第17話 どうでもいい
運命の七日目の朝は、いつもより深く霧が立ち込める日だった。
なんとなく眠れなくて、ヴィタはついに一睡もしないまま空が白んでいく様を見上げていた。
今日、メリアリーヌは婚儀のために屋敷を発つ。この思い出ばかりが残った森には二度と現れない。
(結局、出て行けと言われたのに留まってしまったな……)
蹴られた鳩尾はまだ鈍く痛む。黒いローブの上からそっと腹を撫でて、ヴィタは澄んだ朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、瞳を閉じた。
きっと彼女のためを思うなら、彼女の旅立ちを喜ぶべきなのだ。
これは、ヴィタとメリアリーヌを監視していたスペルトリガー達の、最後の温情とやらなのだろう、と思った。メリアリーヌの話を聞く限り、屋敷の中ではあまり大事にされていなかった彼女に唐突に舞い込んだ婚儀の話。きっと大陸を渡る他のスペルトリガー達にも二人の情報は伝わっていて、皆して〝それらしい〟理由を作って、彼女の身と心をヴィタから遠ざけようとしているのだ。
(命を奪われるより、スペルトリガー達の〝家〟に一生囚われるよりマシだ。スペルトリガー達に囲われて生きるよりは、今は好きではなくても、誰かに愛されていたほうが……その方がはるかにいいはずだ)
大特異点は始末すべき。そう教え込まれてきたヴィタだからこそ、これが破格の処置であることをよく理解していた。
きっと彼女はこれから一生、遠く近く、スペルトリガー達に監視され続ける。けれど、彼女自身がそれに気づきさえしなければ、彼女の心や自由は守られるはずだ。
(そのはず、だろう?)
二度は与えられない、彼女を救うための唯一の手段。これ以外の答えなんて、あるはずがない。彼女を思うのなら、ヴィタが選ぶ道は決まっている。
なのに。
「……困ったな。なんで、きみはそうやって」
薄く笑って、ヴィタは腰の巾着から一枚の紙を取り出すと、泣きだしそうな顔のまま、その強すぎる魔法の言葉を見下ろした。
「文字を使わなくても、言葉を使わなくても、この場にいなくたって……いつだってきみは、なんで、ぼくなんかより、よっぽど容易く魔法を使ってのけるんだ…………」
紙面に踊るのは、ヴィタが生まれて初めて自身の意志で綴った、魔法の言葉。
一生に一度、ただの一人にだけしか使えない、ヴィタが知る限り最も強い力を秘めている〈スペル〉。
(もう、これを届けることは、叶わないけれど)
手紙というには短すぎる、ただの一言が書かれた紙。ヴィタはそれをぐしゃりと握りしめると、勢いをつけて屋敷に背を向けた。今度こそこの地を去るために。
彼女を想うなら、可哀想ではあるけれど──彼女が願っていなくても、今日の旅立ちを祝うべきなのだ。
「……幸せに」
呟いて、顔を背けた、その時だった。
「──嫌ぁっ! 離して! 嫌だったら!」
そう離れていない場所から、聞き慣れた少女の声が聞こえた。
驚いて振り返っても、姿は見えない。けれど朝靄立ち込める森の中、その声は悲痛な響きを持ってヴィタの耳に届いた。
「お嬢様、いけません! そちらに行っては!」
「嫌! わたしはそっちには行きたくないの! わたし、これを渡さなきゃいけないんだから!」
そして、ヴィタが聞いたこともないような切な声が、その名を呼んだ。
「──ヴィタ……ッ!」
「……メリアリーヌ…………?」
思わず背後を振り返って、朝の森に忙しなく視線を彷徨わせる。何も見えないけれど、そこで、確かに呼んでいる。
彼女は、紛れもなく、ヴィタを呼んでいるのだ。
「メリアリーヌ!」
「……ヴィー! いるのね、そこに!」
声は崖の上から聞こえてくるようだった。がさがさと茂みが揺れる音と、使用人達のざわめきが上方から聞こえてくる。今日も彼女はドレスを汚しながらこの森に来たのだろう。大切な日に、逃れるようにして、居場所を求めて。
(メリアリーヌは望んでいないのか。嫁ぐことを……)
