、ヴィタ」


 ぴしゃりと言われて思わず肩を竦めたヴィタの耳元で、ベリタスは小さく、深く、告げた。


「……今日まで縛って、悪かったな」


「──!」


「私にできるのはここまで。後は上手くやりなさい。……ここから先は誰にも正解がわからない、お前達だけの道なのだから。誰に監視されていても、監視されていなくても。魔法があっても、なくても。生きて──」


 とん、と背中を押されて、ヴィタは驚いた顔のままベリタスを振り返った。

 ベリタスはゆっくりと視線をヴィタからメリアリーヌに移すと、束の間、眩しそうに──あるいは懐かしそうに──目を細めて微笑んだ。


「……お嬢さんも。無理に白を着せる羽目になって、申し訳なかった」


「え? ……あ、え? このドレスのこと? ……え? じゃあもしかしてこの婚約話ってスペルトリガーが関係してたの……?」


 驚くメリアリーヌの今更の反応に、ベリタスとヴィタは揃って声を上げて笑った。彼女の明るさがなければ、二人に笑顔は戻ってこなかったかもしれない。


「お嬢さん、最後に名を教えてもらえるかな」


「ええ、いいわよ。──メリアリーヌ。メリアリーヌ・フロラ・フィオラーレよ。……あ、でも、たった今ただのメリアリーヌになったところだけれど」


「そうか……あたたかな春の花、そのもののような名前だな」


 ベリタスの言葉にメリアリーヌはきょとんとエメラルドの瞳を瞬かせて、それから声を立てて楽しげに笑った。


「ふふっ……! 二人して同じことを言うのね。やっぱり〝親子〟だからかしら」


「「親子?」」


 声を重ねて、魔法使いの二人は顔を見合わせて。

 そして互いに浮かべた表情は、確かに〝親子〟でもないと交わせないような、哀しみも慈しみも込もった、一言では言い表せないような笑みだった。


「それじゃあ…………」


 一歩後ずさって、ヴィタは逡巡し。

 晴れやかな笑顔で一言、ベリタスに向かって告げた。


「──いつか、また」


 ベリタスは静かに目を見張ると、穏やかに頷いて、ゆっくりと森の緑の中へ溶けていった。


「……とてもいい人ね、あなたのお父様」


「そうだね。今、ぼくも初めてそう気づいたところだ」


 指し示された道を走りながら、二人、繋いだ手と手の指を絡める。


「けど、いいの……? 杖を捨てて……せっかくあんなに素敵なお父様がいるのに、スペルトリガーでなくなってしまって」


「いいんだよ。多分、ぼくは、今日に至るためにスペルトリガーになったんだ」


「どういうこと?」


「それは……」


 きみと、出会うために。

 そう告げるのは流石に気恥ずかしいので、ヴィタは咳払いをするに留めた。


「──それより、きみの方こそよかったのか?」


「何が、かしら?」


「ぼくと一緒にいたら、きっともう元の生活には戻れないよ。美味しいご飯やあたたかいベッドも──ドレスだって一生着れないかも」


「ああ、なんだ。そんなことね」


 あっけらかんとそう言って、メリアリーヌは楽しそうに白いドレスを土で汚しながら答えた。


「わたし、ドレスより着たい服があるから、いいのよ」


 そして、絡めた指に力を込めて。メリアリーヌは、陽光と自由を全身で受け止め、きらきらと瞳を輝かせると、眩しいくらいに大きく笑った。


「──あなたと同じ色の、素敵な夜色のローブ!」


「……うん。そっか」


 指に力を込めて返して。ヴィタも眩しい朝陽の中、きらめく春風に最後の涙を散らして笑った。


「素敵、か。……そうだね。きみが言うのだから、きっとそうなんだろうね」


 きっと〈スペル〉がなくても、この世界には魔法が溢れているのだ。

 どんな瞬間も世界を輝かせる、魔法の言葉。

 文字があってもなくても、その不思議な力はいつの時代もこの世界に満ちていて、今日まで幾つもの朝を繋いできたに違いない。

 ありふれた言葉。珍しくもない言葉。

 けれど誰にだっているはずの、自分にとってたった一人の魔法使い──世界を輝かせる存在。その口から紡がれた言葉には、その手で綴られた文字には。きっと奇跡を叶える力だって宿るのだ。


「ぼくも、そう、思うよ」


 凍えた感情さえも溶かす。褪せた心に色さえ与える。

 夜の終わりに訪れる朝陽のような。冬の終わりを告げる春風のような。

 世界中のどんなものより眩しく、優しく、愛おしい。魔法の言葉は、今日も、世界に朝を与えていく。

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