第18話 白と黒の境界線

「……魔法使い……⁉︎ 一体何の用だ!」


 恐怖に歪んだ顔で唾を撒き散らして喚く御者台の男を見て、ヴィタは上がった息を肩でついてから、ほう、っと一つ長い吐息を吐いた。


 伸び放題の枝葉に肌を裂かれながら、硬い根に足を取られ転びながら、それでも足を動かし続けた甲斐があったようだ。まさかこの道に至るまでにまた崖を登る羽目になるとは思っていなかったから、間に合ったのは本当に運のなせる業だと──ヴィタは今まで微塵も信じていなかった天上の神に向かってこの幸運を感謝した。


 ヴィタは血の味のする固い唾液を無理矢理飲み込み、ひりつく喉に朝の冷たい空気を吸い込むと、出せる限りの大きな声で質問に答えた。


「ぼくは、お前達の言うところの悪い魔法使いだから。悪者らしく攫いに来たのさ」


 そして、馬車の中にいるはずの彼女に向かって叫んだ。


「メリアリーヌ! きみに〝冬〟は似合わない! ぼくだって、きみには似合いっこないけど……こんなに遅くなってしまったけれど、それでもいいなら受け取らせてほしいよ。きみの〈スペル〉を。きみの──」


〈想い〉を──


「ヴィー!」


 馬車の中からメリアリーヌが返事をした、その声に御者の男はハッとして手にしていた鞭を思いっきり馬の尻に打ちつけた。道に転げ出てきたヴィタを轢かないよう咄嗟に止まった彼だったが、メリアリーヌが馬車の外に出てしまう可能性と魔法使いを轢き殺すことを天秤にかけ、すぐにその答えを導き出したようだった。

 驚いた馬達が蹄で土をえぐって、ヴィタに向かってまっすぐに走ってくる。


 ヴィタは──横にめいっぱい広げた腕を下ろさないまま、その場から動くこともしなかった。

 この場を切り抜ける妙案は、全く思いつかなかった。

 彼女をこの道の先へは行かせたくない。それ以外の一切の考えは、ヴィタの頭の中にはなかったのだ。ただ、彼女を止めたい。そんなわがままのためだけにヴィタは情けなくもここへ来たのだから。


(どうしよう。何も考えられないな──)


 突進してくる馬達と、一応は人を轢くことに罪悪感を抱いているらしい引き攣った男の顔を見ながら、ヴィタは、何故か薄らと笑っていた。生まれてこの方、自分がしたいと思ったことを心のままに実行したことがなかったから、この先どうしたらいいのか想像もつかないのだった。

 想像はつかなかったけれど、彼女をこの手で引き止めたいという気持ちにだけは嘘を吐きたくなかったから。ヴィタはただまっすぐに、道の真ん中に立っていた。

 猛突進してくる馬達が、今にもヴィタを蹴り殺す──と思われた、その時。


「──ヴィー!」


 ばんっ!と荒い音を立てて、馬車の扉が勢いよく内側から開けられた。

 そして、蜜のような朝陽の中、真っ白な花が宙に咲いた。

 眩いばかりの、やわらかな白。それがドレスで、ドレスを身に纏っているのがメリアリーヌであると認識した時のヴィタの動きは、驚く程に速かった。

 馬に蹴られるすんでのところで真横に倒れて、走る馬車の上から飛び降りた彼女の身体をがっしりと受け止めると、そのままごろごろと硬い地面の上を二人して転がる。

 このままでは崖下に転落してしまう──そのぎりぎりのタイミングで、ヴィタはなんとか全身を捩って転倒の勢いを殺した。それから、胸の内に抱えたメリアリーヌの顔を大慌てで見下ろした。


「メリアリーヌ! 無事──」


「ヴィー! 大丈夫⁉︎」


 無事か、と聞こうとした途端、顔を跳ね上げ食い気味に問われて。ヴィタはこんな状況下にも関わらず、きょとんと瞬きをした後、声を上げて笑ってしまった。──本当に、なんて無茶をするんだろう。そして、なんて眩しく、まっすぐで、自由な心を持っているのだろうか。


「──きみはいつも上から落ちてくるなぁ。……まったく、無茶ばかりするよ」


「ヴィーの方が無茶苦茶よ。顔も手も切り傷だらけじゃない。一体何をしたらこんなことになるの?」


 メリアリーヌの手のひらがヴィタの頬に触れる。ずきり、とどこかで切った傷が痛んだが、泣き出す寸前のような彼女の笑みを見ていたら、もう、痛みも何もかも、どうでもよくなった。


「でも──ありがとう。また、受け止めてくれて。それから、受け取りに来てくれて」


 そして、頬に添えられていない方の彼女の手が、ゆっくりと開く。そこにはぐしゃぐしゃに握りしめられていた真っ白な紙と、炭で書かれた、太くて、少し不恰好な──けれどどんな〈スペル〉よりも強い力を持つ魔法の言葉が綴られていた。


