第5章 魔法の言葉

第15話 失意の朝に

 それからあっという間に五日が過ぎた。

 春の日差しが降り注ぐ眩しい緑の森を──ヴィタは虚ろな瞳で、ただ、木の根に腰掛けたままぼんやりと──身じろぎ一つせずに見つめていた。

 猶予がない。そう、あの夜、ベリタスはヴィタに告げた。

 けれどヴィタはあれから何をすることもできず、依頼が完了したために大地に〈スペル〉を綴ることもできないまま、ただただ、時間が過ぎるのを甘んじて眺めていた。


(だって、そうだろう。こんなぼくに、何ができるって言うんだ)


 本当にそれでいいのかと、胸の内から自分が問いかけてくるたびに、ヴィタは虚ろな気持ちで素早く心に蓋をした。

 もう何もしない方が彼女のためなのだ。ヴィタは、今もどこかで自分を監視しているのであろうスペルトリガー達の幻影を、木々の影に、木の葉の中に、木の洞の闇の中に感じながら──感情を殺した心でそう思った。


 ヴィタの肉体に通う血は、きっと大罪人を祖に持つものだから。

 ヴィタの髪と瞳の色は、世界を壊したその人のものと同じであるから。

 どんなにスペルトリガーとして育てられても、ヴィタ自身が何か過ちを犯していなくても、何をどう頑張っても、ヴィタは誰からも信用されないのだ。

 人間からも、スペルトリガーからも。世界の全てから、最初から。ここに居ることを許されたことなどなかったのだと、今更ながらに気づいてしまって、何故もっと早く気づけなかったのかと悔やむことしかできなくて、自分が憎くて仕方なかった。


(ぼくがここに来なければ。ぼくがあの日、ウサギを追いかけて落っこちてきた彼女をすぐにでも追い返していれば。あの時、この杖で彼女を無理矢理に戒めていれば。あの瞬間──彼女と手を手を繋がなければ)


 全てをやり直したかった。

 彼女の笑顔をあたたかく思った。彼女の声に心地よさを感じた。彼女の瞳が映す世界を見てみたいと思った。彼女の夢を叶えたいと思った──その結果が今、この有り様で。その末路はきっと、ベリタス老が言う通りの地獄なのだろう。

 自由を愛する花のような少女が、やわらかな春風そのもののような彼女の存在が、今もスペルトリガー達に監視されていると思うだけで──まるで清水を穢してしまったかのような耐えきれない罪悪感を覚えて、もう、想像の中でさえ彼女の笑顔を思い浮かべるのが辛かった。

 あの日「またね」と言って以来、彼女がこの森へやってくることはなかった。あんなに毎日足繁く通ってくれていた彼女が。


(何か……あったんだろう)


 その何かを与えたのは、ヴィタなのだ。

 心配をする権利も、行動をする権利も何もない。そう思わずにはいられなかった。


(猶予? ……何の。何をするための猶予だって言うんだ)


 そして、自らを罰する勇気もないまま、苛立ちを誰かのせいにして、ただ、身動きがとれないまま膝を抱えて蹲っている。


 そんなことを一体、何時間続けていたのだろう。

 がさがさ、と茂みの鳴る音がして、ヴィタは閉じていた瞼をゆっくりと開いた。野生の動物かと思ったが──違う。明らかな人間の足音。誰かがまっすぐにこちらに向かってきているのだ。


「…………!」


 勢いよく立ち上がって、喉元まで出かかったその名を、けれどヴィタが声にすることはなかった。

 目の前に現れたのは求めていた存在ではなかった。見たこともない、名も知らぬ男達が二人、並んで立っていたのだった。


「本当にいたぞ…………なんでこんなところに……疫病神が」


「おい、下手に刺激するなよ。呪われたらどうするんだ」


 不気味なものを見るような目で呟いた若い男の腕を、隣にいた長身の男が、同じく侮蔑の色を含んだ目でヴィタを見やりながら肘で小突く。

 庶民にしては仕立ての良いシャツとズボン。──屋敷の使用人か、と認識して、ようやくヴィタは、自分が以前よりも人間からの視線を〝痛い〟と感じていることに気がついた。彼女と出会う前ならなんともなかったはずの、人間の視線を。


「魔法使い。お前、ご主人様との契約は終えたんだろう」


 警戒色の強い言葉に無言で頷くと、二人は顔を見合わせ明らかにホッとした表情を浮かべ──次いで悪魔のような笑顔でヴィタを詰り始めた。


「お屋敷の敷地に無断で居座るなんて、許されないことだぞ。早く出て行くんだな」


「他所の土地を歩いているようなお前の体には病菌が付いていそうだからな……お前に居座られたら屋敷が病魔に冒されるんだよ。ほら、さっさと出て行けよ! ……うわ。見ろよ、この辺、そこかしこに魔法が書かれてるぜ。よくご主人様もこんな得体の知れないものに金を払えるよなぁ……」