当たり前だろう、とも思った。自由を愛する彼女がこんな見合い話を望むはずがない。それでも、彼女の幸せを思うなら──
迷って、足を止めた。答えを詰まらせて声を呑んだ。その一瞬が、決定打になった。
「嫌っ…………」
小さな悲鳴と共に一際大きな物音がして、がさがさと足音達が遠のいていく。きっと彼女の軽い身体を担ぐことなんて、大人であればさぞや簡単なことだったろう。
「待って! 嫌、……ヴィー!」
名を呼ばれてハッとした時には、彼女の気配は朝靄の向こうへ消えてしまっていた。
「この〈スペル〉を……文字を……! ヴィーに……!」
そんな、願うような叫びだけを残して。
「…………、」
じゃり、と、微かな音を立ててヴィタの靴が土の上を滑る。よろめくように足を踏み出すと、遅れてもう片方の足もついてきた。
右足を出して、左足を出して。そんな動作を不安定に繰り返す内に、ヴィタの足は緩やかに、けれど確かに森の中を駆け始めた。
彼女の姿を求めて。彼女の笑顔を求めて。
彼女の手を、掴むために。
(なんで、)
決心はとっくにしたはずなのに。
ヴィタは駆け出した足に力を込めて、邪魔な杖を投げ捨てて、両の手を全力で振って森の中を疾走した。
(なんで、ぼくは走っているんだ)
駆ける足に、心が追いついてこない。否、心はいつも、頭で考えるより先に動いていたのだ。
理屈や感情や、立場や戒めや。
世界がどうとか、魔法がどうとか。
この身に流れる血に罪があるか、彼女の存在が世界の毒になるかどうかなんて。
そんなことは、全部。
(どうでもいい──そうだ、そんなことは、全部どうでもいいんだ)
そう思った途端、足が軽くなったような気がした。
今まで蓋をして押し込めてきた感情が爆発して、知らない間にがんじがらめにされていた枷から勢いよく解き放たれたような気がした。
彼女が嫌だと言うことを、耳を閉ざして見て見ぬふりをするなんて。
彼女の笑顔が、心が、失われていく様をただ見ているだけなんて。
「──ぼくだって、嫌だ!」
叫んで、勢いをつけて、傾斜のきつい崖を駆け上る。朝靄に湿った土は滑りやすく、接地した瞬間、足場の土は案の定ずるりと崩れていった。それでもヴィタは両の手で木の根を、岩を掴んで、不恰好でもがむしゃらに崖上まで登りきった。いつか彼女が披露してみせたような軽やかさは真似できなかったし、黒いローブはあっという間に泥まみれになったが、今はそんなことは、何一つ関係なかった。
いつも目深に被っているフードを自らの手で取り去って、汗の浮いた額をぐっと手の甲で拭って。土と木で擦ったせいで少しひりつく足で、それでも毅然とその場に立ち上がる。
彼女はヴィタに何かの〈スペル〉を届けようとしていた。文字を、想いを、届けようとしてくれていた。であれば、ヴィタはなんとしても彼女の元に行って、それを受け取らなければならないのだ。
彼女が初めてその手で綴った、彼女だけの言葉、彼女の想い。それを一番初めに見るのは自分でなければ嫌だと──そう、思うから。
「受け取りに行くよ。それから──届けに行くよ」
自分の内から生まれた魔法の言葉も。
誓いのように呟いて、ヴィタは屋敷とは真逆、北へと至る道を目指して森の中を駆け出した。一ヶ月近く屋敷の周辺に〈スペル〉を刻んできたヴィタは、この森の地形も、周辺の大方の地理も頭に入っていた。
白み始めた空の下。ヴィタは汗ばむ手で、懐に収めた紙をしっかりと握りしめ、ただ、前へと走り続けた。
「離して! ……離してったらっ!」
手足をがむしゃらに動かしながら叫ぶメリアリーヌだったが、大の大人に四方八方から抑えられては抵抗も意味をなさなかった。
為す術もなく彼女は軽々と使用人達に担ぎ上げられ、あっという間に馬車の中に押し込まれてしまった。
ばたんと荒っぽく馬車の扉が外から閉められた途端、ぱしんと鞭が馬を叩く乾いた音が響き、断りも何もなく車輪がゆっくりと回り始める。この屋敷の人間は、どんな強制的な手段に出てもメリアリーヌを北の領地に運びたいらしい。