「……ああ」


 零れた声は、彼女に対する返事だったのか、嘆息だったのか、ヴィタ自身にもよくわからなかった。

 魔法使い同士にしかわからない、文字を介した想いの届け合い。気持ちの伝え方。

 初めて彼女が自分だけに綴ってくれた言葉──〝嫌いじゃない〟、〝好きよりももっと、大きくて強い〟。

 その綴りはヴィタが今まで見たどんな〈スペル〉よりも眩しく、優しく、あたたかく、美しく見えた。


「ヴィー? ……どうして泣いているの……? 使い方、間違ってた?」


「……ううん。けどね、メリィ。昔からその〈スペル〉は男から贈るものと相場が決まっているんだよ。だから」


 泣きながら、笑って。ヴィタも懐から、握りしめ続けたせいですっかりよれてしまった紙を彼女に差し出した。

 手紙というには短すぎる、たった一言の〈スペル〉。魔法の中でもうんと強い力を持つ綴り。彼女が綴ったものより整った、けれど全く同じ形をした〈魔法の言葉〉を。


「──お嬢様!」


 半ば落ちるようにして御者台から降りてきた男が、二人に向かって走ってくる。

 しかしすぐに彼はぎょっとしてその足を止めた。

 朝焼けの空の下。二人、手を取り合ってゆっくりと立ち上がる。

 崖を駆け上がってきた朝の風が、二人の髪を、服を揺らす。

 真っ黒なローブに夜色の髪の少年と。

 真っ白なドレスにおひさま色の髪の少女と。

 朝陽を背負い毅然と佇む二人は、まったく真逆な存在で。けれど、それでも指を絡ませ、身を寄せ合い、〝一つ〟の存在となって、今、そこに生きていた。


「……お嬢様、いけません…………こちらへ、お早く……」


「行かないわ」


 きっぱりと、はっきりと。メリアリーヌの口から拒絶の言葉が放たれた。くしゃりと顔を歪ませる男に、メリアリーヌはゆっくりと微笑んで、その頭を隣に立つヴィタの胸に預けた。


「……困らせてごめんなさい。けど、わたしは悪い子だから。世界から見ても大特異点だから。この世界のどこにも居場所がないから。だから──もうこの人の隣にしか居られないんだわ。この先も」


 絶句し硬直する男の前で、ヴィタが少しぎこちない動きで、けれど確かにメリアリーヌの肩を支えた。その光景でようやく男も目を覚ましたらしかった。


「お嬢様から離れろ、魔法使いめ‼︎」


 腰元から護身用のナイフを抜き放って、男が喚く。それを見てヴィタは小さく吐息を吐くと、心底残念そうに微笑んだ。


「ナイフを人に向けてはいけない。スペルトリガーから言われたことはなかった?」


「うるさい! お嬢様をイベルン邸に届けなきゃ俺は──帰れないんだよ! 魔法使いが、イベルン家に嫁ぐお嬢様の身に触れるんじゃ……ねぇ!」


 ナイフを振り回しながら、男ががむしゃらに走ってくる。


「やれやれ……本当に、ぼく達は長年、何を戒めてきたんだろうね。文字を奪った程度じゃ、人間も世界も、そう変わらないというのに」


 ヴィタはいっそさっぱりとした笑顔でそう言うと、怯んで身を竦めたメリアリーヌの手から自分が今しがた渡した紙を抜き取った。


「メリアリーヌ。きみからもらった手紙、使わせてもらうよ」


 そして、彼女の答えを聞く前に。

 ヴィタは黒いローブをはためかせて、自分とメリアリーヌが綴った〈スペル〉が書かれた紙を、勢いよく男に向かって投げ飛ばした。


「動くな!」


 それから、男が紙に触れる前に鋭く、芯の通った声で叫んだ。


「──それは呪いが書かれた呪符だ。触れればタダでは済まないぞ」


「……ひっ…………」


 明らかに怯んだ男に、ヴィタはメリアリーヌの肩を抱き寄せ崖の方へと後退りながら、精一杯の悪い笑みを浮かべて言い放った。


「ぼくは魔法使いだ。祈りも綴れれば、呪いだって綴れる。その呪符に書かれた〈スペル〉の力は、魔法の中でも殊更強いものだ。──死にたくなければ追いかけては来ないでくれ」


 ヴィタの言葉に、男は完全に戦意を喪失したようだった。絶望しきった顔でその場にへたり込むと、震えながら二人の恋文を怯えた眼差しで見やっていた。文字が読めない人間には、どんな綴りも得体の知れない気味の悪いものにしか見えないのだ。

 ヴィタとメリアリーヌは顔を見合わせると、苦笑をして、崖下へと慎重に足を下ろしていった。

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