「本当はこの魔法のせいで疫病が流行ってるんじゃないだろうな……気味の悪い……。……おい、何こっち見てんだよ! 早く他所に行けって!」


 しっしっ、と手で追い払われて、その病魔を祓うための〈スペル〉を書いたのは自分なのになあと呆れながら、ヴィタは慣れた身のこなしで彼らから距離を取った。〈スペル〉が読めないから仕方ないとはいえ、本当にこの使用人達は〝ご主人様〟の意向を知っているのだろうかと疑問に思わずにはいられなかった。


(メリィなら一目で、屋敷の周りに書いた陣の中身も読み解けるだろうにな)


 そう思ってみたけれど、彼女がここにいない事実が変わるわけでもない。

 元の生活に戻るだけだ。使用人の言葉も尤もであるし、ここに居たって何もできないのだから、言われた通り大人しく立ち去るのが吉だろう。

 そう思ってヴィタが屋敷に背を向けた、その時だった。


「ミーザメイド長の言う通りだったな。まさか本当に魔法使いがまだこの森にいたとは。やっぱりメリアリーヌ様の特殊さはこいつのせいだったんだなあ」


「ああ。昔から変わった方だとは思っていたが──まさか魔法使いの悪い魔法に操られていたとは」


 突如聞こえた彼女の名前に、魔法という言葉に、足が止まった。そして、


「本当に、ご婚約前にわかってよかったよなぁ」


 そんな言葉に、ヴィタの時が止まった。


「──今、」


 掠れた声を何度か咳払って、ヴィタは和やかに笑いながら帰路に就く使用人達に手を伸ばした。そして、ぎくりと硬直した二人の内一人の肩を荒っぽく掴んで、噛みつかんばかりの勢いで問いただした。


「今、なんて言ったんだ⁉︎」


「──っうわぁああ⁉︎」


 しかし答えの代わりに返されたのは、情けない男の悲鳴だった。ヴィタに肩を触れられた男は、まるで毒虫を見咎めた時のように何度も服を叩き、嫌悪感を丸出しにしてがむしゃらに腕を振るった。


「何をした⁉︎ 俺の体に今何をしたんだよ⁉︎ ……えぇ⁉︎ 何をしたって聞いてんだよ!」


「え……、ぼくは何も…………」


 何もしていない。と言おうとして、心の中でふっつりと、何かが切れる音がした。

 悲しい。怒りたい。悔しい。虚しい。痛い。叫びだしたい──そんな感情が途端に溢れ出してきて、ヴィタは片手で軽く顔を覆った。


(これは……これが、ぼくなのか? こんな感情、今まではなかった。いつからぼくはこんなに弱くなってしまったんだ……)


 それが彼女と出会ってからなのだと答えが出た瞬間、ヴィタの身体は勢いよく後方に吹き飛んでいた。使用人が放った蹴りを鳩尾にまともに受けてしまったのだ。


「この疫病神が‼︎」


 息と胃液とを吐き出しながら嘔吐くヴィタの頭上から、使用人の罵声が降ってくる。


「そうやってメリアリーヌ様も毒していったのか⁉︎」


「……やめろよ、殺したら他の魔法使いに祟られるかもしれないぜ」


 言われのない暴言。暴力。

 よほどお前たちの方が上手く呪いを使うじゃないかと言いたい気持ちを堪えて、ヴィタはただ与えられた情報の断片に縋った。


「……メリアリーヌはどうしてるんだ。あの娘は無事なのか。頼む、教えてくれ…………」


「こいつ……気安くメリアリーヌ様の名前を呼ぶなよ。あの方はこれからイベルン家のお嬢様になられる大切な方なんだから」


 ヴィタが伸ばした手を気味悪そうに見下ろして、肩に触れられた男は「行こうぜ」と長身の男に声をかけた。


「とにかく、明日の朝までにはこの敷地からすっかり出て行ってくれよ。お前みたいなのにいられたら、せっかくの祝い事が台無しだ」


 長身の男の言葉を最後に、二人は地面に座り込んだヴィタを置いてそそくさと屋敷に戻っていった。


(明日…………)


 言葉の欠片を繋ぎ合わせて、ヴィタは、森の木々の向こうに見える屋敷の屋根を見上げた。

 明日──与えられた七日間の猶予、残された最後の一日がやってくる。

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