走り出した馬車の窓の外、眉を顰めたメイド達の顔が、使用人達の困り顔が後方へと流れていく。どれもこれも異端者を見る者の目。──侮蔑の目だ。
「………………」
勢いよく走り出した馬車からは、流石のメリアリーヌも逃れられない。抵抗を諦めて、メリアリーヌは馬車の椅子にゆっくりと背をもたせかけた。
俯いた視線の先に、眩いばかりに真っ白なレースのドレスが揺れている。いつもより念入りに櫛を入れられた金髪が、肩口から一房零れ落ちて、貴族好みの強い香水の匂いが鼻をついた。
馬車の窓から後方を眺めても、誰一人彼女を笑顔で見送ってくれる人はいなかった。そしてそこには彼女の父も母も、当たり前のようにいなかった。
(まるでお人形さんね)
白いドレスにエメラルドのネックレスをつけた自分の顔をガラス窓に映し見て、メリアリーヌは自嘲気味に笑った。
このドレスも宝石も、何もかもがメリアリーヌを祝福するために用意されたものではない。ただフィオラーレ家の印象が悪くならないよう、形だけでもお嬢様に見えるよう。全てはイベルン家のために用意された装飾達。メリアリーヌのためを思って用意されたものなど、一つだってないのだ。
(お姉様の時とは大違いね。でも、これで、一応この屋敷からは解放されるのかしら……)
振り向くことも、声をかけることもしない御者台の男の後頭部を見ながら、メリアリーヌは心がゆっくりと凍えていくのを感じていた。
(イベルン──冬という意味ね。せっかく、そんなこともわかるようになったのに。また、わたしはわたしを諦めないといけないのね……)
小さい頃から、どうして誰も自分を許してはくれないのだろうと思っていた。
陽光の下を、風を切って走りたい。草花の上に手足を伸ばして寝転びたい。それだけの、誰にも害を与えないはずの希望を、自由を、自分という存在を、どうして皆許してはくれないのかと──
自分を囲う鳥籠が変わるだけ。それでも気分転換くらいにはなるかと、メリアリーヌは静かな気持ちで、窓に額をこつんと付けて、北へと至る道の先を眺めやった。
きっと自分は何をしても、何を願っても、何一つ許されることはないのだ。この世界にとっての大特異点とさえ言われたのだ。貴族に生まれていなくたって、きっとメリアリーヌは誰にも許されない存在だったのだろう、と、諦めることにした。
(でも)
乾いた心から滲むように込み上げてきた涙を目尻に浮かせて、メリアリーヌは心の奥に息づくこの数十日間を思い返した。
(あの人だけは、わたしがわたしのまま生きることを許してくれていたのよ……)
そして、届けられなかった魔法の言葉を紙ごとぐしゃりと握りしめて、瞼を閉じた。その瞬間だった。
突然馬が嗎き、御者台の男の悲鳴が聞こえた。と同時に馬車ががくんと唐突に止まって、メリアリーヌの身体は反動で前方へと投げ出された。
「い……ったた……一体何──」
「何だ、お前は‼︎」
問いかけより先に御者の大きな声が聞こえてきて、メリアリーヌは打ちつけた額を抑えながらぱちくりと瞬きをした。その拍子に涙が一粒転げ落ちて──ぼやけていた視界がクリアになる。
手綱を握ったまま怯む御者の男と、急に手綱を引かれて動揺している馬達が見える。そして、その先に佇むのは──
「──ヴィー?」
メリアリーヌの唇から零れた声はきっと誰にも届かなかったろうが、まるでその言葉に応えるように、前方のその人物はゆっくりと顔を上げた。
ぼろぼろに擦り切れた真っ黒なローブの下から、通せんぼをするように突き出された傷だらけの両手。
そして今。山の端から生まれたばかりの朝陽の中。
臆することなく、隠すことなく。
堂々と顔を上げたのは、夜色の髪と瞳を持つ一人の少年だった。
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